第十六話
†
初めて〝それ〟が来たのは、自分の名前も分からないほどまだガキだった頃のことだ。
尤も、本来その歳には、大抵のヤツが自分の名前は分かっていた筈だろう。俺の両親はいつもラリってたから、俺の名前をほとんどまともに呼べたことがない。もしかして「エドワード」と呼びたかったのか、と知れたのは、もう少ししたあとに捜し物で家中ひっくり返し、引き出しの底にメモを見つけたときだ。そのメモには横線の引かれたいくつかの名前があって、最後、「Edward」の文字だけが丸で囲んであった。スペルは違っていたが。ちなみに捜し物ってのは炙りのためのライターだ。俺はヤクだけはやらないと早いうちから決めていたが、両親に辞めさせようと思うことはなかった。他人の人生だ。
話を戻そう。当時の俺は、恐らく三、四歳だったが、その日もソファーや床に伸びている両親を尻目に飯を探していた。たまに正気のとき、彼らは俺を養うために食料を買ってくる。哀れなことに、彼らは俺をできることならちゃんと養育したいと思っていた。バッドの錯乱に陥って壁に物を投げるなんてのはあったが、俺は彼らの暴力の標的になったことはない。何せ家を徘徊する蟻一匹潰せなかった。追い詰めるのもやり返すのも、八つ当たりするのも無理だった。そういう人間が、より弱い立場で、貧しさと荒みの内に居るとき、何に逃避を求めるのかは想像をするまでもない。
リビングからキッチンへ続く入り口の辺りにゴミ箱がある。覗いてみたが申し訳程度にタバコの吸い殻があるだけだ。ゴミは床に散乱していて、いくつか拾ったがぜんぶ
俺は潜って、手を伸ばし、届かないのでもう少し進んだ。端に指が触れ、引き寄せようとして、却って向こうへ押しやってしまう。舌打ちし、ヤケクソのように這い、ケツまで潜ってようやく掴んだ。やはり紙の箱だ。食いもんだといいけど——そこで、俺は動きを止める。
物音がした。目を向ける。床に、伸び切った父がいる。ソファを向いているその首が、こちらへと、ゆっくりと傾く。
目が合った。ほぼ、同じ高さで。
まだ若いのにどういうわけか瞳が薄く濁っていた。口が半ば
目が、合っていただけだ。父はなんにも見ていなかった。
俺は父をじっと見た。箱を握ったまま、這いつくばった姿勢で、じっくりと彼の顔を見た。俺は父とよく似ていると思った。もし瞳の白濁がなくて、生気があって、髭をよく剃って、髪くらい切ってまともな食事をしたら、今の俺にも似ていたかも知れない。中天を過ぎた陽光に、父の有様が照らされている。ただ、俺の居るテーブルの下、そこだけが暗がりだった。
その瞬間、〝それ〟は来た。理解できない不確かな何か。
当時の俺には言語化し得なかった。当たり前だ。今でも、〝それ〟が無い人間にどう言ったものか分からない。ただ俺は、そのとき、確かに、無視できない違和感を得ていた。急に世界が遠のいて、繋がりが断ち切られたような——この時、この場所、この感覚が、抜き取られて箱に入れられたような——
幼い俺にはそれ以上分からなかった。箱を放さぬまま、ずりずりと後ろ向きに這ってテーブルの下を抜け出した。明るいところで見ると、クラッカーの箱だ。遠慮なく底を叩く。やがて一枚半がこぼれでた。上の一枚が半端に割れ、かつ片割れを失っている。
不満だったが、口に入れた。奥歯で噛んでみたけれど、
◆
クラクション。サイレン。怒号。
あらゆる騒音が鳴り響く。アイドリングしっぱなしの車内で、アズキヤは隣のユウを見て、もはや、苛立ちを覚えていた。意味不明なくせに意味深なことを呟いたきり、独りで笑っている。何かこのパニックのワケや由来を知っているなら、せめて同行者に説明のひとつやふたつするべきじゃないか? まるでいないものみたいに、置いてけぼりにしやがって。
「ちょっと!」腹立ちまぎれにクラクションを鳴らし、やはり最前列の車が動かないのを見て横を向く。「何笑ってんすか! これ、なんなの?」
「ああ、」ようやく少し笑いを収め、しかしまだ喉を引き攣らせながらユウは言った。「いや、全然わかんない。起きた原因は心当たりがあるけど、起こってることは把握してない」
