〈第二の刻〉



    ◇



 いつだったか、父のいない夜、ヒノさんがアパートを訪ねてきたことがあった。俺は、リビングの小さなテレビで映画を観ていた。どうやって電波を拾っていたやら、衛星放送の邦画チャンネルで。

 ヒノさんは一応ノックをしたあと、二秒くらい待って入ってきた。狭い部屋だから、父がいないのは見て取れる。ふうと息を漏らしたあと、ヒノさんは俺を見た。俺は視線に応えて、少し振り返った。

「孝介は」

「パパ? さっき出かけていった」

「出てはいるのか。何時ごろだった」

「うんと……五分くらい前」

 ヒノさんはさっきより深いため息をついた。まあいい、と呟くと、ふとちゃぶ台の上を見た。それから台所へ向かった。右手にあった紙袋を置く。

「アレルギーは?」

「アレルギー? 食べもので苦しくなるやつ?」

「それ」

「僕はない」

「そうかい。桃は好きか」

「あんまり食べたことない」

「食べてみろ」

 ヒノさんは白い紙袋に手を突っ込んで桃を取り出した。二つ。無事な皿を探して、無いから舌打ちして、一枚その場で洗った。ティッシュを何枚か取って拭き、桃を洗って載せる。

「齧ったらいい」

 ヒノさんが隣に座り、皿を置いた。俺はお皿とヒノさんを交互に見て、一つ掴んだ。

 テレビは任侠映画を映していた。昔の映画だから、音声が悪くて正直なところ何をがなってるか分からない。とにかく、スーツのおじさんが、包丁とか日本刀とか銃とかを持って睨み合っている。

「楽しいか」

 ヒノさんは画面を顎でしゃくった。桃を一つとって、齧り付く。俺は桃を持ったまま、まだ手のなかで弄んでいる。

「分かんない。けど、大変そう」

 画面を見つめながら言ったら、ヒノさんは少し笑った。

「そうだな」

 しばらく、二人で映画を観た。大立ち回りが始まる。

 おじさんたちは睨み合いながらゆっくり摺り足で円を描き、次の瞬間とりゃーっとか、おらあっとか声を発すると、凶器を振るった。するとどちらかが深傷を負い、グワーッと叫ぶ。それから周りの人たちが、ドカンドカンとリボルバーで撃ち合う。なんとなく馬鹿馬鹿しい感じだ。あんまり、意味がある気がしない。

「ヒノさんも、ああいうのやるの?」

「私はしない」桃をまたひと口。「時代が違う」

 ふぅん、と俺は頷いた。いつの間にか画面では、たくさんの人が倒れている。

「お前は、」不意にヒノさんは訊いた。「将来どうなりたい」

「しょうらい?」

「勉強が好きだろう」ヒノさんは俺越しに、部屋の隅を見た。「学力を活かすか?」

 俺もヒノさんの目の先を見る。そこに並んでいる教科書や、辞書、図鑑、本の類いは、ぜんぶヒノさんがくれたものだ。父は読書などさっぱりだったが、俺は読書が好きだった。文字の覚えも早かったし、映画など観るのも好きだ。計算は、別に速くないけど。

「勉強……」口の中でつぶやき、考える。「好きだけど……」

「一生やるほどじゃないか」

「うん。いっぱい勉強しても、そんなに……得意にならなそう」

「そうかね? 見込みはあると思うが、——じゃあ、どうする」

「うーん、……」

 将来何がしたいかなんて、まだ考えたこともない。何になりたいということもないし、何をしたいということもない。強いて言えば、父ともっと一緒にいたいと思っていた。一人で過ごす時間は退屈で、それこそ本を読むくらいしかすることがない。父に甘えたい。

 でも、大人は他人に甘えたりしないものだ。自分が、大人になったら?

