大家、と呼ばれたその老人は、煙草の煙をくゆらせ、ふうーっと、それを一気に吐き出した。

「鍵を貸して欲しい、ねえ」

「はい」

 高杉、と名乗った女性と共に、私は自分のアパートの大家さんの部屋を訪れていた。部屋はよく人が訪れるのか、小奇麗に片付けられている。茶色の革製のソファが四脚並んでいて、真ん中には木製のテーブルがあった。

 私と高杉さんは、そのソファに座って、大家さんと顔を突き合わせていた。

 テーブルの上には、大家さんの奥さん、と見られる女性が先程出してくれた、緑茶が並べられていた。つい先程まで湯気を出していたその緑茶は、湯気が出なくなって、もう久しい。

「もう一度言うが」

 大家さんは先程言った言葉をもう一度、放り出すような口調で繰り返す。

「あんたは確かにあの部屋の契約者だし、契約は今でも有効だ。だが、あんたはまだ記憶喪失で、厳密にあの家の人間とは言えないだろう? 記憶喪失の人間に鍵を渡して、後々問題があったら、責任を負うのは大家の私だ。そんなことを私が許可することは、残念だが出来ん」

「大家さん、そうは仰いますが」

 話の口火を切ったのは、私ではなく、高杉さんだった。

「その、『記憶喪失』についても。大内さん、私が聞かない内に、自分からそう言い出したんです。嘘を吐くことも出来たのに、そうしなかった。私はそういう所、以前の大内さんとやっぱり『記憶を失くしてても同じなんだな』……って思いました。私は、信じてもいいと思います。何なら、私が、責任を請け負っても構いません」

「……えっ。高杉さん、それは」

「大内さん、家の中に入りたいんでしょう?」

 思わず静止の声を上げる私に向かって、高杉さんは目を合わせて、にこりと笑ってみせる。

「大内さん、私、さっき。あなたがこの場所で、途方に暮れたように辺りをきょろきょろ見回してた時に、訳もなく、『あ、大内さんだ』って思ったんです。顔が、とかそういうんじゃなくて。あなたを包んでいた雰囲気、ううん、空気っていうのかしら。それが、以前の大内さんと本当にそっくりだったんです。ご自分では気付いてらっしゃらないかもしれないけれど。そして、そんな大内さんが、『困ってる』。いつも私にお花を贈ってくれて、笑ってた大内さんが困ってるって思ったら、急に声を掛けたくなったんです。あなたは、記憶を失っても、同じ空気の中にいて、その空気を呼吸している、って思ったんです。だから」

 高杉さんはそこまで言うと、隣に座った私の手を片手で握って来る。

「だから、私はあなたをここまで連れてきたんです」

「――っ」

 私は、返す言葉がない。

「高杉さん、あんた、気は確かか?」

 大家さんがぎょろりとした目で、こちらを睨んでくる。その目は、私と高杉さんを交互に見比べていた。

「大層なことを言っているが、あんたは、痴呆症の老人に鍵を任せるのと同じことを言っているんじゃぞ? せめて、家族の者の立ち合いの下にするべきではないのか? その方がよっぽど常識的じゃろうて」

「……いえ。それが出来ないから大内さんは一人で来たんじゃないんですか?」

「――っ」

「……っ」

大家さんが息を呑むのが解った。私は、高杉さんの言葉に、ただ驚くしかない。

「だったら、一層問題があるじゃろう! 少なくとも私は、許可することは出来ん。話はこれで終わりじゃ」

「大家さん!」

 ソファから立ち上がりかけた大家さんを、高杉さんの声が引き戻す。

「お願いします。大内さんにある、『事情』を、ここは何も言わずに酌んで差し上げて下さい。私からもお願いします」

 高杉さんが頭を下げる。

「大家さん、お願いします!」

 私は声を上げた。

「今の私には、『記憶を失う前の私』を証明できるものは、何もありません。信頼されて託されても、ちゃんと大家さんの信頼に沿えるかを説明できる言葉も持ちません。けれど、私は、……『私』として、人にかけていただいた信頼を裏切りたくないし、裏切るような真似をするつもりもありません。私は、約束を守ります。ですから、私を信じて下さい。どうか、お願いします!」

 夢中で頭を下げた私の口から、驚くほど自然に、そんな言葉が出た。

「……やれやれ」

 ふうーっと煙草の煙の臭いが空気を漂う。大家さんが煙草の煙を吐いたのだ、と私は気付いた。

「そこまで言われちゃ仕方がない。じゃが、終わったらきちんと、鍵はこちらに返してもらうからのう?」

「本当ですか?!」

 高杉さんが目を輝かせている。私は、呆然と、そのやり取りを見守った。

「……ほら。大内さん、『あんたの』部屋の鍵だ。持って行きなさい」

「あ、ありがとうございます」

 私は、大家さんがぶら下げて来た鍵を、広げた両手のひらで受け取った。

「大家さん、ありがとうございます。……ちゃんと、記憶が戻ったら、お礼に伺わせていただきますから! 本当に、ありがとうございます!」

「……ふむ。確かに、のう」

「え?」

 私は思わず、もう一度下げていた顔を上げた。

 その目の前では、高杉さんが大家さんと目を合わせて笑っている。

「『大内さん』、あんたは確かに記憶を失っても変わらんのう。その気遣い、その言葉。以前の『大内さん』と全く一緒じゃて」

「ええ」

 高杉さんはそう言うと、ぽん、と私の肩を叩いた。

「……それじゃ、行きましょうか。責任上、私も家にお邪魔させていただきますが、よろしいですか?」

「……はい! 勿論です!」

 私は、鍵を握り直し、ソファから立ち上がった。


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