それから彼は身を乗り出し、交差点のニュースビジョンを見上げる。アズキヤもスマホをいじりつつ、同じ方向に目をやった。
車内であるのとこの騒音ゆえ、キャスターが何を話しているのかは分からない。だが続いて、世界各地からの中継映像が飛び込み、そこでサイレンの意味が分かった。防災システムのアラートだ。あらゆる場所で、
「は?——世界大戦?」
アズキヤが思わずこぼす。すでにスマホに目を移していたユウは、半笑いで答えた。
「ちょっと違うかな」
「なんです?」
「すでにいくつかのミサイルが着弾しちゃってるらしいけど——どれも、自国に落ちてるみたい」
言われたことを咀嚼する間のあと、アズキヤは眉をしかめた。「ハア?」
「んー、核はないんだね。それもそうか。核なんかここで撃ったら一瞬で全部おしまいだしね。展開がなくなっちゃう。けっこう僕の意向を汲んでくれているのかな、……いやあそもそも、僕がここに誘導されてきただけなのか」
「何を言ってんすか?」
「こっちの話。気にしないで」
ユウは軽く手を打ち振った。が、何か感じ取ったか、すぐにアズキヤを向いて、吹き出す。
「ごめん。こっちの話って、乱暴すぎたよ。怒んないで」
「この状況で説明もなしでキレるなって無理じゃないんすか?」
「分かった分かった、話す話す。でもなあ……」
「なんですか。さっさとしてくださいよ」
「理解できないトコでいちいちなんか訊かれると、ウゼえんだよな」
アズキヤは、ギョッとした。そういうふうに思ってることは今まで散々匂わされてきたが、ハッキリと口に出すのを初めて聞いた。そして、ざわつく。
もしかして、この人いま、全部どうでもよくなってない?
「この車の列動き出したら、〝天界〟に向かってくれる? そこで一旦落ち着こう」
しばらくスマホを見ていた瞳が、何気なく、アズキヤを向く。
「どうせ必要だし、最初から話すよ。——
†
はっきり正体を掴んだのはもう少ししたあとだ。それこそ俺が俺の名は「エドワード」だと知ったあと。俺は昔から小柄じゃないが、今ほど大柄なわけでもなかった。同年代と比べてって意味だ。目に見えて差がついたのは、十歳を過ぎてから。だからその頃は、平均よりも少し高いというくらいだった。
親は死んだも同然なので俺は路上で生活してた。行き場のないガキにもないなりのそこそこのコミュニティがあり、年長者が多少面倒を見ていた——や、この言い方は好意的すぎる。実際のところ学も余裕もない十代のバカがすることは、年下をこきつかってボス面をするだけだ。要するに万引きやコソ泥、スリはガキどもがやらされていた。トンマは路上に座らされたけど、そっちの稼ぎはろくにない。それでも飯は分けていたから、一応の情はあったんだろう。
俺は幸か不幸か目端の利くタイプで、器用でもあった。だからスリを覚えさせられた。だがその頃はやり始めたばかりで、失敗も多かった。今?——今なら
ともかく、それは冷えの厳しくなった十月末のことだった。十一月だっけ? 曖昧だな。何にせよ秋の暮れだ。俺はそろそろ凍え始めた体を震わせて駅にいた。朝のラッシュの時刻だった。金を持ち運んでそうなサラリーマンを目で探して、一人にあたりをつけた。人に紛れながらそっと近づく。
まあでも、ガキがいりゃ目立つわな。その辺り当時は読みが甘い。
すれ違いざまに財布をすって、駆け出そうとした時に、ちょうど目の前にジイさんが出てきた。すっ転ばすと面倒だから一瞬立ち止まったせいで、男が気づいてから、俺を見つけるゆとりができちまった。どんな全力で逃げたって所詮はガキの脚力だ。階段を上がる途中で取っ捕まって倒された。俺は財布を投げ出し、頭を庇った。次にされることが分かってたから。
革靴が次々降ってくる。じっと縮こまって耐える。声なんか出すと逆効果だ。謝るのもまずい。相手はますます自分の行為に肯定感を抱くことになる。こういうときにひたすら憐れっぽく赦しを乞える奴もいて、それはそれで一つのやり方だが、俺がやってもうまくいかない。俺は黙って時が過ぎるのを待つ以外ない。それが嫌なら、上手くやること。
怒り狂って罵声を放つ彼を、人々が遠巻きに
