夏─クチナシ
私と彼のあいだに咲く
─クチナシ。
生まれる
同じ生活に慣れ親しんで……もう何年?
甘い香り
甘い抱擁
甘い時間
時計見て、お腹鳴らし、彼の帰りを待つ私。……口を挟む訳ではないがここ最近、彼の帰りが遅い。帰ってくると必ず、香水のような花の薫りがしてくる。その匂いはキツく、甘ったるい花の─独特の。
嗅いだだけで鼻腔を突き刺す、間違いなくクチナシの薫り。
気位高く、まっ白に咲き誇る花弁は清楚感漂わすがそれとは裏腹に、誰彼構わず気を引く、惑わす、高貴で甘美な。
まさかねと、脳裏が疑う。でも「浮気」と訊ねようともしなかった。
彼に対し、そこまで冷めているの?
不思議がる私がいた。
首を傾げ、スマホを弄り始めた瞬間、お腹がキュッと引き攣り、「くぅう」と音がした。
平日の夕飯作りは彼なのに……。
浮気の心配より空腹が勝っていた。
どういうこと? これで良いのか私?
最初の頃は順番で夕飯を拵えていたが私の帰宅が定まらず、いつの間にか彼が当たり前のように作っていた。
帰りが遅いときは必ず連絡を寄こしていたがここ最近、それすらも……。
お腹すいたなぁ。
「淋しいなぁ」
ん?
今、恥ずかしい
今のは気の迷いだ。
夜の営みが優しくなったから?
いやいやだからとて、そんなすぐに変化が起きるのは違う……かなと、思う。
そういえば、冷たい態度を取り始めたのは──どっち?
時計の短針は9を差し、長針は6の手前にあった。気が付けば針と睨めっこ。彼の夕食が待てないときは平然と、コンビニなどで調達していたのに……。
モヤる。
これもそれも、彼が最近クチナシを纏って帰宅するからだ。
空腹につけ「遅い」という苛立ちも混ざり、ソファにあるクッションに手が向かう。クッションを彼に見立て、ぼんぼんとソファに打ち付けた後、前に投げた。
するとソファの隙間から一冊の文庫本がポンと、跳ね落ちた。
『源氏物語』
ああ、懐かしい。教科書に出てくるやつ──、現代だと男女拘わらず自分好みに異性を育てるゲームで有名な「
落ちた本を拾い、訝しんだ。
まじまじと表紙と裏を眺めた。あの人は本当に幅広く本を読むんだ、「うむっ」感心感心と、なる私がいた。
どんだけ本が好きなんだろう?
「ふぅん」とソファに寝そべり、文庫を弄り始める。
……これって愛憎劇がエゲツないのよねぇ、私の解釈だけ……ど。
ページを捲ると、ちょうど六条御息所という名が目に入った。
ああ、あの御息所かぁ、この人怖いのよね〜でも同時に可哀想な人なんだよなぁ。
私は本を読んだ学生当時を振り返り、その時に綴った感想を頭に浮かべた。……そういえばこれにも、クチナシが出てくる。
本中の御息所は源氏に溺れる純な未亡人。夕顔に嫉妬し、クチナシの香りに酔いながら怨念纏う生き霊と化してしまう─。
フフ、怨霊─か。
彼に女の影を疑ったことが実は一度だけあった。しかもゲームに似た「源氏計画」。
あれはあの人の姪っ子が高校受験の時だったかな、確か。
指でページを摘んだ。
甘い花が、噎せ返る時季。
あの子の家の庭にある翠の合間から、雪のように白く八重に咲き誇る花があった。
初めて八重咲きの
どこにいてもあの子は佇まいが人形で、そして子猫を思わす甘い仕草。「叔父さま、叔父さま」とあの人に纏わり付いていた。姪っ子の丁寧な言葉遣いも、お淑やかな所作振る舞いもあれは……、彼に気があったから。
女の直感。
それに、彼に連れられた私に毎回喧嘩を吹っ掛けていた。あの人の様子も満更そうではなかったよう見えたけど実際、どうだったんだろう。
私はいつかあの人に見放さる。
彼はあの子を手籠めにするんだ。
と、肝を冷やしながらあの人に「あの子に手を出さないの?」って、揶揄ってたことがある。
フフ、懐かしいな。(チクリ)アレレ。
あれ今、胸に何かが刺さった?
「源氏の君」だね、なぁんてあの人を
やだな、苛立つなぁ(自分に?)
そうかあの時私はヤキモチを起こしていたんだと、今さら胸を痛めた。もし嫉妬の炎に灼かれていたら─、繊細可憐お淑やかなあの子は『夕顔』で、差し詰め私は怒りで狂う『
……それは、比喩し過ぎ?
