慣性の法則
北緒りお
慣性の法則
「なあ、慣性の法則って覚えているか?」とつぶやく。
薄暗くなった事務所の片隅で、机の物陰から返事をする。
「なんだっけ? 動いてる物はずっと動いてるって奴だっけ」と答える。
泊まり込みの仕事になってしまい会議室のイスを並べてベッド代わりにして、やっと横になった瞬間だ。これ以上話はしたくないのだが、仕事の緊張感が抜けきれず横になっただけでは眠れそうになかった。
急になにを言い出すのかと思ったが、吉田は続ける。
「いまは納品前で勢いでやってるけど、これがこのまま続いたらたまったもんじゃないよな」と続ける。
納品前のテストで気付いたら深夜三時になっている。コードを書くのに集中しているとまるで何かにとりつかれたようにアルゴリズムの世界に没頭できる。書いているときは海女が海の底にねらいを定めて潜っていくかのように一気に獲物まで近づいて、限界がくるまで手を入れ続ける、というのを繰り返す。その分、集中力の消費が激しく、一区切り付き手を離そうと思うと、体中の鋭気がすべて消費し尽くされているのに気付くのだった。
そのくせ、その世界に没頭しているせいなのか、次から次へとやることが浮かんでは消え、解消したかと思うと別角度からの検証が必要になる。
「こんな、受託の消耗作業になに一生懸命やってんだかな」と、吉田はこぼす。
たまたま、同時期に転職してきて、偶然同年代であることがわかり、なんとなく気が合うのもあり一緒に勉強会なんかに参加していた。
吉田の書くコードは大胆に流れを作るが、そのくせ抜けがなく、理論上の不具合は発生しない。一方、俺が書くコードは細かに定義をし、一つひとつのステップで検証を繰り返しているので、どのように手荒く使われても、まずは動く。
ざっくりとは、吉田のコードは生産量は多く設計図はわかりやすいが実務上の不具合に弱い、俺のコードは生産量は少ないが設計の範囲から少しはずれても動く。要は真逆の仕事なのだった。
吉田は続けて「営業がさもいい仕事のように持ってくるのは、金になるってのを横に置いとくとクソ仕事だし、こっちがやりたい仕事は金にならんし、世の中はめんどくさい」と独り言のように言っている。
一年ちょっとのつき合いだが、月に数回はこんな事を言っているので、もう口癖のようになっているのだろう。
こうやって横になりながら聞いていると、条件反射でなんか言いそうになるが、口を開く気力もなかったので黙っていた。
「でさ、慣性の法則ってあるじゃん、それが今だと思うんだよな」と吉田が重ねる。
吉田が言うことがあまりわからなかったので、「どう言うこと?」と返事をする。
「つまりさ、会社だって俺たちだってこんなクソコード製造代行業みたいなことやってたら技術なんて貯まらないじゃん? と言うことは、今はAIブームのおおかげで機械学習っぽいことやれば高い単価を取れてるけど、数年もしないうちに廃れるぜ?」と寝床代わりに並べたイスの上から少し身を起こし、こっちの方を見ながら言う。
さらに続ける。
「プログラマーだって詐欺まがいのプログラミング塾がはやるぐらいだから、数年後にはありふれた職業になるし、いまの高校生ぐらいが世の中に出てくる時代になりゃ、初歩的な言語なんて使える人間が当たり前のように世の中に出てくる世界だぜ、そこら辺のクソコードしかかけないクソコーダなんて駆逐されちまう」
俺と二人だけとは言え、すこしは言葉を選べと思ったが、言わんとしていることは判った。が、慣性の法則がどうのと言うのがいまだに判らずにいて、曖昧な返事をしているとさらに話し続けた。
「つまりはさ、ここで仕事をしていると、昨日までと変わらず明日が来るし、明後日も明明後日も何となく見えてるじゃん。仮に明日この会社が潰れようがどっかが拾ってくれるだろうから死にはしないだろうし、安全なトロッコの上に乗っかってるようなもんと思うんだよ」
ああ、と曖昧な相づちを返す。
「止まったら、みんな放り出されるぜ」と得意げに言う。
「なにから?」と聞き返すと、間髪入れずに
「“今”からだよ」と、帰ってくる。