彼の怒りは長引いた。もちろん痛いし、身に応えたが、正直俺は飽きてきた。肘をがっちりと締めたまま、意識が他のことに向き始めた。階段の硬さ。食い込む痛み。コンクリートから、金具から、しんしんと染みてくる冷え——
ちょうど、その時だった。また降ってきた。〝あの感覚〟が。
もっとガキの頃、クラッカーの箱を取ったときにも降ってきたもの。この時の俺は少し長じて、自分の頭で考えることができるようになっていた。だからもう一歩正体が見えた。この感じ。自分の頭上から、あるいは遠くから向けられた何かに切り離されていく感じ。この感覚は、たぶん、〝視線〟だ。
俺は今、見られている。誰かに。
気づいた瞬間、ムカついた。何見てやがる。よりによってこんな瞬間を、じっと見つめてどうしたい?——知れている気もした。ガキが窃盗に手を染めて被害者に蹴りつけられるのを、一体どういう文脈でなら憐れでないように見れるんだ?——沸々と、怒りが込み上げる。ただ生きているだけだ。必死に生きているだけで、それを他人にどうこう言われる筋合いはない。俺の人生がお前にとってどう見えるかなどどうでもいい。どうでもいいのに、なぜ
家のない絵描きが街にいて、近くを通ると俺を描きたがった。暇なときには付き合って、向かいの縁石に座ったものだ。俺はあいつに描かれることが嫌だったわけじゃない。でも、この視線は、腹が立つ。この目は何かに仕立てている。狙った瞬間だけ取り上げて、文脈に乗せてる——じき、気づいた。
見てるんじゃない、
今度は、鳥肌が立った。
どこから降ってくるものか、分からないからだ。避けようがない。例えば街で俺に向かってシャッターを切る奴がいたら、追いかけて殴ってカメラを叩き割ってやったら済む話だ。済まないものもあるだろうが、少なくともそいつは二度とやらない。でも、この目は? 手の届かない場所から、勝手にこちらを覗いてきて切り取って書き記す者は? 俺はどうやってこいつを折れる? 手段がないのがすぐ分かった。急に向けられるカメラを遮る手立てなんかは俺にはない。この誰かが、俺に評価を加え、俺に何らかの演出をするのを、俺は防げない。逃げられない。
もちろん当時ここまできっちり言語化できていたワケじゃない。だがその事実にはたどり着いていた。だから、俺は諦めた。逃げることを。〝それ〟から逃れることを。できもしないことにいつまでも文句を言うのは時間の無駄だ。そんなことに割くリソースはない。〝これ〟と共に生きていくしかない。なら、この中でどうする?
……不意に、足が退いた。捨て台詞を吐きながら、彼は無人の駅を去っていく。足音が聞こえなくなって、しばらくしてから身を起こした。上着のポケットに手を伸ばす。
「バーカ」
思わず口に出していた。抜き取った紙幣が手の中で、少しだけ
大人になっていくにつれ分かることはどんどん増えた。カートに出会った頃——七、八歳——には、かなりのことを理解していた。書いてるやつと同じところに、ただ見てるだけのやつもいる。あいつらは、ほとんど万能だが、俺の考えや行動を何もかも自由にできはしない。外側のこと——出来事や環境、そういったことは操作可能だ。〝登場人物〟に関しては、持ってくる駒を選べはするが、できあがっちまった駒を好きにいじれるわけじゃないらしい。俺もそういう駒の一つだろう。
彼らは駒の内側までは好き勝手できないが、とはいえずっと盗み見ている。ある程度性向を把握しているはずだった。誰と誰が出会い、何が起これば、大方どのような事態になるか。予想して駒を進められる。俺たちはその盤上にいて、そこで生き延びていくしかない。俺が一つ違うのは、自分にカメラが向けられている瞬間がわかるってことだ。そこで何を演じるか、俺はある程度決められる。
ただの「モブ」にこんな知覚が与えられるわけがない。俺は望もうが、望むまいが、何かしらの渦中に置かれてしまっている。俺はいったいどういう理屈でこんな視点を与えられたのか——何度考えても、己が主人公だとは思えなかった。何か変えようとしたり、良くしようとしたり、前に進んで行こうとしたりという動機が、俺には全くない。これで主人公になれるはずがない。
じゃあ、悪役?