渇いた笑みのあと顔の上に本を乗せ腕をだらりと、下ろした。
お腹空いたぁ。いつ、帰って来るかなあ。
彼のことを考え、ソファに体を預け寝転ぶ私の手に何故か冷たくツルンと湿ったモノが触れた。
ジメッと濡れた物が指をツツンと、せっついた。
びくっうと腕を上げ、体を起こし不思議に周囲を窺うも何もない。
背筋をゾクリとさせ、肩を竦めると「ニャー」と子猫の聲が。
……え?
「ミヒィ」
この
でも知らないうちに入っていたら?
顔を下げ、床擦れ擦れに辺りを探した。足下をゆっくり、モタモタと逃げる子猫がいた。
ああ、居た。でも何処から?
小さな猫はソファの下へと、潜り込んでいく。
あれれ、捕まえないと大変だ。
私はソファに手を伸ばし探る。狭い隙間に頭だけを突っ込み、もぞもぞ動く毛玉に触れた。
捕まえ─? アレレ、
その時ふわっと、甘ったるい匂いが上から降ってきた。身体をビクつかせ、背後を振り返ると端正な顔がすぐそこにあり、いきなり唇が重なる。
最近、彼は目が合うと容赦なくキスしたがる。軽い挨拶のつもりなのか。
ここ暫くなかった彼の甘ったるい行動が、私の胸を突いている。
(モウッ!!)
ソファの上で唖然と固まる私の耳に彼の息が触れ、ひょいと持ち上げられる柔らかい生き物。
私の視界を越え、ぱたぱた小さく蠢く
「ん、コラコラ暴れるな」
「ミヒュゥウ」
捕まえた子猫と奮闘するこの人の頭には白い花と翠の葉、服は泥、それに芳醇な香り……。
「ごめん、連れて来るつもりはなかったんだけど雷の所為で離れないから」
「カミナリ?」
なんだ? という表情で固まる私に手渡されたのは、額にM黒文字が刻まれたフワフワの白い子猫。
手の大きさと変わらない子猫がもぞっと、手足をバタつかせ水色のつぶらな瞳が私を覗き、ミヒィと啼いた。
抱き寄せるとモフフワだ。
この子に癒される優しい
(カワイイ─……)
「稲光、すごいよ」
彼は外の閃光を見て無邪気に微笑んだ。云われ気づく私は外の景色に「おお」と感嘆していると手からひょいと
「僕を洗うついでにこれも洗うから、呼んだら取りに来てね」
「みひぃい」と啼く
「いいな」
ぽつりと、羨ましそうに言葉を発した。
! 最近の私はどうかしている。
子猫を嫉みつつ、閉じられた扉を眺めるなんて……。手のひらをきゅっと閉じ、握りこぶしを作ると私のお腹が鳴った。
ああと悲嘆しお腹を撫で、冷蔵庫を漁った。
あっプリン発見♪
喜び、手を伸ばす私の頭に何やら濡れた物体が乗った。
「呼んだのになぜ来ない」
声に驚いた私が振り向くと、斜視する彼がそこにいた。たじろぐ私だが同時にグルルと、お腹から獣の音がした。
「ごめん」と笑う彼は子猫を私に渡し、「猛獣二匹」と言いながら冷蔵庫から卵と冷や飯を出した。
「最近遅かったのはその子、構っててさ」
中華鍋を片手で振るい、ジャッジャと音をさせる傍ら遅い帰宅理由を話す彼。私は子猫用に茹でられた鶏肉を細く指で裂きながら、話を訊いた。
クチナシの木の下に落ちていた子猫は今は落ち着き、私の指にしゃぶり付いていた。
猫を眺め、安堵する私がいた。
! 浮気を心配していた訳ではないぞと、自分に言い聞かせる傍ら、自分の滑稽さにニヤついた。止まらないニヤつきは微笑となり、子猫に向けていた。
私の笑顔の意味を知ってか知らずか、彼も一緒に微笑んだ。
「可愛いよね、里親はもういるんだ」
彼のひと言に、しゅんと哀しくなった。その日は二人と一匹、川の字になり寝ついた。
安心した子猫は真ん中ですやすや、たまにピーと鼻息しながら手を顔に近づけ軽く痙攣しつつ、丸まり寝ていた。
(フフ、どこの子になるんだろう)
翌日、私の心配を余所に小さい
「いつでも逢えるね」
呆け顔の私を見て、ニヤリと彼は得意気に。それならそうと言ってよ──。
心配して損した。
子猫は彼の実家に着くなりケージから放たれ、楽しそうに家の中を駆け回る。どこかで打つかる音がすると物が落ち、ミヒィと小さい悲鳴が訊こえた。
彼と私は顔を見合わせ、笑った。
◇◆◇ ◆◇花言葉◆◇ ◆◇◆
クチナシ(梔子)
「とても幸せです」「優雅」
◆◇◆ ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
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