第十六話



    †



 初めて〝それ〟が来たのは、自分の名前も分からないほどまだガキだった頃のことだ。

 尤も、本来その歳には、大抵のヤツが自分の名前は分かっていた筈だろう。俺の両親はいつもラリってたから、俺の名前をほとんどまともに呼べたことがない。もしかして「エドワード」と呼びたかったのか、と知れたのは、もう少ししたあとに捜し物で家中ひっくり返し、引き出しの底にメモを見つけたときだ。そのメモには横線の引かれたいくつかの名前があって、最後、「Edward」の文字だけが丸で囲んであった。スペルは違っていたが。ちなみに捜し物ってのは炙りのためのライターだ。俺はヤクだけはやらないと早いうちから決めていたが、両親に辞めさせようと思うことはなかった。他人の人生だ。

 話を戻そう。当時の俺は、恐らく三、四歳だったが、その日もソファーや床に伸びている両親を尻目に飯を探していた。たまに正気のとき、彼らは俺を養うために食料を買ってくる。哀れなことに、彼らは俺をできることならちゃんと養育したいと思っていた。バッドの錯乱に陥って壁に物を投げるなんてのはあったが、俺は彼らの暴力の標的になったことはない。何せ家を徘徊する蟻一匹潰せなかった。追い詰めるのもやり返すのも、八つ当たりするのも無理だった。そういう人間が、より弱い立場で、貧しさと荒みの内に居るとき、何に逃避を求めるのかは想像をするまでもない。

 リビングからキッチンへ続く入り口の辺りにゴミ箱がある。覗いてみたが申し訳程度にタバコの吸い殻があるだけだ。ゴミは床に散乱していて、いくつか拾ったがぜんぶから。底を叩いても何も出ないのを確かめると俺はそれを捨て、ローテーブルの下へ目を向けた。テーブルの向こうにソファがあり、その背後には窓がある。さんさんと差し込んでくる陽の陰でよく見えないが、何か、長細いものがある。ビスケットか、クラッカーか、その手の箱のように思えた。

 俺は潜って、手を伸ばし、届かないのでもう少し進んだ。端に指が触れ、引き寄せようとして、却って向こうへ押しやってしまう。舌打ちし、ヤケクソのように這い、ケツまで潜ってようやく掴んだ。やはり紙の箱だ。食いもんだといいけど——そこで、俺は動きを止める。

 物音がした。目を向ける。床に、伸び切った父がいる。ソファを向いているその首が、こちらへと、ゆっくりと傾く。

 目が合った。ほぼ、同じ高さで。

 まだ若いのにどういうわけか瞳が薄く濁っていた。口が半ばいていて、泡と涎が伝っている。食べかすや溢れた紅茶で薄汚れたラグの上に、蟻が列を作り、彷徨っている。その先頭が父の顎を登って、髭に足を取られながら、洞穴の中へ吸い込まれる。何匹も。何匹も。

 目が、合っていただけだ。父はなんにも見ていなかった。

 俺は父をじっと見た。箱を握ったまま、這いつくばった姿勢で、じっくりと彼の顔を見た。俺は父とよく似ていると思った。もし瞳の白濁がなくて、生気があって、髭をよく剃って、髪くらい切ってまともな食事をしたら、今の俺にも似ていたかも知れない。中天を過ぎた陽光に、父の有様が照らされている。ただ、俺の居るテーブルの下、そこだけが暗がりだった。

 その瞬間、〝それ〟は来た。理解できない不確かな何か。

 当時の俺には言語化し得なかった。当たり前だ。今でも、〝それ〟が無い人間にどう言ったものか分からない。ただ俺は、そのとき、確かに、無視できない違和感を得ていた。急に世界が遠のいて、繋がりが断ち切られたような——この時、この場所、この感覚が、抜き取られて箱に入れられたような——

 幼い俺にはそれ以上分からなかった。箱を放さぬまま、ずりずりと後ろ向きに這ってテーブルの下を抜け出した。明るいところで見ると、クラッカーの箱だ。遠慮なく底を叩く。やがて一枚半がこぼれでた。上の一枚が半端に割れ、かつ片割れを失っている。

 不満だったが、口に入れた。奥歯で噛んでみたけれど、湿気しけって、音もしなかった。



     ◆



 クラクション。サイレン。怒号。

 あらゆる騒音が鳴り響く。アイドリングしっぱなしの車内で、アズキヤは隣のユウを見て、もはや、苛立ちを覚えていた。意味不明なくせに意味深なことを呟いたきり、独りで笑っている。何かこのパニックのワケや由来を知っているなら、せめて同行者に説明のひとつやふたつするべきじゃないか? まるでいないものみたいに、置いてけぼりにしやがって。