嫌だな。死ぬじゃん。
「お話」は大体、善悪の濃淡はあれど主人公と敵役がいて、その他の人物も何かしたヤツは相応の報いを受けたりする。たぶん、でないとモヤモヤして、読み終わったあとスッとしないから。俺が例えばどんなに同情すべきところのある悪役でも、なんかやらかしたら最終的には殺されるだろう。因果応報。公正世界欲求。俺は、何度でも言うが、ただ生きていたいだけなんだ。かと言ってあまり善良に生きるとそれはそれで早く死にそうだ。『最も善き人は還ってこない』。これも物語のセオリーの一つ——勝手だよなあ人間は。この二つ、もう矛盾してない?
生きていたほうが面白く、死が劇的にならない状態でいなくてはならない。〝都合〟で殺されぬためには。
別に、世界を滅ぼそうとか、考えていたわけじゃない。
そんな面倒くさそうなことをわざわざやるほど興味はない。世界が滅ぼうが、良くなろうが、俺にはどっちだっていい。そこで生きるだけだ。そこで上手くやるだけ。俺より幸せなやつも、俺より不幸なやつも、俺の人生に関係ない。生きていくのは俺で、俺の人生はこれだけ。
カートに出会ったとき、そしてその〝設定〟を知ったとき、彼を使ったら世界くらい滅ぼせるんじゃないかとは思った。それは幼い思いつきで、ほんとにできたら面白いって、思っただけだ。それなのに、この有り様はなんだろう。目についたピースを拾い、繋げられそうだったから、気まぐれに並べてみせていたら、トントン拍子にいいように進んだ。俺はうっすら気がついた。この話、そこへ持ってかれてる。俺の動きは、流れに逆らっていない。
やっちまったな。これじゃ悪役だ。だけど今更どうしようもない。
世界を現実的に滅ぼす方法など簡単に浮かぶ。でも実際には起きそうにない、起きても滅ぶに値しないような出来事で滅んだほうが、馬鹿馬鹿しくていい。とはいえ神出鬼没のサメに人が滅ぼされる場面は、やっぱりちょっと想像しにくいから、ゾンビくらいがちょうどいいなと思った。人が人ゆえに滅ぶというならゾンビが一番ふさわしい気もする。人間が人間ゆえにどんどん愚かな存在になって、残されたまともな人間がどんどんそれに潰されていく。〝
なるほどね。これを実現するなら、
もうすぐ場面が変わるけど、俺がアズキヤに話したのは、今まであんたらに話したことのほんの一部だ。そうそう、アズキヤは、『ヨハネの黙示録』なんて知らないだろうから、その辺りの話もしておいた。彼ならきっといいリアクションをしてくれるはずだ。あんたらは、俺がどうしてこんなことを企んだか、分からなかっただろ? 大したことじゃないんだよ。強いて言えば成り行きだ。だが、「できそうだったから」って、起こることが分かっていたのに止めなかったと言われればそうだ。未必の故意ってやつかな? だから、俺はやっぱり罪人で、たぶん責任を取らされる。
正確な歳は分からないが、まだ三十の手前のはずだ。予定より、ちょっと早いな。
◆
「ハア?」
「ああーもう、それがめんどくさいんだよ。『なんだその話』ってなもんだろ? だけど、事実なんだから」
「…………」
「ヨハネの四騎士に当てはまる人がたまたま揃っちゃったんだ。シュンが信者に説いたせいでこの世に生まれちゃった〝ルール〟が、もしかして発動するかもなと思って、四人がうまく当てはまるように仕向けてみてただけなんだよ。それだって頭の中でこじつけを考えてみたり、知った情報を共有して〝話〟の表に出してみたり、そういうことをただしてただけで、そしたら、これだ。言っとくけど、君が僕を天秤座だって言わなきゃこうはならなかったんだぜ。それで俺の中でピースが全部嵌まっちゃったんだ。あーあ。知ーらない」
