心の境界線
水沢朱実
1
春の気配が、そこかしこに漂っている。
ピンクのニットに、シルバーのペンダント。ブラウンのタイトスカートに春物のコートを私は、羽織っている。
最寄りの駅前のロータリーを、歩いて抜ける。
その途中の、右手の先で、チケットを配っていた女性と目が合った。
歩いてすり抜ける時、女性がもう一度、目を合わせて来る。
私は黙って二枚のチケットを受け取る。ぺこり、と女性が頭を下げた。
すり抜けた後で、改めて確認してみる。
それは、名前の見かけたことのある、カフェの百円引きチケットだった。
……こういうチケットで客引きをしなくてはならなくなる程、お客が入らないのだろうか。
私はカフェの名前を頭で思い返し、一度行ってみようかと考えて、かぶりを振る。
同情は禁物だ。私だって、物価の値上げで頭が痛い。
私は、そのまま二枚のチケットを鞄の奥へ仕舞い込む。どうせ、捨てられる運命だ。
横断歩道のない、横道を渡ろうとして、右折の車と鉢合わせた。私は右手を上げ、運転手に合図をする。私は、自分から先には渡らない。
運転手が、こちらを見て、手を上げるのが解った。車は、私の目の前を横切って走り去っていく。
続けて入って来る、二台目の車。私はこれにも右手を上げて合図をする。
運転手が、同じように手を上げて、道を横切って行った。
私は、「何か」を探している。
自分の中に、欠けた「何か」。
それが何なのかも解らない。
それがどうすれば解るのかも解らない。
解るのはただ、自分の中にある、ぽっかりと空いた「穴」だけ。
その存在が私に、不安を与えたり、郷愁を与えたり、する。
でも、私の中に、それが「何」なのかの答えはまだない。
それは、例えば、チケットを配る女性の手。配り疲れた手を無視せずに、きちんと受け取るような。
同情でもなく、偽善でもなく。
ただ、「受け取りたいから」手を伸ばす。そうして、私は、きちんと「私」」になれているだろうか?
途中まで考えて、やはり偽善なのではないか、と思い返す。
手を振り払わない、かりそめの優しさ。
けれど、それで店の売り上げが、増える訳ではない。
あの女性に、そして、店に必要なのは、例え一時、あの女性の手を振り払う人間でも、いいのだ。
女性の手を振り払っても、ぶすっとしたような顔をして、ずかずかとお店にやって来る客。きっと、実際にはそういう客にあの女性は、「いらっしゃいませ」と笑うのだろう。
ぽつ、と髪の毛の上に、小さな粒が当たった。
続いて、ぱらぱらと降って来る水の雫に、私は「雨」と言う言葉を思い出す。
横断歩道の目の前で、私はもどかしく鞄の中を探る。さっき、受け取ったばかりのチケットが、鞄からひらりと零れる。
――あ。
けれど、掬い上げようとする手は間に合わない。
チケットは歩道に落ちて、その上を、雨の雫が次々に黒く濡らしていく。
――ごめんなさい。
急に泣きたい気持ちになって、私はそんな声を上げそうになる。何故、行かないと決めていた筈なのに、私はそんな気持ちになったのだろう。
もどかしく鞄の中を探っていた手が、ようやく、折り畳みの傘を掴む。
ぱらぱら。
がち。
がち。
手慣れた手の動きで、私は折り畳み傘を組み立て、傘を広げる。
傘の上に広がる、雨、雨。
視界が雨の下に包まれる。
そうして、私は、すっかり雨一色になった世界の下に立つ。
早くも、水溜まりが出来だしている。その水溜まりに、あのチケットが――黒く濡れたチケットが、浮かんでいる。
信号が、赤から青になる。
少しだけの未練を視線だけ向けて、私は背筋をピンと伸ばす。
――お別れだね、さようなら。
そんな声を心の中で残して、私は横断歩道を歩き出す。
雨に濡れた黒いチケットが、水溜まりにいつまでも、揺れている。
そのチケットに、背を向けながら、私は道を歩いていく。
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