「ちょっと!」腹立ちまぎれにクラクションを鳴らし、やはり最前列の車が動かないのを見て横を向く。「何笑ってんすか! これ、なんなの?」

「ああ、」ようやく少し笑いを収め、しかしまだ喉を引き攣らせながらユウは言った。「いや、全然わかんない。起きた原因は心当たりがあるけど、起こってることは把握してない」

 それから彼は身を乗り出し、交差点のニュースビジョンを見上げる。アズキヤもスマホをいじりつつ、同じ方向に目をやった。

 車内であるのとこの騒音ゆえ、キャスターが何を話しているのかは分からない。だが続いて、世界各地からの中継映像が飛び込み、そこでサイレンの意味が分かった。防災システムのアラートだ。あらゆる場所で、ミサイルが勝手に発射されている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

「は?——世界大戦?」

 アズキヤが思わずこぼす。すでにスマホに目を移していたユウは、半笑いで答えた。

「ちょっと違うかな」

「なんです?」

「すでにいくつかのミサイルが着弾しちゃってるらしいけど——どれも、自国に落ちてるみたい」

 言われたことを咀嚼する間のあと、アズキヤは眉をしかめた。「ハア?」

「んー、核はないんだね。それもそうか。核なんかここで撃ったら一瞬で全部おしまいだしね。展開がなくなっちゃう。けっこう僕の意向を汲んでくれているのかな、……いやあそもそも、僕がここに誘導されてきただけなのか」

「何を言ってんすか?」

「こっちの話。気にしないで」

 ユウは軽く手を打ち振った。が、何か感じ取ったか、すぐにアズキヤを向いて、吹き出す。

「ごめん。こっちの話って、乱暴すぎたよ。怒んないで」

「この状況で説明もなしでキレるなって無理じゃないんすか?」

「分かった分かった、話す話す。でもなあ……」

「なんですか。さっさとしてくださいよ」

「理解できないトコでいちいちなんか訊かれると、ウゼえんだよな」

 アズキヤは、ギョッとした。そういうふうに思ってることは今まで散々匂わされてきたが、ハッキリと口に出すのを初めて聞いた。そして、ざわつく。

 もしかして、この人いま、全部どうでもよくなってない?

「この車の列動き出したら、〝天界〟に向かってくれる? そこで一旦落ち着こう」

 しばらくスマホを見ていた瞳が、何気なく、アズキヤを向く。

「どうせ必要だし、最初から話すよ。——君に対してじゃない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅けど。いい?」



    †



 はっきり正体を掴んだのはもう少ししたあとだ。それこそ俺が俺の名は「エドワード」だと知ったあと。俺は昔から小柄じゃないが、今ほど大柄なわけでもなかった。同年代と比べてって意味だ。目に見えて差がついたのは、十歳を過ぎてから。だからその頃は、平均よりも少し高いというくらいだった。

 親は死んだも同然なので俺は路上で生活してた。行き場のないガキにもないなりのそこそこのコミュニティがあり、年長者が多少面倒を見ていた——や、この言い方は好意的すぎる。実際のところ学も余裕もない十代のバカがすることは、年下をこきつかってボス面をするだけだ。要するに万引きやコソ泥、スリはガキどもがやらされていた。トンマは路上に座らされたけど、そっちの稼ぎはろくにない。それでも飯は分けていたから、一応の情はあったんだろう。

 俺は幸か不幸か目端の利くタイプで、器用でもあった。だからスリを覚えさせられた。だがその頃はやり始めたばかりで、失敗も多かった。今?——今なら失敗シクらない。でもスリよりもいい手がある——スリをさせられるやつっていうのは、いちおうは将来有望﹅﹅﹅﹅で、そのうちにもっとデカいヤマに関われるタマと見込まれている。とはいえ俺は当時からいつかはそこを出るつもりだった。這い上がろうとしてたワケじゃない。ただ無事に生きていたかった。強盗なぞして撃たれたら、終わりだ。

 ともかく、それは冷えの厳しくなった十月末のことだった。十一月だっけ? 曖昧だな。何にせよ秋の暮れだ。俺はそろそろ凍え始めた体を震わせて駅にいた。朝のラッシュの時刻だった。金を持ち運んでそうなサラリーマンを目で探して、一人にあたりをつけた。人に紛れながらそっと近づく。

