〈第三の刻〉
◇
駅近くの大型書店の前で、男はレンタカーを停めた。窓を下げて身を乗り出し、歩道に所在なく立っていた彼女へ呼びかける。
「アメリアちゃん!」
声に気づいた彼女が、パッと明るい顔をした。男は、苛立ちを抑え込む——やってらんねえなあ。無邪気の塊みてえなツラをしやがって。
「ごめんね、待った?」
「いいえ、数分。さっき来たとこ」
「すぐ向かうからさ。後ろ乗っちゃって」
彼女は頷いて、後部座席を開ける。白いワンピースの裾を持ち上げ、薄汚れた軽自動車の座席に収まり、シートベルトを締める。
「ものの数分で着くはずなんだけど、ちょっと込み入ったとこにあってさ」
「そうなのね。団体の事務所だっけ」
「そそ。なんせボランティア?だから、あんま家賃のいいとこに間借りできないらしくて」
「作業って、何するの? 書類仕事と思ってたけど、もしかしてもっと動きやすい服装のほうがよかったかな」
車を発進させる男に、彼女は眉を下げて尋ねた。数秒、考えて、男の服装を見ての発言だと気がつく。また、胃の底が棘立つ。
「だいじょぶだいじょぶ、身体動かす系じゃないから。俺が普段からジャージなだけね」
「そうなの。よかった。わざわざ来てくれてありがと」
「迷わせるのもなんだしね。自分もどうせ行くんだから」
ハンドルをゆっくりと回し、男は車道へ戻った。表通りを抜け、脇道に曲がる。
これから何が起こるかはうすうす知っていた。よくある話だ——せいぜいもって無理にAVを撮られる
普段はもっぱら、繁華街の溜まり場に屯する少年少女に声をかけていた。やや気にかかるのは、一度連れてった人間を二度と見かけないことだったが、それだって大したことはないように思える。連れてった先でショックでも受けて、ママのところに逃げ帰ったに違いない。帰る家があるくせに、よそでうろついて非行に走るガキのことなど知ったことじゃない。
後部座席の女だってそうだ。温室育ちのお嬢様。日本以上の階級社会で相当な上流の家に生まれたという彼女が、彼は初めから嫌いだった。まともな環境でぬくぬく育てば誰だっていい子になれる。無邪気で、素直で、天真爛漫で、明るく優しい、穏やかな人柄——特権階級の賜物だ。世の汚れなど知らないような顔を見るたび、腹が立つ。
だからかもしれない。追い詰められた深夜、彼女の顔が浮かんだ。ノルマに一人足りず、ガキどもも釣れずに焦っていた。アイツなら、簡単に騙せて、うかうかついてくるだろう。
読みは当たった。彼女はまるで避暑地に行くような格好で、呑気に車窓を覗いている。
「ちょっと怪しいトコ入ってくけど、気にしないでね。地価安いから」
説明なのだか言い訳なのだかわからない一言を添え、路地に入った。明らかに人通りがない。両脇に並ぶビル群から、荒みが臭い立っている。
「……不思議なところね?」
彼女が少し怪訝そうにした。今さら疑問を持ったとて、車に乗ってしまった時点で彼女の命運は詰んでいる。
「アメリアちゃんはこういうとこ、あんま来たことないっしょ? 一人で来ちゃダメだよ、ガラ悪い人いるから」
薄ら笑いをルームミラーへ向けた。車窓を見ていた彼女が、こちらをまっすぐに見る。
笑みが、少しだけ引き攣った。——厭になるくらい真っ青な目。
◆
「もう。携帯が通じない」
助手席でシュンが口を尖らせる。草壁は直進しながら、一瞬、彼に目を向けた。
「通信が死んだか?」
「そうみたい。やあねえ、いま他のところはどうなってんのかしら。ソワソワしちゃう」
「通じねえ携帯で何見てるんだ」
「動画ですわ。端末に保存してあるものは見れるでしょ? 電池のあるかぎり」
「ははあ」草壁はシュンが映画好きなのを思い出した。「ダウンロードしたのか?」
「うん?」彼は不思議げに草壁を向き、すぐ、気づいたように首を振る。
「いいえ。自分で撮ったやつ」
草壁はそこで納得し、話はおしまいとなった。前方の二人の車が曲がる。
「あそこか」
狭い路地を入ると、少し先でサワギリらの車が停まっているのが目に入った。
近くに停めて、車を降りる。同じタイミングで、サワギリとクラミも降りてくる。