「なにほざいてんの? 責任転嫁も大概にしてくださいよ」
「騙されなかったか……ねえ、お腹空いてない? なんか食べようよ」
「マジ意味不明……」
吐き捨てるように呟いて、アズキヤはハンドルを切った。車はどうにか動き出し、二人は国道を進んでいる。一見すると世界崩壊などなかったかのようないつもの朝だ。だが、やはりそこかしこに、混乱と恐慌が息を潜めている気がする。
奥底でいくら騒ついていても、水面上の平穏は保たれている。今は、まだ。
「メシったって何を? 腹は減ってますけど、俺いま何が食いたいのか分かんないっすよ」
「ええ、君が? ホントに世界終わる感じだね」
「どこで実感を得てんすか。ラーメン……じゃあラーメンにしましょう」
ユウは車窓を見つめた。アズキヤ側のサイドウインドウに、ラーメン屋の軒が流れ去る。
「いいよ。ラーメン屋か、僕詳しくないけど。君はどこか知っている?」
「よく行く店ならありますよ。近いです。ルート外れますけど」
「構わない。寄り道しよう。おいしいの?」
「まあ、そこそこ」
アズキヤはウインカーを出し、スムーズに車線変更する。郊外へ向かっていた車は方角を都心へと変えて、雑居ビルの立ち並ぶ飲食街へ進んでいく。外を眺めていて、ユウはあるものに気がついた。しばらく見つめたあと、口を開く。
「アズキヤくん」
「はい?」
「あのビルってさ、いまどうなっているんだっけ?」
ユウが指し示すほうを見て、アズキヤは軽く頷く。
「事件以降も金王組の持ち物っすよ。とはいえ、あいつら燃えたんで。今は無人じゃないんすかね」
「へえ……」
口に手を当てて、ユウは雑居ビルを眺めた。ややあって手を離し、視線は変えずに告げる。
「あのさ、ラーメン食べ終わったら、食料買い込んであそこ行こう。籠城にちょうどよさそうだ」
「ええ?」アズキヤは顔をしかめた。「あんな狭くて逃げ場のないとこ、ゾンビ映画で行くもんじゃないすよ」
「そお? 山の上の屋敷のほうが詰みやすいような気がしない?」
「んー……」アズキヤは減速しながら考え、やはり首を捻った。「そうですかね?」
「あはは。じゃあ、アズキヤくんは、あっちに行って確かめてよ。俺はどのみちシュンと合流しなくちゃだし、車も設備も好きにしていいから」
「いいんすか? じゃ、そっちにします」
「よろしく。状況わかったら、連絡取れそうなときに頼むよ」
「携帯いつまで通じますかね」
「そうだねえ。〝設定〟次第かな……」
車は空いたスペースを見つけ、静かに停まる。視線の先に、空きビルの隙間に挟まれた赤い暖簾が、ぽつりとあった。
†
思い返せば、あれは十二月二十五日の朝のことだったんじゃないか。
あの朝。救貧院の帰り、いつもの駅でビリーを見つけた朝。動かない彼をじっと見つめて、俺はやがて、隣に腰掛けた。氷が置かれているかのように、隣から冷気が漂ってくる。氷。氷と言ったって、もう差し支えないのかもしれない。彼はずっと動かないし、この先も、動くことはない。
話しかけなかった。触れもしない。その意味が失われたことを、目にしたときから悟っていた。
電車が滑り込み、口を開けた。入っていく者も、吐き出される者もなく、静かに去っていく。冬だ。十二月の終わり。ビリーがここ数日どのくらいメシにありつけていたか知らない。聖夜の近くには慈悲心が芽生え、多くの施設や人が急に施しを始める。だけど、逆の場合もある。せっかくのめでたい時期に、惨めなものなど見たくないことも。
この時期だから、浮かれたやつらからスリをするくらい簡単だと思った。だけど、不運が続いたかもしれない。あるいは誰か一人に捕まり、手酷い応答を受けたのかも。訊くこともできない。悔やんでも遅い。すでに彼は俺の隣で凍りついたように冷え切っていて、その体が温まることは二度とないだろう。じきに、誰かが遺体を回収してどこかへと消す。その場所も、俺は今後知らないまま。