疲れているのもあるが、なにを言っているのかつかめず「吉田、その“今”ってなんだ?」と聞いたところで、少しのタメがあり話し始めた。
「総務が話してたんだけど、今年の新卒、一人もとれないんだと。それに、中途採用だってまったく入ってこないらしくて、人員が増えないじゃん。これってどう言うことかというと、世の中のプログラマーから選ばれない会社ってことじゃん。仮に入ってきたとしても、値段だけで受注できたような仕事ばっかりで、数をこなす以外の利益の上げかたを知らない会社じゃん。少し受注が滞ったら潰れるぜ」
「滞ってるのか?」
「案件の量はかろうじて変わってないけど、単価は大きく下げてるらしい。忙しいのに収入は増えないし、何よりもやれどもやれども終わらない悪循環の入り口にいるようなもんなんだと、営業の話だと」
この会社だけなのか世の中一般の傾向なのか判らないが、エンジニアと営業の仲が悪く、半ばいがみ合うのに近いような関係で部署名以上に名前を出すことすらしない。
自分の発言で何か思い出したのか吉田は続ける。
「安売りするしか脳がないのにビジネスもクソもないだろうに、なにを偉そうに言ってるんだかな。そんなにビジネスと言いたいんだったら、まともな単価の仕事をとってきてから言えってんだよな」と急に語気が強くなる。
「それで、おまえが言ってたトロッコってのはこの会社のことなのか?」と聞くと、吉田は上半身をゆっくりと起きあげ、こちらを向いてにやりと笑い「新しいトロッコを見つけたんだ」と言う。
転職先でも見つけたのかと聞いたら、違うという。それじゃ何かと聞くと、少しもったいぶるようにこっちを見ながらこう言った。
「実はさ、当たってさ」とにんやりとしている。
思わすこっちも体を起こしてしまう。
「宝くじか? TOTOか?」と聞く。
「それじゃなくって、インスタで試しにやってみた販売が当たって、一人で生きていくぐらいならどうにかなりそうで、近々ここのトロッコから降りようと思ってるんだ。まだ誰にも言ってないから、ここだけの話な」
なにを売っているか知らないが、辞めるというのに驚いた。
「なにを売ってるんだ?」と聞くと即答で「川の石」と来た。
「え、拾ってきたのを?」
「近くの川じゃないけど、まあ、見栄えのがいいのが転がってるところがあって、それを磨いて見たら綺麗になったんで、売れないかってやってみたら、売れたんだよね。へんにがんばらないで石の形をそのままに綺麗にしているからそれでそこそこ売れてさ。そもそも少ない休みを石を削るのに使っても収入につながるからいいぞ」と、言う。
「それじゃ、休みの日はずっと石を磨いているのか」と聞くと、そうだという。
「家賃と光熱費とか腹ったらほぼ残らないけど、誰のためにもならないコードを書いてるよりは断然気持ちがいいし、なによりも、石に使う時間を増やせれば、もう少しは売り上げも伸びるだろうし」とうらやましくなるような言葉が続く。
「そうかー、辞めるのかー」とほとんど感情のはいてない選別の言葉を贈る。
「なんか、こういうのって自転車と一緒で動き出しちゃえばこけないらしいから、あとは止まらないように気張るしかないね」と言う。
「そうかー」とまたも気のない返事をする。
体は疲れているし、目の奥が重くよどんだようになり、まるで疲れのヘドロが貯まっていかのようだった。けれども、この話のあとでは眠気が飛んでいる。会議室の電気は消してあるが、廊下から入ってくる明かりで天井の蛍光灯の形など、薄暗いのに目が慣れていくにつれて輪郭がはっきりとしてくる
考えるともなしに頭に浮かぶことは、明日の納品をすましたらどうしようかという事だ。
吉田がいう“ここのトロッコ”は動いてなどいない。ほぼ止まっているようなものだ。ならば、なにか動いているトロッコに乗らないとこのまま一緒に止まり続けてしまうことになる。
よそのトロッコに乗るか自分でトロッコを走らせるかはともかく、止まったままのトロッコからはさっさと降りなければいけないと焦る気持ちが沸いてきたのだった。
慣性の法則 北緒りお @kitaorio
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