2
アパートに帰って来た時には、既に午後六時を回っていた。
閉じて水を切った折り畳み傘を私は開いて、玄関に斜めに立てかける。傘の水の雫が、つうっと傘のカーブを滑って、玄関のタイルの上に溜まっていく。
「ただいま」
部屋の奥に向かって声を張ると、
「どうしたの?! また勝手に出歩いて!」
そう、高い声がして、足音を立てて家の中にいた女性が玄関に迎えに出て来る。
「……すみません。今日は晴れてたから、外を歩いてたら、何か、また思い出せるような気がして」
私は目を落としながら、彼女にそう、言い訳をする。
「真奈美、何かがあってからじゃ遅いのよ?! 私は姉として、あなたを心配して言っているんですからね?! もう、あんな事故はまっぴらですから!」
「……すみません、敬子さん」
「その他人行儀な言い方も! いい加減、私のことくらい、思い出して欲しいわね! こうやって、事故で記憶喪失になったあなたの世話をずっと焼いているんだから! 少なくとも、私に『有難い』っていう気持ちが少しでもあれば、すぐにあなたは私のことを思い出すはずよ?!」
「……すみません」
私は相手の、敬子さんの目を見れないまま、そうやって頭を下げる。
私の名前。
――大内真奈美。
私の姉。
――高田敬子。
私が敬子さんから教えられた、数少ない「情報」のうちの更に少しだ。
私は、二月の始めに、会社から帰る途中の、自分が運転していた車で事故に遭ったらしい。事故を起こした相手には、怪我などはなかったが、私の車は大破し、私は救急病院へ搬送された。
……一時は植物人間状態のすれすれまでいったらしい、という話も聞く。
私は、結局、目覚めた。
けれど、それが良かったことなのか、悪かったことなのか。
私は、幾つかの記憶を、「事故前の日々」の中に置いてきてしまった。
会社に長期休暇を取った私は、近い住所にいた、敬子さんのアパートに転がり込んで、世話を焼いてもらうことになった。ちなみに彼女に後で確認したら、敬子さんの旦那様は単身赴任で家を空けているし、子供もいないらしい。
顔を突き合わせる度に、繰り返される、押し問答。
――今日は思い出した? 何で思い出せないの?
正確には「押し問答」ですら、ない。
私は、敬子さんが怖かった。彼女の叱責、彼女の苛々した声を聞くたび、私はまた、「私」が一つ、喪われていくような気がした。
私は、敬子さんに何も言えなかった。
正確には、「言わなかった」のかもしれない。
「私」を形取っていた、ゆるやかな「私」という境界線が、敬子さんの言葉の前で、どんどん委縮して行ってしまう気がした。
――敬子さん、それは「私」じゃないんです。
そう言うことが出来たら、私はどんなに楽だったのだろう。
けれど、実際の私に出来たことは、俯いて、視線を落とし、
「すみません」
と、謝ることだけ。
現実に「世話を焼いている」という敬子さんの焦りや苛々が、このアパートには充満しているような気がした。それが実際に、敬子さんの大きな負担になっていると、私は一応は解っているつもりでいた。
けれど。「思い出せない」ということも、また現実だった。
「現在の私」は、「過去の私」を受け入れて、「思い出す」ことを頑として拒否しているように見えた。
「過去の私」に何があったのだろう。何が、「今の私」を過去に結び付けまい、としているのだろう。
それを探すための鍵は、今はどこにもない気がした。
……少なくとも、私はそれをまだ、見つけられずにいた。
――また勝手に出歩いて!
そう、叱責されながら、私は、「私」を探しに出歩くことを辞められなかった。
私が外に出る時、「何」を感じ、「何」を求め、「何」に心動かされ、「何」に涙するのか。
それは恐らく、敬子さんが求めているような「思い出して欲しい私」の姿ではなかった。
……けれど、私にとっては、その「私」こそが、紛れもない「思い出したい私」だった。
私が求めていたのは、単に過去と「現在(いま)」を結ぶ、一本の単純な線ではない。
今の「私」が感じ、求めるもの。私が、愛して、愛おしんで、止まないもの。
「過去」を否定するのでもなく、ただ、私は、「過去」も「現在(いま)」も消すことのない、「私」の姿を求めていた。
そして、私にとっては、それこそが、「未来」へ繋がる、全てを乗り越えた「私」の姿だったのだ。
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