「パパが……」俺は手元の桃を見つめた。「仕事は、得意なことをするもんだって」

「そうかもしれんな」

「だから、たぶん、僕の得意なことをすると思う」

「ふむ。お前の得意なことは?」

「まだ、よく分からないけど。パパの仕事は、得意だと思う」

 ヒノさんは、少し眉をひそめた。「どうして?」

「パパがね、褒めてくれるから。たまにパパより、〝分かってる〟って」

 ヒノさんはまだ怪訝そうな顔をしていた。だから俺は、手の中の桃をちゃぶ台に置いて、台所へ立った。背伸びしてフォークを取り出す。元の通り座ると、ヒノさんを見上げる。

「この前、パパの仕事に連れてってもらった」

 ヒノさんの眉は一層動いた。俺は気にしないことにした。

「ホテルのロビーで、相手が出てきたところを殺るんだって。僕はロビーのソファに座ってて、パパも隣に座って、階段のほうをずっと見てて、そしたらそいつが降りてきてね、パパが立った」

「……ふむ」

「パパは他の人の間にスルッて入って、そいつに近づいて、ドスッて突いて、すぐ離れた。戻ってきたパパは包丁を手に持ったままだった。僕がパパと手をつないだときにそいつのいるとこできゃーってなって、パパと逃げたの。誰も追っかけなかった。でも——」

 駐車場に降り、車へ向かう途中だった。俺は、父と逃げながら、高揚した気持ちのまま、父の顔を仰いだ。

「パパ、別のところ刺したほうが、よかったよね、って。パパはおなかを刺してたけど、それじゃもしかして、助かっちゃうかも」

 俺は桃を胴体に見立て、鳩尾のあたりをフォークで突いた。ヒノさんは細めた目で、俺の動きを見守っている。

 あのとき、父は片眉を上げた。そして訊ねた。『お前、どこを刺す?』

「僕なら、ここ」

 フォークを、素早く刺した。逆手に握り、右斜め上から。

 ヒノさんはその瞬間、少しだけ目を丸くした。ザックリ刺さったフォークを眺め、つぶやく。

「首の左、——頸静脈か」

 俺は静かに頷いた。フォークは架空の人体のうえで、首の付け根に突き立っている。



    ◆



 クラミがそんなことを思い出したのは、今まさに人の首の付け根に万年筆を突き刺したからだ。

 鈍い音を立て、万年筆は二十五度ほどの鋭角で首の付け根に刺さり、内部静脈を傷つけた。ズッと抜くと、血がだくだくと流れ出し始める。動脈と違って静脈からの出血は吹き出したりしない。後始末がラクというわけだが、いま別にそんなことを考える必要はなかった。それでも利き手でないほうにわざわざ持ち替えて刺したのは、単に、習慣によるものだ。

 クラミは利き手——左手にふたたびペンを収め、困った顔をした。どうしよう。殺すつもりじゃなかった。刺された男は驚愕の表情のまま固まって、首元を両手で押さえながら、ゆっくり、崩れ落ちる。

「——ごめん」

 言うに事欠いて、結局そんな言葉が漏れた。

「ちょっと邪魔だなって思って……それだけだったんだ。ほんとうに、ごめん」

 驚愕していたのは男ばかりではない。クラミの背後にいた三人、サワギリと愉快な仲間たちも、口をあんぐりと開けていた。シュンなどは咄嗟になのかサワギリの腕に縋りつき、ギュッと握りしめている。

「いてえ!」我に返ったサワギリがシュンを振り払った。「掴むな!」

「あら、ごめんなさいねだって、ちょっと、めっちゃ怖くてビビっちゃったのよ」

 ホテルのロビーは、凍りついている。その場にいる者全員が目の当たりにした光景に固まり、絶句し、思考が止まっていた。一人だけ困惑げに眉尻を下げたクラミは、こめかみを掻いたあと、おもむろにフロントを振り返った。

「すみません。チェックアウトしたくて」

 彼の、温かく、深い声音が、静まり返ったロビーに響いた。数瞬後、正気づいた青年が、震えながら頷いてチェックアウトの手続きを始めた。



 三十分前。

 これからどうする?——そう尋ねたシュンに誰一人答えられずにいる中、不意に、シュンの携帯が鳴った。その音だけでシュンは飛び跳ね、間口の狭いハンドバッグを漁る。取り出しざま、その薄いフォルムが彼の手を滑り、床へ落ちた。

