4
私は敬子さんが目覚めるまで、ずっと本を読んでいた。
「事故の前の」私が、栞を挟んでいた本。
ストーリーもあらすじも、何もかも忘れてしまった今、私は二つ目の栞を使って、本を始めから読み直している。
水音がして、台所で、気配が動く。
……敬子さんだ。
私は二つ目の栞を本に挟んで、そっとそれを枕元へ置く。
「敬子さん、おはようございます」
そう、声を掛けると、敬子さんは露骨に嫌そうな顔をした。
「あなた、昨日言ったこと、もう忘れたの?」
「――」
私は数瞬の間を開いてそれから、答える。
「……すみません、よく覚えていないんです」
「……っ。いいご身分よね、あなたは」
敬子さんの苛々した声を聞きながら、私は彼女の隣で、黙って朝食の支度を手伝う。
彼女が――敬子さんが、私の悪口を近所に振り撒いているのだということを、私は何となく気付いていた。
表と裏。
そんな区別をお互い様のように使い分けて、私と敬子さんは、同じひとつの家の中に住み続けている。呼吸をするのが苦しくなってから、もう、時間はかなり久しい。
トントントン、と敬子さんの手が味噌汁の大根を刻む。
その横で、私はホウレン草を水で洗って、根元の土をよく取る。
ホウレン草は、敬子さんが家庭菜園で育てた無農薬のものだ。普段、パートタイムで忙しい敬子さんの代わりに、今では私がホウレン草の世話を焼いている。自分で育てて、大きくした野菜を自分で食べるというのは、なかなか豪勢なものだ。
「今日、私は用事があるので、遅くなるわ。真奈美、あなた、夕ご飯は一人で食べれる?」
敬子さんが、切った大根を沸騰した鍋に入れながら、そう、聞いてくる。
「はい、大丈夫です」
私は、答える。
「危ないんだから、ガスとか気を付けなさいよ。火事にでもなったら大変ですからね?!」
――子供じゃないんですから。
そう言いそうになって、私は言葉を呑み込む。
自分の中に燃え上がりそうになる「炎」を、燃え上がらないように、私は丁寧に宥める。
そうして、私は、
「はい、解りました」
そう、それだけを敬子さんに返す。
呑み込んだ言葉は永遠に呑み込んだままだ。敬子さんに届くことはない。
「本当に、気を付けなさいよ?!」
敬子さんが、油揚げの油抜きを始める。
その横で、私は、沸騰した鍋の中にホウレン草を入れ、茎を柔らかくさせ始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます