第十五話




    †



 彼は駅のベンチに座っていた。そのままの姿勢で動かなかった。

 いつものことだ。いつも彼は、暖かい寝床にありつけないと地下鉄のベンチに座る。駅のベンチは昔から小さな手すりがついていて、だから寝そべることはできないが、床で寝るよりはマシだ。緯度に比べて温暖といわれるこの街も、零度を下回る日はある。そんな日に栄養不良の体で冷えた床に寝たらどうなるか、バカでも分かる。本能的に。

 昨晩、救貧院は混んでいた。一人分しか空いていないと言う。俺は彼に譲ろうとしたが、彼は駅に行くよと言った。もしかすると人種差別主義者レイシストの男が来ているのが目についたかもしれない。彼は救貧院のスタッフだ。人手も金もないから、そんな奴でも追い出せない。それに聖書には黒人差別をするなとは明記されていない。神の教えに則って施設を運営する側にしても、排除の理由はない、って訳だ。

 俺は素直に頷いて、彼を見送った。馴染みのスタッフは心配そうに彼を見ていたが、彼が去った理由も分かるのだろう、浅い溜め息を吐いて俺を通した。メシだけでも彼に食わせるかとちらと思ったが、振り向いたときには姿がなかった。身震いをひとつして、俺は中へ入った。

 そして今。俺は階段の中程に立って彼を見ていた。俯けた首。傾いだ身体。着ているのは数年前、住宅街のゴミコンテナから見つけたダウン。もうずいぶん羽毛が抜けていたが、それでも綿とは大違いだ。以後似たような古着にはありつけていない。いま俺が着てるのも、そのとき見つけたボンバーだ。

 無言で立っていた。長いこと。それから、ゆっくり残りの段を降りる。

 動かない彼を過ぎ越して、隣に座った。正面のホームに、人影のない列車が滑り込む。

 十二月の朝だった。俺は、〝あること〟を考えていた。



     ◆



 シュンは机に突っ伏していた。時おり、洟をすする音がする。残りの三人は窓際のチェアと、余った一人はベッドに腰掛け、半ばうんざりそれを見ていた。サワギリが時計をチラと見る。

「いつまで泣いてんの?」

「だってえ〜……」

「あのさ。誕生日決めたとき、どんな感じのやりとりしたの?」

 クラミが遠慮がちに問う。シュンはゆっくりと顔を上げた。

 別に泣いてない。

「……言われてみれば、確かに……私が盛り上がっていただけかも……」

「そうなの?」

「誕生日を決めたときのこと、わたくし、よく覚えてますの。その日は珍しく彼のほうからウチに来たいって言ったのよ。ダチを連れてくけど、いいか、とか言って」

「英語だとそんな感じなのね」サワギリが呟く。

「私はすっかり舞い上がって、もちろん、来て来て、と言いますでしょ。それで当日彼は友達を一人連れて訪ねてきたの。アフリカ系の少年だったわ。何度か見たことがあった、彼とよく一緒で」

「ふぅん……」

「その少年は私にも愛想が良かったけど、まあ、彼はいつもの感じで、ソファにさっさと座ってテレビつけてね。どうやら、観たい試合があったみたいなの。リモコンの操作の仕方を聞いてくるから教えたら、ピピッと合わせちゃって、バスケの試合観てた。一緒にきた少年は座っていいかって聞いてきて、私はもちろんと言って、好きな飲み物を尋ねて、二人にコーラを持っていったわ。でも私、バスケわかんなくて。近くのテーブルで席について、ホロスコープの本を読んでた」

 するとサワギリが顔をしかめた。「なんでそんなもん?」

「あなた本当にスピ嫌いねえ。『占って』って頼まれてたの。姉様と、あとお友達に」ため息混じりに言うと、シュンは立ち上がり、ビニール袋を漁って袋菓子を開けた。「わたし昔からちょっとこう、神秘的な感じあったのね。髪と目のせいでしょうけど。それで思いつきの幽霊話なんかしたりするでしょ。すっかりこう、霊能者じみてきちゃって」

