荒波にもまれて
そんなある日のこと。今日もあと一時間授業を受ければ終わる。残り一時間は、「言語表現」の時間で、作文を書く授業だ。私の、一番好きな時間。
私はウキウキして、周りの友達に話しかける。ただ、作文書くのが好き、と言うと引かれてしまう、と直感的に思ったので即興的に予定を変え、部活の話題を振ることにした。
「そういえばみんな部活どうする~?もう決めた~?」
「茶道部とか合唱部とか色々見に行ってるけど、まだ決めてない~」
「バドミントン部興味ある!莉奈ちゃんは?」
「そりゃあもちろん、古典動詞研究会!!」
マジで?、いやいやネタだよ、なんてやり取りを交わし、三人で大笑いする。ただ、私の心はどこか空っぽだった。
なぜなら、私が色を帯びていないから。無色だから。作文が好きだというのをやめ、自分を隠すことに何の意味があるのだろう。本当の自分でいる、と意気込んだものの、自分から逃げているだけな気がしてきた。
―――バカじゃん、私。
やるせないままに、心の奥に横たわっている名前のない感情を顔に出さないよう、細心の注意を払う。
ふと悠果ちゃんの方に目をやると、彼女は席について読書をしていた。昼下がりの賑やかな教室で一人。色々と思うところがあるが、そのうちに先生がやってきた。会話をしていた三人で軽く手を振りあい、席に着く。
大好きな、作文の授業が始まる。感じるはずのない苦みが口に広がっていて、なんとなく落ち込んでいたのに、これからの授業のことを考えると、不思議に気分が晴れた。
だが、今日の内容は、先週書いた作文の評論会だった。先生がピックアップした作文を生徒が順番に読んで、それに意見を持つ時間らしい。私の胸は急にしぼんでいった。作文を書きたかった。その不機嫌も相まって、すごく眠い。朗読をするクラスメートの声が右から左へと流れていく。
―――
意識がふわふわして、眠気の波に揺さぶられていく中、必死でシャーペンを動かして漢字の内職をしている、つもりだ。配られた作文集のサイズが思ったより大きく、私の顔のほとんどが隠せる。内職には本当にもってこいだ。
だが、筆線は曲がるし、ペンの置く位置はぶれるし、一向にはかどらない。イライラ任せに、シャーペンをカチカチしては、芯を出し、指でしまう、という無意味な作業を繰り返してしまう。
そんな具合に、眠気がピークになりそうなところで私の読む番が回ってきた。心の底からありがたいと思った。
「――――なので、私はこれからも人助けを続けていきたいです。」
若干字が読み取りにくい箇所もあったが、特に大きなミスもなく最後まで読めた。私はふぅ、と息を吐きだした。目が覚めたのもいいことに、内職タイムに戻る。
その時だった。悠果ちゃんの澄んだ声が、教室の空気をかすかに震わせた気がした。
私はシャーペンを置き、漢字の本を閉じて、その声に耳を澄ませる。確かに、悠果ちゃんは今作文を読み上げている。注意深くしていないと聞こえないほど小さな声だが、私の鼓膜はその振動をはっきりと捉えている。
だが、それはただの「振動」にすぎなかった。今悠果ちゃんが読んでいるのは分かるが、声の小ささには勝てず、手元の作文集を見てもどこを読んでいるのかが分からない。
その次の瞬間だった。悠果ちゃんの声が、乱れた。
―――これ、ヒヨドリと言います。昔の家の近くによくいて・・・
そう語ってくれた悠果ちゃんの姿が鮮やかに蘇る。あの澄み切った声が、今、息絶えた気がする。悠果ちゃんの声が震えていて、今にも壊れそうだ。
反射的に、斜め後ろの方の悠果ちゃんの方を向く。作文集の大きさのおかげで、後ろを向いても、多分先生にバレない。というか、もともと言語表現の先生は作文集に視線を落としがちだ。内職しても、無防備に後ろを向いても全くもって問題ない。
だが、振り向いた瞬間、ものすごい絶望が襲ってきた。
橙色、すなわち緊張が悠果ちゃんの周りに荒波を立てていた。波は押しては引き、悠果ちゃんに打ち付ける。こんなの見ていられない。
悠果ちゃんの感じる恐怖が私にダイレクトで伝わってくる。私までもが身体や精神を持っていかれそうになる。
―――どうか、悠果ちゃんが最後まで読めますように。
今は祈ることしかできなかった。空気の震えを感じながら、極度の緊張に耐えていると、先生の声が教室に響き渡った。
「はい!江田さん。ありがとう。」
どうやら、悠果ちゃんは読み切れたようだ。私の緊張の糸が切れ、息を吐いてしまう。そして、そのタイミングで授業は終わった。
はやる気持ちを抑え、挨拶を済ませると、一目散に悠果ちゃんのもとへ向かう。何を言うか。そんなのはノープランだ、でも何か言っておきたいし、悠果ちゃんにどこか報いたい気がしてきた。
「悠果ちゃん!さっき大丈夫だった?」
そうだ。私は心配しているんだ。あの声の震え方は尋常じゃなかった。
「莉奈さん・・・!ご心配ありがとうございます。人前で話すのは苦手なので・・・本当に怖かったです。」
ふと視線を下に落とすと、彼女の手が震えていた。橙色はまだ色濃く残っていて、先ほどの時間が悠果ちゃんにとって、どれほどのものであったか推し量ってしまう。共感して、つらく、怖く、悲しくなる。
「良かったらなんだけどさ、今日の放課後散歩しない?」
私はそう言って微笑んだ。
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