 まあでも、ガキがいりゃ目立つわな。その辺り当時は読みが甘い。

 すれ違いざまに財布をすって、駆け出そうとした時に、ちょうど目の前にジイさんが出てきた。すっ転ばすと面倒だから一瞬立ち止まったせいで、男が気づいてから、俺を見つけるゆとりができちまった。どんな全力で逃げたって所詮はガキの脚力だ。階段を上がる途中で取っ捕まって倒された。俺は財布を投げ出し、頭を庇った。次にされることが分かってたから。

 革靴が次々降ってくる。じっと縮こまって耐える。声なんか出すと逆効果だ。謝るのもまずい。相手はますます自分の行為に肯定感を抱くことになる。こういうときにひたすら憐れっぽく赦しを乞える奴もいて、それはそれで一つのやり方だが、俺がやってもうまくいかない。俺は黙って時が過ぎるのを待つ以外ない。それが嫌なら、上手くやること。

 怒り狂って罵声を放つ彼を、人々が遠巻きにけていくのが分かる。行き過ぎてからひそひそと、囁く声を耳が拾う。「子ども相手に」……まあ、それはそうだが、自分が必死に稼いだ金を横からすられりゃキレるだろ。こういうふうにブチギレたやつは、大抵警察に連れてかないからいい。思うさま殴ったあとで、自分の傷害罪ショウガイが気になるんだろう。

 彼の怒りは長引いた。もちろん痛いし、身に応えたが、正直俺は飽きてきた。肘をがっちりと締めたまま、意識が他のことに向き始めた。階段の硬さ。食い込む痛み。コンクリートから、金具から、しんしんと染みてくる冷え——

 ちょうど、その時だった。また降ってきた。〝あの感覚〟が。

 もっとガキの頃、クラッカーの箱を取ったときにも降ってきたもの。この時の俺は少し長じて、自分の頭で考えることができるようになっていた。だからもう一歩正体が見えた。この感じ。自分の頭上から、あるいは遠くから向けられた何かに切り離されていく感じ。この感覚は、たぶん、〝視線〟だ。

 俺は今、見られている。誰かに。

 気づいた瞬間、ムカついた。何見てやがる。よりによってこんな瞬間を、じっと見つめてどうしたい?——知れている気もした。ガキが窃盗に手を染めて被害者に蹴りつけられるのを、一体どういう文脈でなら憐れでないように見れるんだ?——沸々と、怒りが込み上げる。ただ生きているだけだ。必死に生きているだけで、それを他人にどうこう言われる筋合いはない。俺の人生がお前にとってどう見えるかなどどうでもいい。どうでもいいのに、なぜ取り上げる﹅﹅﹅﹅﹅? なぜ俺を、俎上に乗せる?

 家のない絵描きが街にいて、近くを通ると俺を描きたがった。暇なときには付き合って、向かいの縁石に座ったものだ。俺はあいつに描かれることが嫌だったわけじゃない。でも、この視線は、腹が立つ。この目は何かに仕立てている。狙った瞬間だけ取り上げて、文脈に乗せてる——じき、気づいた。

 見てるんじゃない、書いてる﹅﹅﹅﹅んだ。俺を叙述している。誰かが。

 今度は、鳥肌が立った。

 どこから降ってくるものか、分からないからだ。避けようがない。例えば街で俺に向かってシャッターを切る奴がいたら、追いかけて殴ってカメラを叩き割ってやったら済む話だ。済まないものもあるだろうが、少なくともそいつは二度とやらない。でも、この目は? 手の届かない場所から、勝手にこちらを覗いてきて切り取って書き記す者は? 俺はどうやってこいつを折れる? 手段がないのがすぐ分かった。急に向けられるカメラを遮る手立てなんかは俺にはない。この誰かが、俺に評価を加え、俺に何らかの演出をするのを、俺は防げない。逃げられない。

 もちろん当時ここまできっちり言語化できていたワケじゃない。だがその事実にはたどり着いていた。だから、俺は諦めた。逃げることを。〝それ〟から逃れることを。できもしないことにいつまでも文句を言うのは時間の無駄だ。そんなことに割くリソースはない。〝これ〟と共に生きていくしかない。なら、この中でどうする?