 椅子に戻るとシュンはチーズのスナック菓子をつまみ出す。コンビニオリジナルの小さな袋。

 クラミが相槌を打った。

「それで、お姉様と友達の遊びに巻き込まれた、みたいな?」

「そう、そう。クリスマスにね、カード占いをする風習があってね。あたしもやってみたら、存外好評で、ホロスコープも見てみてよって言われちゃったの。せっかくだから本を読んで勉強しましたのよ。いちおう、あれってサインごとに意味が決まってて適当なことは言えないの。当たるか否かは知りませんけど、あたしが言って向こうが信じたらどうせ現実になりますし」

 なかなかの言い草に、クラミは微妙な顔をした。シュンはその顔に目を遣って、そっけなく言い足す。

「ええ、だから、いいことばかり言いましたよ。叶えば嬉しいでしょ?」

「で」サワギリは呆れた調子だ。「天秤座の欄でも見たわけ?」

「そ! その本、誕生日と時間帯ごとに、生まれた時にはどんな星が見えて、どんな要素があって……って説明をしててね。彼と友人がバスケを観てる間、あたしは天秤座のページを熟読していたの。星座自体の特徴と、誕生日ごとの星の位置と」

 クラミの脳裏に、広いリビングと、ダークウッドのテーブルについて怪しい本を読むシュンが浮かんだ。斜め前には革のソファがあり、幼いユウと、アフリカ系の友人とが並んで座っている。きっとテレビは大きくて、壁掛けタイプであるに違いない。二人が来たのが何時か知らないがクラミの脳内では昼だった。陽の光の差し込む窓辺、樹の葉影がリビングに落ちて、まだ床に足が届かないシュンの足元を飾っている。

「天秤座の説明を読んで、あら、彼にピッタリだ、ってわたくし、思ったのよ。オシャレさんだとか人当たりがいいとかそういうのはさっぱりでしたけど、バランスを取るのが上手で、偏らずに物事を見つめて、冷静で理知的な判断を下せるなんてのは、よく当たってると思った。それに彼、愛想がいいわけじゃなくても、コミュニケーションそのものはとっても上手だったのよ。でなきゃ社会階級の違うわたくしとやっていけやしない」

「愛想は悪いけど、コミュニケーションは上手って、どういうこと?」

「その逆の例がお前だろ。反対にすりゃ分かるんじゃね?」

 シュンは笑った。

「そうねえ。余計なことは言わなくて、何か言うときは伝え方が上手いの。相手に分かるようにって意味でも、相手が受け取りやすいって意味でも」

 しばし考えて、続ける。

「彼の周りには年下の子や、文字が読めない子も多くいた。世間知らずのわたくしもね。でも彼の態度って、フラットなの。馬鹿にした口ぶりでも、見下されてる気はしない。だからか彼の言うことは、素直に聞けてしまうのよ」

 ひとまずシュンの考えに——というより、シュンがどう考えたのかということに納得したサワギリは、先を促す。 

「そんで?」

「ええ。で、詳しいことは省きますけど、私はその欄をじいっと読んで、九月二十八日が彼の誕生日にピッタリと思った。彼に誕生日のないことはもう聞いて知ってたんだけど、私はそれが不満でね、だってプレゼントを贈る口実が減ってしまうでしょ、だからこの日が誕生日ってことにしてくれたらいいと思った。それで、バスケを観てる背中に、呼びかけたの。ねえ、君の誕生日、九月の二十八日はどうかな——」

 深い、吐息が漏れる。

「……私、そのとき、興奮してたのね。うってつけの日が見つかったと思って、それで頭がいっぱいで。彼が生返事だったこと、あまり気に留めていなかった。彼きっと、バスケに夢中で、話とか聞いてなかったのね。『いいんじゃねえの』ってのは、たぶん、ほぼ意味のないお返事よ」