「あわわわわ」

 口で言いながら拾い上げ、画面を開く。

「ユウから!」

 一同、身を乗り出した。シュンの目が短い文章の上を行ったり来たりする。——数秒後、シュンはすっと息を吸い、静かに告げた。

「彼、ビルにいるって。姉様が、飛んだ」

「……あの雑居ビル?」

「ええ。合流しないかって、言ってる」

 各々が己に考える間を与えた。口を開く気になった順から、声を発する。

「行くしかなくね? 他にアテもねえし」

「結局本人に訊かんことにはな」

「ユウさんいると頼もしいし……シュンさんも、心配でしょ?」

 誰へともなくシュンは頷いた。「ついてきてくださる? チェックアウトしましょう」

 パッキングは済んでいた。めいめいが手荷物を持って滞在中の部屋を出ていく。去り際、サワギリは冷蔵庫を開け、中にあったペットボトル数本とチョコバーを掴んだ。ポケットやナップサックに入れて、最後に部屋のドアを閉じる。

 エレベーターに乗って降った。一階で降り、フロントで手続きするために並ぶ。

 列は長かった。突然の事態に混乱しているのは誰も同じだろうが、ホテルにずっと留まっているのが得策かどうか分からない。家族や家が気になる者や、会社でそれなりの地位にいるなら急いで戻る人もあろう。それでも会員制ゆえか、まだ揉め事は起きていない。

 しかし、時間の問題だった。緊急事態ではあるが、チェックアウトの手続きは通常通り行われている。進みの遅さに列にいる者全員が焦れてきている。じきに、ここに並ぶこと自体、意味がないような気がしてきた。

 どうせ早晩、宿泊料など役に立たない事態になる。すっぽかしてもいいんじゃないか? 思ったより都市機能が保っていたならその時に、後から請求して貰えばいい、……そう考えた者は他にも居たらしく、列を離れて出て行く人が目立ち始めた。そのぶん行列は短くなる。

 一行の目の前には中肉中背の男性がひとり、ルームキーを手に佇んでいた。男性は、人々が行列を放棄して去っていくことに、苛立ちを覚えているようだった。理由は分からない。まだどの程度の非常事態かも分からないのに、ルールを無視するのが許せなかったか。あるいは自分はここまで並んで、この先も並ぶつもりでいるのに、他人が気にせずホイホイと楽になるのが嫌だったのか。

「もういいかしらね」

 ひそ、とシュンが呟いた。なんだかんだでフロントは近くまで来ていたが、人々の流れに乗じて去ったほうが話が早い。一行は列から抜け出そうとした。

「おい、」

 と、そのとき。前の男性が振り返り——むんず、と、クラミの腕を掴んだ。

 なぜだろう。よりにもよって。

 だが、男性の立場になれば、想像できないわけではない。この四人に因縁をつけようというときに、もしも選ぶとしたならば確かにクラミになるのかもしれない。

 他のメンツはといえば、血の凍るような美貌の青年(しかも見るからにチンピラ)、黒の白襟ワンピースを着た様子のおかしい高身長(今まであまり触れてこなかったが彼の背丈は百八十センチだ)、やさぐれた顔に鋭い目つきの中年男——あんまり強気に出るのは少し躊躇われる相手ばかりだ。そこへ行くとぱっと見は、クラミが一番いいように思える。勢い込んで怒鳴り散らせば、萎縮させられるような気がする。

 男性は憤り始めた。列を抜けてどこへ行くのかと。

 クラミは困った顔で聞いていた。男性はそれに気を良くしたか調子よく説教していたが、やがて、恐らくほんの少し、違和感に気はついたのだろう。つまり、目の前の青年が、自分の話をどうやらカケラも聞いていないということに。クラミは男性の言っていることを理解する気はまるでなく、ただどうやって黙ってもらうか、それだけに頭を巡らせていた。そんなわけだから言い返すでもなく、男性が独り相撲に躍起になって空回る。次第に列は進み、男性の番になった。引っ込みがつかなくなって、男性はまだ怒鳴っている。