「このビルっしょ?」
サワギリが指差す先を見て、シュンは頷いた。
「ええ、そう。このビルです。このビルの八階」
「入れんのか?」
草壁の問いにクラミが答える。
「たぶん。それにユウさんがいるなら、なんにせよ入れる状態にはなってると思います」
なんにせよ——まあ、そうだろう。開いているにしろ、壊れてるにしろ。
互いの内側の躊躇が、奇妙な間を作る。数秒ののち、焦れたように、サワギリが顎をしゃくった。
「行く?」
一同は、とぼとぼ歩き出す。向かう先のガラスのドアは、無事なまま、
◇
「仕返ししたいって思わない?」
エドワードの友人が駅のホームで凍死した朝、コーラの瓶を傾けながら経緯を語った彼に、僕は言った。
エドワードは鋭い目つきを僕に向けた。舌打ちしそうに返す。
「は?」
「だって。友達だったんでしょ? 彼が悪いことしたのでもないのに、彼を差別する人だとか、もしかしたら殴った奴だとか、そういういろいろのせいで死んじゃったんでしょう。悔しくない?」
エドワードは口を閉じ、僕をじっと見た。そういうとき僕はいつも身の縮こまる思いがする。彼の静かな碧い眼に、僕はどれだけバカに映るだろう。
「悔しいよ」彼は言った。「だから?」
「だから、って……」
復讐心など誰しもにある自明のものと思っていたから、彼の答えは想定外だった。僕は言葉を探す。
「なんていうか……ひどいことしたのに、そいつはのうのうと平気でいるというのは、むかつかない? せめてそいつも酷い目に遭わなきゃ、
口にしながら、気持ちが増していく。そんなの納得いかないじゃない? 向こうが与えてきただけの代償を、払わせなくちゃ。もちろん復讐したところで、失ったものが補償されるわけではないのは分かっている。でも、相手も同じだけ失わないのは、不公平だ。せめて自分がしでかしたことの酷さくらい、思い知らせたい。
だけどやっぱりエドワードは、冷めた瞳で見つめている。
「そもそもの話、」やがて、同じだけ冷たい声がした。「
僕は、目を丸くした。問いかけの意味が分からない。
とうとうはっきりと舌打ちが響いた。エドワードは目を逸らし、瓶を大きく傾ける。
「初めっから、お前らは、『自分が何かを所有できる』と思ってやがる。そこから話が合わねえんだよ」
「どういうこと? ごめん、僕にはよく——」
「お前は俺が殺されたら、殺したヤツに復讐すんの」
想像だけで血が昇る。「するよ」
エドワードは、また瓶を傾け、とうとう天を仰ぐようにして、最後の一滴を口に垂らした。そうして屑入れを見もせずに投げる。細い瓶は当たり前のように通りの向こうのカゴに吸い込まれ、高い音を立てた。彼は、吐き捨てる。
「俺がいつ、お前のモンになったってんだよ。……バカなんじゃねえの?」
◆
廊下を歩きながら、シュンは脳裏に突如蘇った記憶を反芻していた。一体なぜ、こんなやりとりを今この場で思い出したりしたのだろう。シュンの親友——すなわちユウは、自分の勘や感覚の知らせを決して疎かにはしない。それらは脳が無意識の次元で弾き出した計算結果であり、意識的な理屈よりずっと尊重すべき精度を誇っているのだ、と彼はいう。この唐突な想起も、きっと意識が及ばぬレベルでの演算結果なのだろうが、それが一体なにを知らせようとしているのかは、どうも掴めない。
だいいちあの時、ユウ——エドワードが自分に語ったことの意味合いも、実はよく分かっていないのだ。エドワードは言葉を尽くして、懇切丁寧に解説するというようなことはしてくれない。『分からないのならその程度』、それがエディの考え方で、ゆえに気持ちは焦るが、だからって、急に必要な聡明さが身についてくれるわけでもない。
サワギリとクラミのあとにつきながら、シュンは思い返した。あのとき彼の言った様々な言葉——丹念に記憶を辿るうち、ある一言がくっきりと響いた。十代の彼がたった今、鼓膜を揺らしたかのように。
〈そもそもの話、奪われたのは誰だ?〉
そこで、前の二人が止まった。
ハッと目を向ける。サワギリがこちらを振り返り、親指で奥の扉を指した。突き当たり、左手の扉。