「だと思うぜ」サワギリは白けた目で言った。「よく勘違いできたな」

「オッケーをくれたと思ったのよ。それから毎年、その日には、プレゼントをあげたりしてたけど、確かにちょっと不思議そうな顔してたかもしれない。シーズンごとにプレゼントすることにしたと思ったかも。春はホワイトデー、冬はクリスマス、夏は口実も特にないけどうやむやでプレゼントしてたし、たぶんその手のことと思ったのね」

「すごいなあ……贈り物好きだね」

「持っててほしいと思うとついつい買っちゃうのよねえ。貢ぎへき

「すまん。ちょっといいか」

 と、突然、草壁が、控えめに挙手をして言った。肩のあたりまで挙げられた手を見て、シュンが首をかしげる。

「あら、ヨハネさん。どうぞお」

「いやヨハネさんはやめてくれ。どうもヨハネって柄じゃない」

「下のお名前なんておっしゃるの? あたし聞いてない」

「俺も知らねえや」

「ウソお、聞かなかったの?」

「カベっちはカベっちだしさあ」

憲次けんじだよ。憲法に次」答え、額を搔く。「また話が出たんでな。ちと、デリケートな話題だが……」

 シュンは、チーズスナックをつまむ手を止めた。どこからか取り出したウェットティッシュで指を拭く。

「ええ、構いません。お訊きになって。とんでもないことに巻き込んで、取材くらいはさせないとね」

 草壁は彼を見つめ、そっと手帳を開いた。背筋を伸ばす。

「あんたのお姉さんのことだ。聞いてもいいか」

「どうぞ。何が知りたいの?」

「あんたのお姉さんの飛び降りは、いろんなことが不可解だった。何が起こったかは、……さっきあんたから聞いたけどな」

 視線を落とし、手帳を見つめる。その一行に、彼は目を凝らす。

「姉さんが遺した最期の言葉——『私は空を飛べるのよ』。この意味が、まだよく分からん。あんたにも、手がかりはないのか?」

 シュンは、静かな顔で、草壁を見ていた。見て、ただ見て、その瞳のまま、淡々と語る。

「最初に言っておくわ。今から話すこと、わたくし別に引きずっちゃいないの。だから心配はご無用よ。意味がないことは分かってる。ただの感傷なんですから——」

 そうして目を逸らすと、卓上の、小さな袋を見つめた。少し迷い、結局細い指を伸ばしてスナックをつまみ、頬張る。

「もう、二十年ほども前かしら」

 呟いて彼は指を舐め、ぽつりと言った。

「やだ。歯にくっつく」



     ◇



 姉は、悲しいことがあると、人目を盗んで裏庭へ行く。家の使用人も、弟たちも、あまり通らない家の裏手で、常緑樹の陰に座って、バレないようにひっそりと泣く。

 いつも明るい姉の一面を、すぐ下の弟であるカーティスは知っていた。というのも、その木はカーティスの部屋から見える位置にあり、姉は知る由もなかったが、たまに目に入ることがあった。

 姉が誰にも知られたくなくてその場所へ行くと分かっていた。なので幼いカーティスは、どれほど心配でも、泣いている姉を慰めに行くということはしなかった。気づかぬそぶりで目を背け、勉強の続きに取り組む。でも、やっぱり気になって、チラチラ窓を見てしまう。悲しいことがあったのか。ひどいことでも、言われたりしたか。

 秋の香りがし始めた、ある晩夏の夕方。その日も、やはり姉は、木陰に座って泣いていた。いつものようにカーティスは見て見ぬ振りをしようとしたが、なんだか姉は長くいる。時計を見ると、あと少ししたらディナーの時刻だ。さすがに心配になった。