 彷徨うクラミの目が、ふと、すぐ近くのフロントで留まった。正確には、カウンターの上に。

 クラミは腕を掴まれたままカウンターへ寄った。男がよろけると、空いていた左手でカウンターにあるペンを抜いた。それから振り返り、少し考えて、一瞬で腕を振り払う。

 男性が驚いた瞬間、右手にペンを持ち直し、刺した。首の付け根に躊躇なく。

 以後は前述の通りだ。

「ありがとう」手続きを終え、クラミはスタッフに礼を述べた。

「結局、並んじゃったわねえ」シュンがため息をつきながら、財布の留め金をパチリと閉じる。

「普通に途中で振り払って殴ればよかったじゃん。殺すなよ、マジで」

「どうしようかなと思ってるうちにここまで来ちゃって……やっちゃったなあ」

「まあ、もういいけれど。どうせ警察は機能しないわ」

「とりあえず行こっか。車で十分だっけ?」

 そう言って出口へ向かいかけたクラミは、ふと振り返った。

「平気? 草壁さん」

 草壁は、蒼白な顔面を上げた。いや、青いというより、血の気の引いたその顔は土気色に近くなっている。

 三人はうっかり忘れていた。いくら歴戦の記者と言っても、この人はカタギなのである。

「カベっちさ……」サワギリが一歩近づいた。「事件記者だから、グロい死体は見たことあるっしょ?」

「ああ、……」

「カベっちが今まで見てきた沢山の死体もさ、知らないだけでみんなこーゆう過程があって死体になったわけっしょ」

「……そうだな。……」

「だから、ほら……製造過程?を見るのだって、一緒じゃね? 起こったことは変わんねえじゃん。今まで見たことない、ってだけで」

 言いながら無理筋だと思った。草壁は神妙な顔で、ホテルの絨毯に血のシミを広げる男性を見つめている。

「……それに直接見てないだけで、確実に人が死んでるとこには今までだって居合わせてたじゃん。こっから先、たぶんこういうの増えてくぜ。ゾンビ映画になっていくって予想が正しけりゃ絶対さ、……だから、——」

「すまん。大丈夫だ」

 草壁は遮るように答えた。すぐあとに、言葉を継ぐ。

「だが慣れちまう訳にはいかん」

 サワギリは黙って聴いた。少しして、小さく頷く。

「分かった」

 シュンとクラミは二人のやり取りを見つめていた。やがてシュンが声をかける。

「行けるかしら? 外に出ましょう」

「すまん、すまん。お前ら運転は?」

「全員できるんじゃない? シュンさんもさっき転がしてたよね」

「免許ないけどね〜」シュンはヒラヒラと手を振る。「普段は人に運転してもらってるのよ。技術があるってだけなの」

「あのな……まあいいか。じゃあアンタの車は俺が運転する」

「んじゃこっちは俺が転がすわ。道分かる?」

「あまり詳しくないわ。あなた方のほうが知っていそう」

「じゃこっちが先導な。ついてこいよ」

 サワギリが自動ドアをくぐる。後に続きながら、クラミは、自分の来し方を思い返していた。



    ◇



 暴力に慣れる﹅﹅﹅隙など、あっただろうか?