 ……不意に、足が退いた。捨て台詞を吐きながら、彼は無人の駅を去っていく。足音が聞こえなくなって、しばらくしてから身を起こした。上着のポケットに手を伸ばす。

「バーカ」

 思わず口に出していた。抜き取った紙幣が手の中で、少しだけぬくまっていた。



 大人になっていくにつれ分かることはどんどん増えた。カートに出会った頃——七、八歳——には、かなりのことを理解していた。書いてるやつと同じところに、ただ見てるだけのやつもいる。あいつらは、ほとんど万能だが、俺の考えや行動を何もかも自由にできはしない。外側のこと——出来事や環境、そういったことは操作可能だ。〝登場人物〟に関しては、持ってくる駒を選べはするが、できあがっちまった駒を好きにいじれるわけじゃないらしい。俺もそういう駒の一つだろう。

 彼らは駒の内側までは好き勝手できないが、とはいえずっと盗み見ている。ある程度性向を把握しているはずだった。誰と誰が出会い、何が起これば、大方どのような事態になるか。予想して駒を進められる。俺たちはその盤上にいて、そこで生き延びていくしかない。俺が一つ違うのは、自分にカメラが向けられている瞬間がわかるってことだ。そこで何を演じるか、俺はある程度決められる。

 ただの「モブ」にこんな知覚が与えられるわけがない。俺は望もうが、望むまいが、何かしらの渦中に置かれてしまっている。俺はいったいどういう理屈でこんな視点を与えられたのか——何度考えても、己が主人公だとは思えなかった。何か変えようとしたり、良くしようとしたり、前に進んで行こうとしたりという動機が、俺には全くない。これで主人公になれるはずがない。

 じゃあ、悪役?

 嫌だな。死ぬじゃん。

「お話」は大体、善悪の濃淡はあれど主人公と敵役がいて、その他の人物も何かしたヤツは相応の報いを受けたりする。たぶん、でないとモヤモヤして、読み終わったあとスッとしないから。俺が例えばどんなに同情すべきところのある悪役でも、なんかやらかしたら最終的には殺されるだろう。因果応報。公正世界欲求。俺は、何度でも言うが、ただ生きていたいだけなんだ。かと言ってあまり善良に生きるとそれはそれで早く死にそうだ。『最も善き人は還ってこない』。これも物語のセオリーの一つ——勝手だよなあ人間は。この二つ、もう矛盾してない?

 生きていたほうが面白く、死が劇的にならない状態でいなくてはならない。〝都合〟で殺されぬためには。


 

 別に、世界を滅ぼそうとか、考えていたわけじゃない。

 そんな面倒くさそうなことをわざわざやるほど興味はない。世界が滅ぼうが、良くなろうが、俺にはどっちだっていい。そこで生きるだけだ。そこで上手くやるだけ。俺より幸せなやつも、俺より不幸なやつも、俺の人生に関係ない。生きていくのは俺で、俺の人生はこれだけ。

 カートに出会ったとき、そしてその〝設定〟を知ったとき、彼を使ったら世界くらい滅ぼせるんじゃないかとは思った。それは幼い思いつきで、ほんとにできたら面白いって、思っただけだ。それなのに、この有り様はなんだろう。目についたピースを拾い、繋げられそうだったから、気まぐれに並べてみせていたら、トントン拍子にいいように進んだ。俺はうっすら気がついた。この話、そこへ持ってかれてる。俺の動きは、流れに逆らっていない。

 やっちまったな。これじゃ悪役だ。だけど今更どうしようもない。

 世界を現実的に滅ぼす方法など簡単に浮かぶ。でも実際には起きそうにない、起きても滅ぶに値しないような出来事で滅んだほうが、馬鹿馬鹿しくていい。とはいえ神出鬼没のサメに人が滅ぼされる場面は、やっぱりちょっと想像しにくいから、ゾンビくらいがちょうどいいなと思った。人が人ゆえに滅ぶというならゾンビが一番ふさわしい気もする。人間が人間ゆえにどんどん愚かな存在になって、残されたまともな人間がどんどんそれに潰されていく。〝現在イマ〟を見ているようじゃないか? 実に、寓話に相応しい。

 なるほどね。これを実現するなら、日本ココがいいのか。それも、分かる。


 もうすぐ場面が変わるけど、俺がアズキヤに話したのは、今まであんたらに話したことのほんの一部だ。そうそう、アズキヤは、『ヨハネの黙示録』なんて知らないだろうから、その辺りの話もしておいた。彼ならきっといいリアクションをしてくれるはずだ。あんたらは、俺がどうしてこんなことを企んだか、分からなかっただろ? 大したことじゃないんだよ。強いて言えば成り行きだ。だが、「できそうだったから」って、起こることが分かっていたのに止めなかったと言われればそうだ。未必の故意ってやつかな? だから、俺はやっぱり罪人で、たぶん責任を取らされる。