不幸に意味はないはずだ。大抵の人間にとって。
不幸がその身に降りかかるのは、何の謂れもない、くじ引きみたいなものだ。どんなところに生まれ、どんな苦労や幸せを得て育つにしても、そこに意味はない。そりゃ、社会構造とか政治とか、そういう理由はあるだろうけど、裏を返せばそれだけだ。たまたまそこに生まれてしまい、それでやっていくしかなかった。その事実には変わりない。
だが、俺の場合には、違うのかもしれなかった。
俺はこの場所に設定されて、こういう目に遭うということを用意されていたのかもしれない。俺は俺の人生を生きているつもりだが、そこここに準備されている出来事があるのかもしれない。そういうとき、レンズが向いて、急に俺を映し出す。その他に描かれなかった膨大な人生があるのに、必要な時だけ目を向ける。そして書く。「何者か」として。今もまた、その視線がある。
俺は黙って考えていた。隣の人間の死について。
隣の人間が、〝俺を描く都合〟のためにこうして死んだ可能性について。
足音がした。ほぼ無人のホームに、上から降りてくる革靴の音が大きく響く。その音は、大人のものにしては軽く、しかし上等な音色で、どういう靴を履いているのかすぐに分かる。案の定、予想通りの人間が徐々に姿を現した。暖かそうなコートを着て、ウールのボトムスを履いた、細い脚。
「エディ?」
澄み切った、声がした。声変わりを経てもなお、透明なままの声。
「何をしているの? 背中、見かけたから——」言いながら降りてきて、隣に気づく。「……ビリーくん?」
彼の声は、誰の答えもなく、早朝の寒気に吸い込まれる。カートはビリーをじっと見て、じきに俺と同じことを悟ったようだ。ハッとして、それから唇を結んで、ゆっくり、歩いてくる。
無言で、俺の隣に座る。しばらく、なんの音もない。
彼の死が、俺に何をもたらすのか。何をもたらすと期待して、〝誰か〟は彼を殺すことにしたのか。考えたくなかった。考えて、何に辿り着いたって吐き気がするだけに決まってる。何のつもりで、何のためであれ、そんなことのために殺されたのかと、頭が焼き切れそうになって、だがもう死んでしまったものは取り返せない。考えようとするのを、俺は必死に抑え込んでいた。やめろと唱えていた。顔も動かさず、この無意味な取り組みが早く終わることを望んでいる。意味がない。意味がないからだ。苦しんだって報われるわけじゃないなら、苦しむ意味がない。
やがて、カートが少し身じろぎした。
レザーの手袋を、外している。視線は向けていなかったが、視野には入った。彼は、深いブラウンの手袋を、俺のいる側の右手だけ外すと、ちらりと、俺の腕を見た。俺の手の先は擦り切れたポケットの中に収まっている。彼がそこを見ていると分かる。俺は、何もしない。
彼は、手袋を膝の上に置いた。そうして身を傾けて、おずおずと右の手を伸ばす。すっと、俺のポケットに、滑り込ませる。
中で彼が手を握った。指を絡めるようにして、華奢な手で、俺の掌を繋ぐ。
何も言わないままでいた。彼の頭が肩にかかり、心地よい重みを受けてなお。
二本目の列車が、ホームに入る。その中には人がいて、彼女はツカツカと去っていく。乗る人はおらず、列車は行く。アナウンスの残響が消える。
彼の体温を感じていた。俺は、つい呟いていた。
「——冷た」
最も善き人は還ってこない。とっくに、気が付いていたのに。
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