「俺の記憶が正しきゃ、この部屋」
頷いて、シュンは前に出る。この扉を開けるのは己の役目に違いない。
ドアレバーに手をかける。手のひらに、汗が滲むのが分かった。問いかけるようでいて、その実自分に言い聞かせるように、シュンは声を張る。
「心の準備はよろしい?」
一同が、曖昧に頷く。息を深く吸い込んで、ドアレバーを、強く引いた。
「——なに?」
すごく、散らかってる。
「あ、」
今まさに長机の一つを引っ張り出さんとしていたユウが、背中越しにこちらを向く。
「もう来たの? やだなあ。まだ、机の準備できてないよ。ちょっと手伝って」
「何をしているの?」
「会議の準備さ。積もる話もあるだろ? っていうかこの部屋、遮音性やばいね。外に来てるの気が付かなかった」
改めて部屋を見回すと、ユウが何をしようとしていたかが少し察せた。そこら中、机と椅子だらけだ。かつて起こった出来事を誤魔化そうとでもするように、部屋は全てが塗り替えられ、その上で種々のオフィス用品がごちゃごちゃと詰め込まれている。すっかり倉庫に成り果てていた部屋に五人が座れるよう、彼はスペースを作ろうとしていたようだ。部屋の左手に、長机が雑に重ねられている。
「あとこの辺のを向こうに載せたらなんとかなると思うんだよねえ。あ、そこの楕円のテーブルは残しておいて。囲むのにいいだろ」
「円卓会議ってわけね」いささか気の利いたことを言い、サワギリは近くのテーブルをつかんだ。
「じゃあ、ホワイトボードも残す?」クラミが背後から問いかける。
シュンは戸惑っていた。会ったらなんて言おう、何を訊こうと頭を悩ませていたのに、なんだか気勢を削がれてしまった。しばし三人を眺めたのち、仕方なく、輪に加わる。草壁も遅れて後に続いた。
「よし、できた!」
ぱんぱん、と手を叩き、ユウが満足げにつぶやく。部屋の半分ほどのスペースがなんとか空いて、その中央に楕円のテーブルと、それを囲む五脚のパイプ椅子が設置されている。
「じゃ、座りますか」
ユウの促しに、顔を見合わせる。何をしにここへ来たのだか、一瞬、みんなわからなくなった。
◇
「……飛ぶしかない……」
自宅の高層マンション。そう高くもない柵に手をかけ、身を乗り出す。心臓が引き絞られる。だが他の選択肢はない。
まさか彼女が飛び降りるとは、思わなかった。何も死ぬことないじゃないか。命あっての物種だ。聞けば彼女の体には、暴行の痕はなかったという。つまり彼女は、何かされる前に命を投げ出したっていうことだ。どうして? 死ぬことなかったじゃないか! お蔭で俺は——もちろんそんなこと、〝彼〟の前では言えなかった。
裏社会の伝手で呼び出され、入ったホテルの一室にいた、あの男。一目で分かった。髪の色こそ違うけど、目鼻立ち、あの青。そっくりだ。
『あたしが誰か分かる?』
彼はそう言ってにっこり笑った。周囲には、緑の装束を着た、幾人もの男たち。それから、やたら背の高い白人。彼と傍らの白人は、真っ白な装束を着ていた。ホテルの風景にまるで合わない。何かの冗談のようだ。
『お分かりですわよね。わたくし、そっくりでしょう? だからこの先も分かると思うけど、あたしあなたに復讐をしに来ましたの。意味、分かる?』
椅子に座らされ、取り囲まれる。とても逃げ出せる気がしない。
『あなたには、自殺してもらうわ。あなたが姉様を騙したせいで、彼女はビルから飛ぶ羽目になった。でも、人を自殺させるって、そう簡単なことじゃないでしょ。だからあなたが死ぬしかないとちゃんと納得できるように、工程を用意しましたの。今から始めます』
彼は詳しい説明もなしにそう言い切って手を叩いた。途端、周囲の男たちが俺の腕を掴んで立たせ、ベッドに引き摺り倒した。そこにはビニールが掛けてあった。そして——