 正確な歳は分からないが、まだ三十の手前のはずだ。予定より、ちょっと早いな。



     ◆



「ハア?」

「ああーもう、それがめんどくさいんだよ。『なんだその話』ってなもんだろ? だけど、事実なんだから」

「…………」

「ヨハネの四騎士に当てはまる人がたまたま揃っちゃったんだ。シュンが信者に説いたせいでこの世に生まれちゃった〝ルール〟が、もしかして発動するかもなと思って、四人がうまく当てはまるように仕向けてみてただけなんだよ。それだって頭の中でこじつけを考えてみたり、知った情報を共有して〝話〟の表に出してみたり、そういうことをただしてただけで、そしたら、これだ。言っとくけど、君が僕を天秤座だって言わなきゃこうはならなかったんだぜ。それで俺の中でピースが全部嵌まっちゃったんだ。あーあ。知ーらない」

「なにほざいてんの? 責任転嫁も大概にしてくださいよ」

「騙されなかったか……ねえ、お腹空いてない? なんか食べようよ」

「マジ意味不明……」

 吐き捨てるように呟いて、アズキヤはハンドルを切った。車はどうにか動き出し、二人は国道を進んでいる。一見すると世界崩壊などなかったかのようないつもの朝だ。だが、やはりそこかしこに、混乱と恐慌が息を潜めている気がする。

 奥底でいくら騒ついていても、水面上の平穏は保たれている。今は、まだ。

「メシったって何を? 腹は減ってますけど、俺いま何が食いたいのか分かんないっすよ」

「ええ、君が? ホントに世界終わる感じだね」

「どこで実感を得てんすか。ラーメン……じゃあラーメンにしましょう」

 ユウは車窓を見つめた。アズキヤ側のサイドウインドウに、ラーメン屋の軒が流れ去る。

「いいよ。ラーメン屋か、僕詳しくないけど。君はどこか知っている?」

「よく行く店ならありますよ。近いです。ルート外れますけど」

「構わない。寄り道しよう。おいしいの?」

「まあ、そこそこ」

 アズキヤはウインカーを出し、スムーズに車線変更する。郊外へ向かっていた車は方角を都心へと変えて、雑居ビルの立ち並ぶ飲食街へ進んでいく。外を眺めていて、ユウはあるものに気がついた。しばらく見つめたあと、口を開く。

「アズキヤくん」

「はい?」

「あのビルってさ、いまどうなっているんだっけ?」

 ユウが指し示すほうを見て、アズキヤは軽く頷く。

「事件以降も金王組の持ち物っすよ。とはいえ、あいつら燃えたんで。今は無人じゃないんすかね」

「へえ……」

 口に手を当てて、ユウは雑居ビルを眺めた。ややあって手を離し、視線は変えずに告げる。

「あのさ、ラーメン食べ終わったら、食料買い込んであそこ行こう。籠城にちょうどよさそうだ」

「ええ?」アズキヤは顔をしかめた。「あんな狭くて逃げ場のないとこ、ゾンビ映画で行くもんじゃないすよ」

「そお? 山の上の屋敷のほうが詰みやすいような気がしない?」

「んー……」アズキヤは減速しながら考え、やはり首を捻った。「そうですかね?」

「あはは。じゃあ、アズキヤくんは、あっちに行って確かめてよ。俺はどのみちシュンと合流しなくちゃだし、車も設備も好きにしていいから」

「いいんすか? じゃ、そっちにします」

「よろしく。状況わかったら、連絡取れそうなときに頼むよ」

「携帯いつまで通じますかね」

「そうだねえ。〝設定〟次第かな……」

 車は空いたスペースを見つけ、静かに停まる。視線の先に、空きビルの隙間に挟まれた赤い暖簾が、ぽつりとあった。



     †



 思い返せば、あれは十二月二十五日の朝のことだったんじゃないか。

 あの朝。救貧院の帰り、いつもの駅でビリーを見つけた朝。動かない彼をじっと見つめて、俺はやがて、隣に腰掛けた。氷が置かれているかのように、隣から冷気が漂ってくる。氷。氷と言ったって、もう差し支えないのかもしれない。彼はずっと動かないし、この先も、動くことはない。