 もしかして、今日の姉は、気づいてほしい気分なのかも。誰かに気づいて、慰めてほしくて、それでわざと立ち去らないのかも——

 数分の間迷った挙句、カーティスは読書を切り上げて部屋を出た。こっそりドアを開け、姉のもとへと向かう。

 薄い黄金こがねに輝く芝生を踏みしめて、忍び足で歩いた。姉はすぐ近くに来るまで顔を上げなかったけど、もう少し早く、弟が来たのに気がついていたのかもしれない。

「姉さん」

 小さく呼びかける。姉は目元をこすり、カーティスを見上げた。

「あら、カート。いやだ、」赤い目で笑う。「恥ずかしいところ見られちゃった」

「ううん……」カーティスはもじもじと身をふり、それからおもむろに膝をついた。姉の目元へ指をあてる。「どうしたの?」

「なんでもないのよ。ごめんね。心配ね」

「うそだあ。なんでもないなら、泣かないよ?」

「そうね、……」

「悲しいの? ぼく、お話聞く」

 姉は目を逸らし、しばらく黙った。風がなんどか吹き抜けて、いくどめかの北風に、押されるように口を開く。

「お姉ちゃんね、好きな人がいるの」

 それはカーティスには実感のない言葉だったが、意味するところはわかった。

「そうなの? 学校の?」

「うん」こくりと頷く。「ずっとね、好きだったの。一年前、パーティーの席で会ったとき、とても優しくしてくれて……」

 カーティスは真剣に頷き、話を聞いた。

「でもね、私、薄々ね、分かってた」姉は、囁くように続ける。「彼、ほかに好きな人がいるの。たぶんね、私のお友だち」

 ああ——カーティスは思わず眉を寄せた。いつだかそういうドラマを見た。気づいてしまった主人公は、独りベッドで泣いてたっけ。

「お友だちもね、彼のこと、気になっているふうで」姉は着ているスカートをつまむ。「今日、相談されちゃった。彼のこと、ちょっと気になるんだけど、脈アリかな、って。私、——」

 そこで姉ははっきりとうつむき、顔を隠した。声がうるみ、しかし新たな雫をこぼすのはどうにか堪えたらしい。

「分からない、って言っちゃった。いい人よね、応援する、って。頑張ってって、言ったんだけど……」

 ぎゅっと握られた姉の手に、カーティスは小さな手のひらをのせた。頭のなかで、必死に考えた。姉は何に傷ついているのか。どう言ってあげたらいいだろう。たぶん、いじわるをしてしまったと思っているのだ——彼はきっとあなたが好きよ、うまくいくわ、って言えなかったと。それに友だちと好きな人が結ばれそうなのもきっと切ない。姉さんは、優しい人だ。必ず似合いの人がいるはず——

「あのね」カーティスは、秘密を打ち明けるように、声をひそめた。「言ってなかったんだけど……」

 姉は、鼻をすんと鳴らして、顔を上げた。不思議そうな目をしている。

「ぼく、実は、姉さんの、秘密をひとつ知ってるの。だれにも言っちゃいけないって、パパに内緒にされたんだけど……」

 深刻そうな表情でいえば、姉もごくりと唾を呑む。

「あのね……」カーティスは、努めて真剣に言った。「姉さんはね、ほんとは天使なの」

「……え?」

 姉は、ぽかん、という顔だ。当時、『鳩が豆鉄砲を食ったよう』という言葉を知っていれば、恐らくそう形容したろう。だがカーティスは態度を変えない。嘘をつくときはこれが肝要。

「姉さんは、パパとママが、とくべつに神さまから授かったの。生まれるときに啓示があってね。夢に神さまがいらして、じきに生まれる女の子は、実は天使で、おまえたちに預けるので、大事にするようにって言ったって。姉さんはとくべつな使命があるの。人間として生まれたけど、魂は天使さまなの。だから、姉さんには神さまがとくべつなひとを用意していて、そのひとに出会うまで、恋は、うまくいかないのかも」

 努めて、努めて、大真面目に、カーティスは言った。目の前の姉が、あっけにとられた表情から、だんだん含み笑いになっても。姉さんは他の人の真っ赤な嘘には騙されるくせ、カーティスのついた嘘には騙されてくれないのだった。ただ「騙されたふり」をして、愛おしげに頭を撫でるだけ。