『あの部屋で行われていたこと、あなたにも味わってもらうわ。……あ、でも、時間がないですから。短縮版。一日バージョンね。本当は何日も、何日もそれが続いたんですよ。信仰や思想、信条、生きるよすが、夢、希望、価値観、倫理観、その他諸々が破壊され、ぐちゃぐちゃに踏み躙られるまで。続いて、続いて、そうしてみんな、自分から喉を切ったんですって。姉様はその現場も、その死体も、見てしまった。もちろん全てでなくっても、何が起こっているのかを察した。だから、勇気を振り絞って逃げたの。同じ結末でも、自らの全てが壊されるよりはマシだとね。実際にそれは、私たちにとってせめてもの慰めになりました。姉様は、長く虐げられて苦痛を味わうことはなかった。部屋の惨状がわかるにつれて、その思いは増してった——』
俺が
『終わりました?』
俺は古代の罪人のように両腕を持って引き摺られ、彼の足元に項垂れた。立つことはおろか、座ることもできない。
『姉様の事件は葬られた。姉様が飛んだあと、あなたきっと戦々恐々としてたんでしょう。でも無事に済んだ。それどころか、口封じも兼ねて、金王組はあなたにいろいろ気を利かせてあげたのね。今やあなたは、立派な経営者で、手広く違法行為に手を染めあれこれ利鞘を稼いでいる。でも奥様と娘さんは、こんなこと知らないんですのね。もちろん過去のことも。そうでしょう』
頷く力もなかった。だが、次の言葉に身が震えた。
『ご家族にはこんな目に、遭ってほしくはないわよね』
頭が真っ白になった。何か叫んでいたか、脇の男から蹴りが飛び、鳩尾に刺さった。俺は沈黙した。彼はずっと、出会った時からずっと同じ笑顔で語りかけてくる。花のような笑み。彼女にそっくりの。
『事故に見せかけて死になさい。自殺とバレてはダメよ。これは思いやり。自殺だとあなたが入ってる死亡保険が降りないの。あなたの家族が路頭に迷うのは、私の望みではないわ。もう一つ。これは温情。あなたが上手く死ねましたら、あなたの家族にあなたの所業を明かすのはやめておいてあげる。あなたの今やってるビジネスも、ご家族に累が及ばぬように畳む手伝いをしたげるわ。なんなら引き取ろうかしら? 儲かっているみたいだし』
彼が椅子から身を乗り出し、——しかし、非常に距離を取ったまま——形だけ、口元に覆いを作る。
『ご家族には、愛されたまま、死にたいでしょう? あなただって』
その後のことは、よく覚えていない。気がつくと、誰もいない部屋の絨毯に倒れていた。外は再びの夜だ。全身が痛むのを堪えて顔を上げると、視線の先に名刺大の紙片があった。電話番号が一つ。
三日、悩んで、SMSを打った。〈どうすればいいですか〉。無言で別の電話番号が送られてきた。そこに電話すると、手筈を整えると言われた。酒を飲み、酔って転落。見届け人を派遣する。
言われた通りにした。なのに、どうしてもあと一歩が出ない。
死にたくない。死にたくない。なんで俺が。運んだだけなのに。
あんなことしたわけじゃないのに。あんなこととは、知らなかったのに。
酔いは回っている。すでに視界がぐらつく。うっかり向こうに落ちるなんてのは、簡単なはずだ。さあ、飛ぶんだ。飛べ。飛ばないと、妻や娘があんな目に遭う。あんな目に、——遭って、なんだ。俺はなんとか生きてる。命あっての物種だ。俺が死ぬよりはマシなんじゃないか? 二人だって、俺に二度と会えないよりは、まだしもいいと思うんじゃないのか? きっとそうだ。それこそが〝家族のため〟だ。死亡保険が降りたってなんだ? 妻には資産運用もできないに違いない。娘にだって父が必要だ。具体的にどのようにかは分からないが、必要に決まってる。家族の試練だ。一緒に乗り越えないと。何も俺だけが、別に死ななくたって——
その時。
視界が、反転した。
ふわっと、体が浮く。足が、掴まれている。なに? あのふたり? 浮遊感に手が外れ、俺はそのまま、頭から、柵の向こうに、落ち、お、落ちて、落ち、落落落落落落落落落落——
気を失う直前に見えた。
地面近くに、誰かが居た。スマートフォンを構え、こちらにレンズを向け、ニコニコと手を振っている。
真っ青な瞳が、愛らしく微笑んだ。その嬉しそうな顔を見ながら、俺は、頭から砕け散った。
◆
「訊きたいことがあるだろう? まずは先にお答えします」
口角の上がり切った笑顔でユウは言った。面々は、互いに不安げな目を交わしたあと、またユウへと移す。