 思い返す限り、自分には、暴力に恐れを抱いた記憶がない。暴力は、最も自分の手に馴染む道具で、父との絆で、家族の思い出だ。生まれてからこれまで、暴力もその行使の場面も恐怖の対象になったことがない。物を壊したり殺したりすると困った事態になることは後から学んだし気をつけているが、それだってどうにかしようはあるし、暴力を厭う理由にはならない。

 父だって仕事の際、襲ってこられることはある。そういうとき父は楽しそうだった。思うがままに振る舞える舞台で、己の明白な勝利を知るのが楽しくないはずがない。暴力はシンプルだ。強いほう、上手いほう、賢いほうが勝つ。そして勝敗がはっきりしてる。上でないほうが負けるということは暴力においてありえない。痛かったり体が動かなくなったり死んだりするのはみんな平等だ。

 父も自分も、口の巧さはない。言葉の勝敗は曖昧だ。勝ったふうに見える方が間違っていたり、その逆もある。正しくないものがしばしば勝利を収める——見かけだけのことだとしても。

 道理に合わないことが罷り通るのは、きっと人がそもそも知性を扱うには足りないからからだ。だけど一応、今の社会は、それを基準に回っているらしい。


 言葉や知性や理性が尊ばれ、それがよしとされる世界では、それらが劣っている者はずっとずっと低く見られる。加えて暴力に長けていてしかもそれが抑えられないとすれば、どう足掻いても厄介者だし、どうしたって社会の異物だ。父はそういう人だったし、だからああいう仕事をしてた。悪い仕事をするにしても、ヒノさんみたいに賢かったらもっとやりようがあるんだろう。

 自分はどうしたい?

 父には悪いが、父と違って、自分は頭はいいほうだ——たぶん。勉強は嫌いじゃなかったし、頭の回転も速くはないが、特別とろくもないと思う。やろうと思えば頭脳労働もできたのかもしれない。ヒノさんも言っていたように。

 ただ、手の中に、一番馴染む道具があって、それを一番上手く使えるのに、使えずに過ごせと言われると、癪だ。自分の一番の得意分野を取り上げられて、どうして黙って納得しなきゃならないんだろう?

 

 この先、世界が崩れるとして。文明のレベルが下がり、ゾンビ映画さながらに、人々が武器を取り合ってそれを向け合うようになれば。それは暴力がその価値を増すということになる。言葉の価値は限定的になり、暴力の即効性が威力を示す。そして誰もが躊躇わなくなる。その行使を。そのフィールドに乗り、その手段を用いることを。暴力を手段にするということは、必然的に自らもその対象になるということだ。誰も皆、暴力を可とするルールの支配下に入る。——それは、即ち。


 人の価値は物まで落ちるということだ。それは俺にとって、いちばん、都合がいい世界かもしれない。



    ◇



「何黙ってんの?」

 運転中、こちらをちらりと見たサワギリに、クラミは返事ともつかない声を返した。

「なんかなあ……」

 クラミは車窓を眺めている。道路は混乱していた。危険な運転の車が目立ち、クラクションがしょっちゅう鳴る。「俺って〈戦争〉なんだろ?」

「まあね」サワギリは答え、呆れ混じりの目を向けた。「つってもユウさんのこじつけだぜ。真に受ける必要もねえだろ」

「俺が暴力的だから〈戦争〉に相応しいってさ、でも俺、性格で言えば、別に争いは好きじゃないよね?」

 ちらりとサワギリを見つめるが、その表情から不同意を悟って窓を向いた。「喧嘩っ早くもないし……」

「喧嘩とかに行き着く前に相手の息の根止めてるだけじゃん。普通に沸点低い、ってか、別にキレてんじゃねえのが怖い。自動反撃装置かよ。レーダーとかついてる?」

「なんかさあ。それで考えたんだけど」

「無視?」

「〈戦争〉って、人を人ではなくすることを指すのかな、って」

 話が見えなくなったのか、引いたのか、サワギリが黙る。

「人は人を殺しちゃいけない。物みたいに扱っちゃいけない……それって基本の約束でしょ? 人間同士の。でも戦争って、どんなものでもその約束を無視することにはなるよね。いくら戦争の国際法とか作ったって、無視だってするし、兵隊同士は殺し合うじゃん。そうやって殺し合いさせられるのって、それ自体道具扱いだし。国の人も、協力とかさせられて、批判したら袋叩きにされたり、スパイしないかって見張られたり、それって人にする扱いじゃない」