 話しかけなかった。触れもしない。その意味が失われたことを、目にしたときから悟っていた。

 電車が滑り込み、口を開けた。入っていく者も、吐き出される者もなく、静かに去っていく。冬だ。十二月の終わり。ビリーがここ数日どのくらいメシにありつけていたか知らない。聖夜の近くには慈悲心が芽生え、多くの施設や人が急に施しを始める。だけど、逆の場合もある。せっかくのめでたい時期に、惨めなものなど見たくないことも。

 この時期だから、浮かれたやつらからスリをするくらい簡単だと思った。だけど、不運が続いたかもしれない。あるいは誰か一人に捕まり、手酷い応答を受けたのかも。訊くこともできない。悔やんでも遅い。すでに彼は俺の隣で凍りついたように冷え切っていて、その体が温まることは二度とないだろう。じきに、誰かが遺体を回収してどこかへと消す。その場所も、俺は今後知らないまま。

 不幸に意味はないはずだ。大抵の人間にとって。

 不幸がその身に降りかかるのは、何の謂れもない、くじ引きみたいなものだ。どんなところに生まれ、どんな苦労や幸せを得て育つにしても、そこに意味はない。そりゃ、社会構造とか政治とか、そういう理由はあるだろうけど、裏を返せばそれだけだ。たまたまそこに生まれてしまい、それでやっていくしかなかった。その事実には変わりない。

 だが、俺の場合には、違うのかもしれなかった。

 俺はこの場所に設定されて、こういう目に遭うということを用意されていたのかもしれない。俺は俺の人生を生きているつもりだが、そこここに準備されている出来事があるのかもしれない。そういうとき、レンズが向いて、急に俺を映し出す。その他に描かれなかった膨大な人生があるのに、必要な時だけ目を向ける。そして書く。「何者か」として。今もまた、その視線がある。

 俺は黙って考えていた。隣の人間の死について。

 隣の人間が、〝俺を描く都合〟のためにこうして死んだ可能性について。

 足音がした。ほぼ無人のホームに、上から降りてくる革靴の音が大きく響く。その音は、大人のものにしては軽く、しかし上等な音色で、どういう靴を履いているのかすぐに分かる。案の定、予想通りの人間が徐々に姿を現した。暖かそうなコートを着て、ウールのボトムスを履いた、細い脚。

「エディ?」

 澄み切った、声がした。声変わりを経てもなお、透明なままの声。

「何をしているの? 背中、見かけたから——」言いながら降りてきて、隣に気づく。「……ビリーくん?」

 彼の声は、誰の答えもなく、早朝の寒気に吸い込まれる。カートはビリーをじっと見て、じきに俺と同じことを悟ったようだ。ハッとして、それから唇を結んで、ゆっくり、歩いてくる。

 無言で、俺の隣に座る。しばらく、なんの音もない。

 彼の死が、俺に何をもたらすのか。何をもたらすと期待して、〝誰か〟は彼を殺すことにしたのか。考えたくなかった。考えて、何に辿り着いたって吐き気がするだけに決まってる。何のつもりで、何のためであれ、そんなことのために殺されたのかと、頭が焼き切れそうになって、だがもう死んでしまったものは取り返せない。考えようとするのを、俺は必死に抑え込んでいた。やめろと唱えていた。顔も動かさず、この無意味な取り組みが早く終わることを望んでいる。意味がない。意味がないからだ。苦しんだって報われるわけじゃないなら、苦しむ意味がない。

 やがて、カートが少し身じろぎした。

 レザーの手袋を、外している。視線は向けていなかったが、視野には入った。彼は、深いブラウンの手袋を、俺のいる側の右手だけ外すと、ちらりと、俺の腕を見た。俺の手の先は擦り切れたポケットの中に収まっている。彼がそこを見ていると分かる。俺は、何もしない。

 彼は、手袋を膝の上に置いた。そうして身を傾けて、おずおずと右の手を伸ばす。すっと、俺のポケットに、滑り込ませる。

 中で彼が手を握った。指を絡めるようにして、華奢な手で、俺の掌を繋ぐ。

 何も言わないままでいた。彼の頭が肩にかかり、心地よい重みを受けてなお。

 二本目の列車が、ホームに入る。その中には人がいて、彼女はツカツカと去っていく。乗る人はおらず、列車は行く。アナウンスの残響が消える。

 彼の体温を感じていた。俺は、つい呟いていた。

「——冷た」


 最も善き人は還ってこない。とっくに、気が付いていたのに。

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