「あれ? どうしたの。もう大体は察しついてるでしょう。シュンが話したんじゃ?」
「知っている範囲はね。共有はしたけれど……」シュンは慎重に答えた。「その先の予想については、正直、ずーっと半信半疑よ。なんかの滑稽な勘違いなんじゃないかって、ずっと思ってる」
「なんだ」ユウは目を丸くした。「本気にしてなかったの? 〈業火〉の実現の話」
「いえ、
そこでシュンは口を閉ざした。その先を言えなかった理由は、自分でも分かっている。
「……あー、めんどい」
続きを継いだのは、サワギリだった。
「こっちの予想が合ってるかどうかの確認が先だろ。ハッキリ訊くけど、お前は俺らを四騎士に見立てて、世界滅亡の条件を揃えようとしたわけ?」
「そうだ」
簡潔な答えに、残り三人は息を呑む。サワギリは少し目を細め、訊いた。
「どうやって?」
ユウは、黙り込む。
シュンの脳裏には、軽い驚きが走っていた。確かにそうだ、——どういうつもりで、何をする気か。そればっかりが気になって、その具体的な方法は、深く考えていなかった。
「俺らが四騎士に当てはまるのは百歩譲って認めてもいーけど、それってあんたが気づくまでもなく
頷きが返る。サワギリは息を吸う。
「あんたがなんとなく行く末を見通せてたのは、まあ、分かる。けど、だったらどうやって、スイッチが入るようにした? 要素は最初から揃ってて、俺らが関わったのも今じゃない。俺らに認識させたってこと? それだけでこんなことになる? 他の何かがあるんだよな」
ユウは、しばらくサワギリを見つめ、やがて諦めたように息を吐いた。
「その通りだ。僕は誰にも、言ってこなかったことがある。……でもそれは、口に出したら僕の正気が疑われると思ったからだ」
「あんたにも何かあるワケね。オカルトチックなやつが」
「そう」
少なからぬ衝撃が、体内を走る。シュンは、思わず自分の口を押さえた。そうかもしれない、とは、思っていた。でもまさか。まさか彼が自分にも、隠していたことがあるなんて。
分からない。彼のことをずっと、分かったつもりで来ていたのに。
「さて、……それじゃ話すよ。まあ、……たぶん、かなり信じ難い、意味の分からない話だろうから、別に信じ込まなくていいけど。いちいち疑義とか唱えないでくれ、そういうやり取りは面倒だ」
うんざりしたように手を振って、それからユウは机に肘を置いた。
「最初に、〝感覚〟があったのは——」
「……なるほどね」
話を聞き終えて、はじめに声を出したのはやはり、サワギリだ。
「つまりアンタは、自分が『物語』の中にいる……って知ってたワケ? メタ視点的な」
「まあ、そういうこと」ユウは耳の裏に手をやり、指で擦る。「もう少し正確に言うと、『僕たちを《物語》にしようとしてる奴がいること』が分かっていた」
「ええと、」クラミが戸惑い顔で訊く。「その、『見てる人たち』って、なんなの?」
「分からない。なんというか、視線を感じるだけなんだ。一つではないという感覚はある。自分たちの気にいるように僕らを誘導しているらしいが、完全な支配ではない。運命、……に視線があるなら、それに近いものだろうと思うし、神のようなものかもしれない。あるいは上位存在か。詳しいことは不明だ」
「つまり……」サワギリは腕を組み、軽く天井を仰ぐ。
「アンタは、俺たちにじゃなくて、どっちかってーとその『見てるヤツ』に気づかせようとしてたワケ?」
ユウは、一つ頷いた。
「世界に影響するのは、恐らくは『向こう』の認識だ。どうやら『視線』の中には、書き手に等しい存在と、読み手に等しい存在とがいて、何か事を起こしたり状況を整えたりしているのは前者のようだが、こちらの世界に大きな変化をもたらすのはたぶん後者なんだ。とすると、振る舞い次第では、多少は読み手の認識をコントロールすることができる、——そうじゃないかと、
「読み手の認識……」
クラミが、ひっそりと呟く。何かが引っかかったらしいが、熟考型の彼は案の定、それ以上言わず、思索に潜っていく。
