私は敬子さんが目覚めるまで、ずっと本を読んでいた。

 「事故の前の」私が、栞を挟んでいた本。

 ストーリーもあらすじも、何もかも忘れてしまった今、私は二つ目の栞を使って、本を始めから読み直している。

水音がして、台所で、気配が動く。

……敬子さんだ。

 私は二つ目の栞を本に挟んで、そっとそれを枕元へ置く。


「敬子さん、おはようございます」

 そう、声を掛けると、敬子さんは露骨に嫌そうな顔をした。

「あなた、昨日言ったこと、もう忘れたの?」

「――」

 私は数瞬の間を開いてそれから、答える。

「……すみません、よく覚えていないんです」

「……っ。いいご身分よね、あなたは」

 敬子さんの苛々した声を聞きながら、私は彼女の隣で、黙って朝食の支度を手伝う。

 彼女が――敬子さんが、私の悪口を近所に振り撒いているのだということを、私は何となく気付いていた。

 表と裏。

 そんな区別をお互い様のように使い分けて、私と敬子さんは、同じひとつの家の中に住み続けている。呼吸をするのが苦しくなってから、もう、時間はかなり久しい。

 トントントン、と敬子さんの手が味噌汁の大根を刻む。

 その横で、私はホウレン草を水で洗って、根元の土をよく取る。

 ホウレン草は、敬子さんが家庭菜園で育てた無農薬のものだ。普段、パートタイムで忙しい敬子さんの代わりに、今では私がホウレン草の世話を焼いている。自分で育てて、大きくした野菜を自分で食べるというのは、なかなか豪勢なものだ。

「今日、私は用事があるので、遅くなるわ。真奈美、あなた、夕ご飯は一人で食べれる?」

 敬子さんが、切った大根を沸騰した鍋に入れながら、そう、聞いてくる。

「はい、大丈夫です」

 私は、答える。

「危ないんだから、ガスとか気を付けなさいよ。火事にでもなったら大変ですからね?!」

――子供じゃないんですから。

 そう言いそうになって、私は言葉を呑み込む。

 自分の中に燃え上がりそうになる「炎」を、燃え上がらないように、私は丁寧に宥める。

 そうして、私は、

「はい、解りました」

 そう、それだけを敬子さんに返す。

 呑み込んだ言葉は永遠に呑み込んだままだ。敬子さんに届くことはない。

「本当に、気を付けなさいよ?!」

 敬子さんが、油揚げの油抜きを始める。

 その横で、私は、沸騰した鍋の中にホウレン草を入れ、茎を柔らかくさせ始める。


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