第3話 烈火の如く止水の如く
館の奥座敷にて、二人は館の主を待っておりました。
行儀良く通された訳では無く、強盗宜しく、無許可で上がり込んで奥座敷を陣取り、大声で家主を呼びつけたのですが。
無論、やったのは白蘭。
海老蔵は恐縮しながら後に続いた次第。
館の中は大慌のようで、準備が整うまで時間が掛かりそうな様子。
普通なら警備なりにつまみ出されるなり、下手をすれば処分されそうなものですが、その気配は無い。
白蘭という護符の効き目を信じることにし、海老蔵は口を開きます。
「で、此処は何だ?」
「維新志士様のお屋敷よう。出は萩」
「萩って…」
海老蔵は眉を潜めました。
そんな海老蔵を尻目に、白蘭はニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべながら家主の素性を話し始めました。
この館の主は、黒本某というそうで。
海老蔵にはとんと聞き覚えはありませんが、どうやら長州出身の志士だそう。
別段、倒幕では目立つ働きをした人物では無いが、一つだけ。
ただ一つだけの働きでこの館を与えられ、しかし、長州から、そして、中央から離れる事となった。
その理由は、と白蘭が口を開くところで邪魔が入りました。
まあ、お約束というやつです。
奥座敷に陣取った白蘭に簡単な説明を受けている最中、館の主が姿を見せました。
でっぷりとした男、というのが海老蔵の抱いた第一印象でした。
それに、白蘭に向ける眼が好色と怯えに濁っている。
俗物というのが一番適切に思えてならない、そんな男。
「やあやあ、バイマオ!久しぶりじゃないか」
脂っこい笑みに、柔らかな微笑みを白蘭は返します。
「今の私は白蘭よ」
傾国の笑み。
海老蔵にしてみれば些か慣れが出てきたそれですが、この笑みというのはなかなか面白いものでしてな。
類を見ない程の美しさである白蘭の笑みというのは、まあ、忘れ難いものでして。
一度でも微笑まれれば、何も知らない男などは舞い上がってしまうものです。
先程の茶屋の主人なんかが好例ですな。
しかしながら、逆に。
あの笑みを見て怖気が走る面々もいらっしゃる。
忘れようにも忘れられない笑みと、セットで何かを思い出してしまう。
主に幕末期の思い出であるらしいそれ。
バイラン、またはパイランというのも、その当時の源氏名だったそうです。
ちなみに、周りがその名を言うたびに、海老蔵なんかはシャオパイじゃなかろうかと思っています。
そんな源氏名を口にする男の目にあるのが好色と怯えというのがなんとも。
失笑を溢す海老蔵を、黒本某は睨みつけます。
「そこの御仁は?下僕か何かかね?」
嫌悪感を隠さず言う黒本。
「今の私の雇い主よ」
微笑みの仮面を被る白蘭。
「長崎の廻船問屋駒井の海老蔵と申します」
状況が読めず、困惑する海老蔵。
しかしながら、駒井の名を聞いて黒本の顔色が変わりました。
「そう、やっぱり貴方がちょっかいを出してたのねぇ」
にたりと嗤い、白蘭は黒本と、それに続いてその背後の取り巻き連中を見ました。
「見ての通り、私は今この人の剣であり盾なのよ。それでも敵対するって言うのなら、覚悟することね?」
脅しですな。
今から向かう、暖簾分けした店で生じている問題の原因がこの男だと白蘭は勘づいていたのでしょう。
地方の権力者が小金持ちを虐めるのはよくある話。
そこに、それをしそうな連中がいるのなら、まあ、予想は出来るのでしょう。
しかし、と海老蔵は首を傾げます。
その辺りの付き合い方は駒井で叩き込まれているはず。言ってはなんですが、この程度の小物に悩まされるような事はない気がする。
はと思考の海に漕ぎ出していた海老蔵の意識を、狼狽した男の声が引き戻しました。
「い、いや、バイ…白蘭。あそこにちょっかいをかけてんのは俺たちじゃねえ」
そこからは何とも滑稽な遣り取り。
自分は悪くないだの、手下を貸してるだけだの。
そういう言い訳の連続でした。
既に興味を失っている海老蔵でしたが、意外にも白蘭は聞いている風です。
黒本の気が一通り済んだあたりで白蘭は微笑みを浮かべて口を開きました。
「それで、貴方たちの雇い主は誰なのかしか?」
この問いに、それまで雄弁に語っていた男どころか、その取り巻き連中までも固まってしまいました。
「そんなに難しい問いかけかしら?」
ああいや、と踏ん切りのつかない様子。
その姿を見ていた白蘭の視線が急速に冷めたものに変わります。
「ああそう。ならいいわ」
颯爽と立ち上がる白蘭に遅れ、海老蔵も立ち上がります。
「まあ、貴方たちが言いたくないならいいわ。一応、こちらが動き出す前の忠告に来てあげただけだもの」
答えを待たずに歩き出す白蘭。
来る時も勝手ならば帰る時も勝手な女を追う海老蔵の目の端に、黒本一味がうつります。
(震えている…?)
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの長州様とは思えない姿に首を傾げると、黒本の目がこちらに向きました。
白蘭を見た時とは比べ物にならない程、恐怖に目を濁らせています。
思わずこちらが後ずさる程の危機迫る様子に、海老蔵は白蘭を呼び止めました。
「なによ、もう用はないのだけれど?」
煩わしそうに問う女を見て、黒本は意を決したように言いました。
あれは天罰なのだ、と。
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