ふと視線を逸らすと、草壁の顔が目に入った。彼も唇を引き結び、何やら考え込んでいる。
「俺が
ユウが指を二本たてた。いつの間にか、シュンと英語で喋るときと似た口調になっている。
「おそらく、四騎士のキーになってるあんたらも『視線』の対象だということ。それから、何かを実現させる場合には、『物語』としての説得力が必要なんだろうということだ。ゾンビが出てきて世界が滅ぶなんて、荒唐無稽もいいところだ。だけど、俺たちを見ている『視線』が〝納得できる〟ようにしちまえば、どんなことでも起こり得ると思った。その段取りを整えるには、俺にカメラが向いている瞬間だけでは全く足りない。だから、……そうだな。
急に口調をふだんに戻し、彼は言う。
「あなたたちにカメラが向いたとき、どこかで僕の望む情報が出ることを、僕は期待した。あるいは僕では思いつかないような発想で、状況を補強してほしいと。そうなるように僕からも多少モーションはかけたけど、結局のところ僕の意図するものは『書き手』のそれと大差なかったんだ。でなきゃこんなに上手くいくはずない。差し詰め、僕の思いつきが、『書き手』に採用されたといった感じかな、……今の有様は、たぶんそういうことなんだと思う」
「なるほどね」同じ呟きを、サワギリは繰り返す。「つまりあんたは、大方の事情は把握していたにしても、全部を見通してたわけでも、コントロールしてたわけでもない——」
「《鳥瞰》だ」
突如響いた声に、一同は振り向く。草壁が、険しい顔のまま、ユウに視線を据えていた。
「よく分からんが、あんた、『鷲』だろ? でもあんたは決して、地球を離れ、成層圏の上から世界を見ていたってえ訳じゃない。鳥の視点なんだ。地上とは違うが、天上までは届かない。ある意味、何とも中途半端な……」
「中途半端、ね」ユウが苦く笑う。「仰る通り」
「孤高とも言えるよ」クラミが口を挟む。「孤独な高さ。他に、誰もいない、——」
そして、顎に拳を当てた。「俺、ユウさんがどうして〈飢饉〉になるのかが気になっていて。シュンさんと、俺と、サワギリが、それぞれの騎士の役目をやるのは、何となくだけど納得いくよ。でも、ユウさんは……なんでだろ? 天秤座だけじゃ弱くない? 獣のほうは分かるんだよ、まんま『鷲』って呼ばれてたし——」
「それを言ったら」シュンは唐突に思い出した。「ねえ、順番、違うでしょう? あれは一体、どう解決しますの」
口にしながら、自分は果たして、「どちら」なのかと訝しくなる。つまり、事態を止めたいのか、それとも進めようとしているのか。
ユウはしばし考えるような顔をしたが、じきに気づいた。「ああ。獣と騎士の食い違い?」
「やっぱり認識してたのね。何か説明があるのでしょ?」
「まあ、僕なりにね。でも適当だぜ?」
「どんなこじつけなの?」クラミが他意もなさそうに訊く。
また苦笑しながらユウは言った。「原典の話なんだけどさ」
それから、ふと考えて、スマートフォンを開いた。いくらかの操作をしたのち、卓の中央に押し出すので覗いてみると、聖書の文言がある。開かれていたのは聖書のアプリで、検索やブックマークの機能がついている。シュンも教義のでっちあげに活用するためインストールしていた。
「ここ」彼の指が、ある行を差す。「読んでみて」
何となく、シュンが声を発した。「『仔羊がその七つの封印の一つを解いたとき、私が見ていると、四つの生き物の一つが、——』」
「そう!」唐突にユウは指を鳴らした。「これがカラクリ」
さっぱり分からない。ユウを見つめると、彼は片眉を上げた。
「ピンと来ない? 『四つの生き物の一つ』だぜ」
沈黙が降りる。が次の瞬間、サワギリが「あっ」と声を上げた。
「そういうこと?」
「そう」
「え? なに。なによ」
「だからあ、『四つの生き物の一つ』なんだって」サワギリは言う。「聖書は、
「……ああ」
草壁が呟き、スマホを引き寄せる。
「最初に騎士を呼んだのは、あくまで『四つの生き物の一つ』……四つの獣のうちの
そこまで言われ、ようやく分かった。同時に、いささか愕然とする。
そんなのってアリ?