「まあ、そうね」

「それに戦争……ってか争いって、手段は暴力だけでもないし。いちばんそれっぽいのが暴力なだけで、言葉でだって争いはあって、勢力が変わったりするじゃん。だからさ、単に暴力とか、争いごとって言うんじゃなくて……人を物と同じにする、その境目が壊れるってこと、それを、〈戦争〉と定義する。としたら——」

 クラミはため息をついた。「俺は確かに、相応しいかも。いつも『物』だって見てるから」

 サワギリは横目をクラミに向けたまま、しばらく黙った。

 心なしか顔が青ざめている。

「……え? 人を?」

「うん」

「……うんじゃなくて」

「よく、分からないんだよね。人と物の違い」

「…………」

「だってさ、」クラミは運転席へ身を乗り出した。「人間だって組成は分かるだろ?」

「……構成してる物質ってこと?」

「そう。何でできててどんな仕組みで、どこをどうやればどうなるか、分かる。だからさ、人間も物質だろ? なのにどうして物と違うの? 俺が変なのは分かってるよ。でも、正直ピンと来ない」

「お前さ」サワギリは赤信号を無視しながら言った。「けっこう気にしいじゃん。こっちの顔色伺ってきたり、まずいこと言ったか気に病んだり」

「うん」

「なのに殺すのは平気なの?」

「だって……」クラミは言葉をまとめてから、続ける。

「痛そうだな、苦しそうだな、可哀想だなって思っても、人は虫なら殺せるじゃん。要らない物も捨てられる」

 サワギリは次の信号までたっぷり考えた。

「確かに」

「分かる? 俺の言いたいこと」

「まあなんか……なんで人だけ? っていう?」

「そうなんだよ! 人を飴やムチでコントロールして鎖につなぐのはいけないのに、犬にはするでしょ?」

「そうだな」

「納得いかないなあ」

「まあ……」

「いや、俺が正しいとか言いたいんじゃなくて」クラミはふと落ち着いたように前を向いた。「〈第二の刻〉って何が起こるのか考えてただけなんだ。単に人々が争い合って、殺し合うようになるってこと? それは確かに……起こり始めてるっぽいし、これから加速する一方だろうなって思うけど。なんか……それだけなのかな」

「——あのさ」

 サワギリが小さく言った。クラミは、彼にを目を向ける。

「お前さっき、〈戦争〉は、〝人を物にする〟っつったじゃん」

「うん」

「〈第二の刻〉は〈戦争〉なんだよな」

「……うん」

「お前の定義じゃ元から人と物とは一緒みてーだが、他の人間にとっては基本そうじゃないわけじゃん」

「……うん……?」

 クラミはサワギリの顔を見ながら首を傾げる。彼の表情は、何かに気づいたときのもので、きっといま彼の頭の中はキュルキュル音を立てて回っている。

「大抵のひとが人を物だと見做し始めるラインが、あるだろ。もっと分かりやすく。だから、」上手く言えない自分になのか、それともクラミになのか分からぬ苛立ちを一瞬見せて、またすぐに戻る。

「お前は、ハナから人が物に見えてるから殺しちまえるわけだよな。けど、大抵の人間にとっちゃ、それは逆だよ」

「……どういうこと?」

「死ぬから」サワギリは、そこで減速した。

「死んじまったから、物に見える」

 車は、ゆっくりと路地へ入った。雑居ビルへ続く小路。

「〈戦争〉になって、人の境目が崩れて、お互いがお互いを物みてえに壊し合う。したら、マジで物になる﹅﹅﹅﹅だろ。死んじまった人間は基本的には物じゃんか。宗教とかの理由抜いたら、もうそれは人じゃないんじゃん。物質じゃん。お前が言うみたく」

 クラミは口を開け、目を丸くしたまま、返す言葉が見つからない。サワギリは適当なスペースに車を停めて、首を縮めた。

 覗き上げる先に、雑居ビルがある。


「ゾンビ映画になるんだろ?——死体、増やしてるんじゃねえ?」

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