 このときも、そうだった。姉は柔らかい微笑みで、カーティスの黒髪を撫でた。

「そうなの。私は、天使さまなのね」

「そうだよ」カーティスは半ば拗ねていた。「ほんとうなんだから」

「疑ってないわ」姉は、どう考えても信じていない、優しい声で答える。「そう、知らなかった。だから彼とは無理なのね。でもきっと、いつか誰かと会える」

「そうだよ。神さまが選んだから、きっとすっごくいい人だよ。何もかも姉さんにぴったり」

「私は天使さまなのねえ」もう、面白がっている。「それじゃ、お空も飛べちゃうの?」

 カーティスはむきになっていた。平然と頷く。

「そうだよ。姉さんは忘れているけど、姉さんには羽があるんだもん。姉さんが天使さまだって思い出したら飛べるようになるけど、まだ姉さんには姉さんの記憶しかないからだめなの。物事には、順序があるの。天使だってことが分かってからしか、天使の力は使えないよ」

「そう。順序がね」ますます愛しげに、姉はカーティスを撫でた。

「ほんとなんだから。姉さんは、天使さまなの! お空だって、飛べるの!」

 いよいよ笑みを隠さなくなった姉は、満面で笑うと、ぎゅっとカーティスを抱き寄せた。温かい体に包まれて、カーティスは口を尖らせる。

「優しい子!」姉は頬擦りをした。「ありがとう。元気が出たわ」

「信じてないでしょう? ぼくが、嘘をついたって思ってる」

「信じたわよ」姉はくすくす言い、カーティスを解放した。「でも、ひとつだけ」

「なあに?」

「カート。神さまが、特別にお授けになったのは、なにも私だけではないわ。カートも、アーニーも、パパとママも。私の好きな彼も、私のお友だちも、……誰しもみんなそうなのよ。みんな神さまが遣わした、特別なひとなの。もちろん、いつか出会う私の彼もね」

 不満を顔に出しながら、しかし不承不承うなずいた弟に、姉はウインクをした。そして、その頬を優しくつまむ。カーティスは姉の指先にくすぐったさを覚えながら、姉が楽しげに笑うのにようやく、ほっとした。まもなく、二人を探しに来た使用人がディナーの支度のできたことを告げた。ふたりは、手をつないで、家へ戻った。

 遠い、夏の記憶。



     ◆



「姉様ねえ……」

 シュンは歯についた粉をなんとか舌でこそぎ終わると、頬杖をついた。

「明るくて優しくて、大好きな姉様でしたけど。昔のことをいつまでもこすり続けるトコあったのよね。別れる寸前まで言ってたわよ」

「ってこたあ……」草壁は手帳に短く書き付け、耳の辺りを搔いた。「お決まりのネタだったのか?」

「そういうこと。もう、ちっちゃいころの失敗を延々からかうんだもの、ときどき嫌になりましたよ」

「からかうというか……お姉さんとしては、心温まる思い出だったんじゃない?」とクラミ。

「そうでしょうね。とにかくお気に入りでしたわ。今になれば分かるのですけど、ちょうど思春期の初めでね。姉さんが話すたび、顔から火が出る思いだった」

 そこでシュンは頬杖を解き、卓上の瓶に手を伸ばした。飲み切ったフルーツ牛乳の厚い飲み口に指を置き、軽く、傾ける。

「信じてくれたらよかったのに。そうしたらあの時だって、羽が生えたかもしれなかった」

 皆、黙った。シュンに対して、なにを思っているにせよこの話には触れにくい。

 サワギリはふと思い立ち、密かにシュンへ目を遣った。シュンではなく、その背後を視る。以前視た際は禍々しい死の影としか見えなかったが、話を聞いたせいか、今の彼女は、当時の面影を少しばかり取り戻しているようだった。見つめていると彼女も気づき、こちらに何か目配せをしてくる。どうやら、言いたいことがあるらしい。

 サワギリはしばらく見つめ、そのままふいと目を逸らした。聞こうと思えば聞けただろうが伝書鳩をするつもりはない。だから心中で短く返す——大事なことだろ。

 自分で、言え。



    †



 いつもの外車に乗り込んで、アズキヤは歓楽街へ向かった。ユウは今日は助手席にいて、やはり窓の外を眺めている。

「さっきのおっさん、何やらかしたんすか?」

 信号待ちに訊いてみると、ユウは視線を向けぬまま言った。

「ピンハネ。僕らの想定通りの報酬を渡していなかった」

「なるほど」

「困るんだよねえそういうことされると。ひとは報酬に見合う働きをするもんだ。こっちはさ、いい仕事してほしくって弾んでるわけ。最初に話した紹介料が不満なら、交渉するべきだろ?」

「真っ当に考えりゃそうすね」青信号になった。アクセルを踏む。「でも、外注先も削られたところで、下手打てないでしょ。シメる意味あります?」

「そういう問題じゃない。僕らはさ、プロを雇いたいんだ。だからプロが受けてくれるだろう金額を計算してる。そこをピンハネされちゃうと、結局その値で仕事を受けるのは三流のチンピラになっちゃう。あと、ピンハネをするってのはこっちを舐めてるってことなんだ。舐められちゃ困るでしょ、この業界。きっちりさせないと」

 アズキヤはふむと頷いた。確かに、怖い相手から頼まれた仕事でピンハネしようとは思うまい。

「ナアナアで済ませてくれる相手と思われちゃ困るんだ。評判としてね。だからシメた。次の仲介屋がこれを考慮して、馬鹿なことしないでくれるといいな。ヒノさんとこは保証アリだけどその分高くつくからね。ホイホイと些事には使えない……」

 つらつら答えながら、その実、ユウは別のことを考えているふうだった。それでアズキヤは、しばし話しかけるのを遠慮しておくことにした。車は大通りを走り、数分後、巨大モニターが取り囲む交差点へと差し掛かる。

「あ、」

 ふと、そのうちの一つを見上げたアズキヤが、指を差した。

「ユウさん、今日、運勢最下位らしいすよ」

「うん?」

 ユウはアズキヤを向き、続いて、彼が指差す先のモニターを見た。朝のニュース番組で、画面の下部に星座占いが流れている。

「ほら、天秤座」

 アズキヤが腕を伸ばし、さらにモニターを突くようにした。

「どうして天秤座?」

「え? だってユウさんて、誕生日もうすぐでしたよね」

「誕生日? そんなの言ったっけ……」

「ユウさんからは、聞いてませんけど」

 ユウは視線をアズキヤに戻し、困惑を眉根に表した。アズキヤもまた戸惑っていて、赤信号をいいことに完全にユウを向いている。

「だってシュンさんが三ヶ月も前からキャーキャー言ってたじゃないですか。今年は何あげようかしらって。なんかあるんすかって聞いたら、誕生日だって言ってましたよ。九月二十八日。星座とか覚えてねえけど、あの占いが天秤座だって——」

 ユウはまたも視線を移す。ニュース番組の下部を流れる白い文字を凝視する。じきに天秤座の項目がまた現れた。9/23〜10/23。確かに九月二十八日なら、天秤座だ。そして、運勢最下位。

「……天秤座?」

 茫然と呟く。アズキヤは前を気にしつつ、訝しげに見つめた。

「だからそうでしょ。なんなんすか、マジで」

 目を下げると、歩道の信号の、青い目盛が消えかけている。ユウは、口元に手を当てた。

「そうか。僕はシュンの中じゃあ、天秤座の人間なのか」

 ずっと抱えていた懸念事項。あとはこの点だけだった。今朝ホテルで、グラスを倒したことが、ずいぶん昔に思われる。実際はたかが数時間なのに……他のピースは足りていた。理屈の通らない箇所も、誤魔化す術は見つかっている。ただ最後、自分自身だけが、どうもピースを埋められないと思っていた。こじつけの方策を探していたが、なんのことはない。すでに満たしていたのだ。俺の由来など、これで十分。

「はは、おい——」思わず声が出る。「なんだよ。もう、揃っちまったぜ」

「ハア?」

 アズキヤが鋭く声を出す。車道の信号が青になる。

 だが、どれひとつ動かない。

 それぞれの車内で携帯が、警報を鳴り響かせていた。モニターのニュースキャスターが、何かを受け取り、——顔色を、変えた。

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