「その後のナンバリングも、おんなじ理由で無視ができる」とユウが後を引き継ぐ。「第二の封印が解かれたときに〈戦争〉の騎士を呼んだのは、日本語だと『第二の獣』と訳されているけど、『二番目』ってことでしかないと解釈することもできるだろ? だって初っ端が〈第一の獣〉であった根拠がないんだから。最初に騎士を呼んだ獣を新たに第一として、また第二、第三……と振っていっただけなら、つまりたとえば登場時に〈第三の獣〉だったやつが、騎士を呼ぶ際は初っ端だったと考えることも十分にできる。それなら、順番の食い違いは、まるで意味をなさない」
「なんだか」シュンはつい、呆れた声を出した。「ホントに詐欺師みたい」
「実際似たようなものでしょ、僕は」
「ふーん、俺はてっきり……」サワギリはそう言いながら、草壁の手元に寄ったスマートフォンを改めて覗く。「掛け持ちオッケーなのかと思ってた」
「うん?」とユウがサワギリを見やる。
「え? だからぁー……」
サワギリは卓上に指を滑らせた。確かめのためか、数字を書いてみせる。
「えっと、シュンさんが騎士としては最初で、獣的には三番目。クラミはどっちも二番目でー、俺が騎士としては四番目、獣としては一番目。ユウさんは騎士じゃ三番目、獣としては四番目。だよな?」
「そうなるはずね」シュンは頷く。
「でさあ。なんか具体的に役目っぽいのがあるのは結局騎士じゃん?」
「おう」と、これは草壁が返す。
「シュンさんのでっちあげ教義も、四騎士の要素が揃えば世界滅ぶ、っつってたんだろ? ってことは、世界が滅ぶにはとにかく四騎士の要素がバッチリ満たされてたらいいわけじゃん。で、俺らは騎士の役目の他に、その騎士を呼んだ獣の役目も結構してたのかも、と思ったワケ。えーっと、だから?」
またサワギリは宙を見上げ、頭を整理してから、話す。
「俺は獣としては一番目だから、〈支配〉を呼ぶんだよな。クラミは飛ばして、シュンさんは、獣としては三番目だから〈飢饉〉を呼ぶ。んで、ユウさんは獣としては四番目だから、〈死〉を呼ぶ。——と、すると」
と、すると。
シュンは、じわじわと、彼の考えに沿った答えが腑に落ちてくるのを感じた。サワギリが〈支配〉を、クラミが〈戦争〉を、シュンが〈飢饉〉を、ユウが〈死〉を招く——
いや、待てよ。
「ぼく、そろそろ。出てこれるかな?」
甘やかな声がした。その声のほうへ、皆がおもむろに目を向ける。視線の先は、真っ青な顔で、信じられないという表情のまま、自らの喉に手を当てていた。そこが、また震える。
「ああ、怖がらせちゃった……かもしれない。でも、あのね、持っていこうと、してるんじゃないよ。そうじゃない。でも、一回、
彼は——サワギリは、勝手に動く喉を、唇を、どうすることもできないらしかった。全員が固唾を呑む中で、ただ、〝声〟だけが朗らかに告げる。
「だから、ごめんね。ちょっと、貸してね。ほんの少しだよ、」
十二分だけ。
◇
人影の消えたフロントに、男の死体が落ちている。
刺された首から流れ出た血で、絨毯をしとどに濡らすまま。
電気が落ち、音も無いフロアで、男はただ物になっている。永遠の沈黙に、置き去りになって動かない。首も、足も、手も、その指先も。丸い指先は動かない。爪まで静かに黙っている。
誰もいない。生命は無い。丸い指先は動かない。
動かない。
動かない。
動かない。
——動いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます