第十二話



     ◇




 その日、いつもの朝食の席で向かいに腰掛けた彼を見て、アメリアは思わず笑った。絵に描いたような膨れ面。テラスに置かれた長テーブルには真新しい白のクロスがかかり、オレンジの葉の木漏れ日が模様を描き出している。

 夏季休暇中の別荘はイオニア海を望む位置、高台の一角にあった。メイドが準備を済ませた席に腰掛けた弟は、近ごろめきめきと背が伸びて、もしかするともうアメリアを越しているのかもしれない。

「カート」アメリアは声が笑いそうになるのを極力抑えた。「どうしたの? ご機嫌ななめ?」

「白々しいこと言うなあ」カーティスは少し刺々しい、とはいえやっぱり丸い声で答える。「僕の不機嫌の理由なんて姉さんは百も承知でしょう? 当事者なんだからさ、なんたって」

 小さな頃からませたところはあったけれど、最近は特にそう。口の達者さに磨きがかかり、小憎らしいセリフを吐くようになった。と言っても皮肉屋は母国に珍しくなく、むしろアメリアのように素直な人間のほうがずっと稀だ。アメリアは父似とよく言われる。顔だけでなくデリカシーのなさや、呑気で豪胆なところが。

「あまり、困らせないで。心配してくれて嬉しいけれど、私、秋が楽しみなのよ」

「そりゃ姉さんは楽しみでしょう。僕がどんなに忠告しても、少しも聞きやしないんだから」

 背丈が伸び、声が少しずつ低くなってきた彼も、細い手脚はまだ少年だ。マリンボーダーのTシャツからすらりと伸びた腕を組み、カーティスは口を尖らせる。

「姉さんはただでさえ楽天的がすぎるのに、度胸ばっかりあるんだからなあ。女性一人で遠い異国に留学だなんて! 国内も危ないのに、勝手の分からないアジアに行ったら何が起こるか分からないよ」

「あらあら、日本に失礼じゃない? ずっと治安がいいって聞くわよ」

「そりゃスリや窃盗はほとんどないとは聞いてるよ。アメリカみたいに銃社会じゃないし。でも、性犯罪は多いそうじゃないか。外国人差別も激しいし、電車は猥褻犯でいっぱいで、なのにろくに検挙されないそうだよ」

 心配性の弟は、どうやらよからぬ情報ばかり選んで集めてきたらしい。しかし当然その程度のことはアメリアだって分かっている。なにせ日本文化の研究に日本へ行こうと言っているのだから、弟よりはかの国に詳しいつもりだ。だが一方、弟の評が、さほど間違っていないということも分かっている。日本についてでなく、姉について。

「治安はさておくとして、確かに私じゃ心配だって気持ちは分かるわ。でもいつもより気をつけるから」

 すると弟は、困ったような顔で目を逸らす。

「別に、……姉さんを批判したいんじゃない。姉さんの呑気なところは、危なっかしいのはそうだけど、でも美点でもあるんだから。ただ危ないって言ってるんだ。せめてアリを連れてけばいいのに……」

 アメリアは、やっぱり笑ってしまう。反抗期に差し掛かってもこの体たらくなのだから、ママンに暴言を吐いたり、ドアを激しく閉めたり、ご飯をひっくり返したりなどはおそらく一生できないだろう。

「アリにわざわざ日本語をやらせて、私のボディガードをさせるなんてあんまり忍びないでしょう。アリだってまだ見習いなのよ。もっと仕事を覚えたいはずよ」

「分かってるよ。とにかく、姉さん一人ってのが不安なんだ。僕がもうちょっと大きければついてくんだけど」

「やあねえ。弟に守ってもらうほど、姉さんは弱くないわ」

「気持ちは僕より強いだろうけどね。幸か不幸か、僕は姉さんよりずっと疑い深いから」

 回りくどい言い方だが、要は自分のほうがしっかりしていると言いたいのだろう。それは確かにそうだが、彼は自分もまだまだ人に守ってもらう年頃なことを忘れている。笑みが深くなる。

 父が書斎から出てくるらしい物音が聞こえた。アメリアは、向かいの弟に口早に言った。

「すぐに帰るわ。ほんの一、二年よ」

 ガラス越しに、父の姿が見える。弟は、呟くように言った。

「ほんとかなあ、——ほんとうに、してね」



     ◆



「アメリア・シザーフィールド。カーティス・シザーフィールド、……要するに〝三青俊〟の、実の姉だ」

 草壁はタバコを点けた。サワギリとクラミ、そして草壁は、コンテナから追い出されそのすぐ外に集まっている。しゃがんでいるのはサワギリだけで、あとの二人は立ったままだ。草壁はコンテナの壁に身を預け、煙を長く吐く。

「美人だし、変わった名前だから、印象は強かった。さっきも言ったがあの飛び降りは妙な事件だったしな。三青俊の顔は似ているし、本名も調べがついていた。苗字で思い出すべきだったな」

「つっても、十五年前だし」サワギリが草壁を見上げる。「引っかかってただけ上等じゃね?」

「フォローしてくれてありがてえけどな、俺が悔しいんだよ。しかしまあ、彼女で間違いない」

「お姉さんが死んじゃったから、その復讐ってことなのかな?」クラミが首を傾げる。

「たぶんそうだと思うけどさー、それでここまで念入りにやる?」

「でもシュンさんって普通じゃないよ」

「そりゃそうだけど」

「金王組の関係者が次々死んだのも、あの人の仕業ってことか?」

「だと思うぜ?」サワギリは一瞬迷い、だがやはり伏せることにした。犯罪事実は言わないに限る。「依頼でもしたんだろ」

「シュンさんが組織を作ったのは、復讐のためだったのかな? お金稼ぎが目的じゃないっぽいって言ってたろ」

 クラミはサワギリへ訊いたのだが、答えたのは草壁だった。

「確かにな。教義がキナ臭いこと以外は、奇妙なまでに問題なしだ。献金はそりゃさせてるが悪質な集金はしてない。脱退にも寛容で、監禁、洗脳も気配がない。釣りに使ってる慈善事業もそこそこちゃんとやっている……どちらかと言うと、とにかく大勢に関与したいという感じだな。それがまた不気味で」

「選挙ビジネスじゃねえかなって俺は思ってたんだけど」サワギリが言う。「別の目的ある?」

「選挙か、なるほどなあ。票になる人材がたくさんいればいいと……」

「直接的に票……っていうか。影響力が欲しかったのかな」クラミが呟く。

「影響力があればあるほど政治家に食い込めるよね。政界で幅を利かせれば、金王組に痛い目を見せることもできるかもしれない。あるいは、別の暴力団とつながったり」

「ヤクザに丸ごと復讐したいと思ったら、遠回しでもそれくらいやるか」

 気の長い話だ、とサワギリは思った。気の短い自分では、きっと早いうち嫌気が差して、復讐自体やめてしまうだろう。そもそも、復讐というものに対する〝モチベ〟が、うまく理解できない。結果としては一人か二人かそれ以上が余計に死ぬだけで、失くしたものは帰ってこないし、自分はリスクを負うし、苦労するし、何なら返り討ちに遭うかもしれない。そうまでしてやりたいものか?

「すごい根性だなあ。シュンさんて努力家だね」

 似たようなことを思ったのか、クラミが言った。努力家、か。

 確かに真面目な人でなきゃ、復讐なんてできないのかもな。



「なあに? 人をジロジロ見て」

 コンテナの中。シュンはパイプ椅子に腰掛け、依然として縛られたままの菅野に言った。猿轡も解かれてはおらず、たとえ返事をしていたとしても二人の会話は成立しない。

「あ、この服? 見たことなあい? ゴスロリって言うのよ。あ、でも、キリスト教モチーフは特にないから、ただの黒ロリ? あたしもそこまで詳しくないの。信者さんがくださってね。もうお亡くなりになったんだけど、死ぬ前にね。シュン様、もらってください、って」

 シュンは手首をしなやかに曲げて、自身の服の襟をつまんだ。肩まで覆う大きさの白い立ち襟で、端にはレースがあしらわれている。その円形のデザインは、黒のAラインと合わせると修道女風と言えなくもなく、であればゴスロリと称しても問題はなさそうだ。しっかり仕込まれた黒のパニエからは、白いタイツに包まれた細い脚が伸びている。やはり黒のバレエシューズには長いリボンがついていて、脛のあたりを編み上げのように飾っている。

「素敵でしょ。頭の飾りもね、信者さんの遺品なの。ハーフボンネットっていうらしいわ。信者さんが元気なころ、この合わせでよく着ていたんですって。かわいいでしょ? どう? 似合う?」

 おもむろに立ち上がり、シュンは傍らのパゴダ傘を掴んだ。重たげなそれをパッと開くと肩に当て、くるりとターンする。シュンがぴたりと止まった後で、スカートとパニエが遅れて収まる。

 彼の足元には刃物がある。包丁、カッター、錐、鋏、針。

「ウィッグは自前ですのよ。地毛のショートのままだってかわいいかと思ったんだけどね、やっぱり頭を派手にしたいような気がしたのよね。この髪型、姉様がよくしてた。姉様は金髪だったけど、色は黒のままがいいと思ったのよ。モノトーンってわけね」

 両のこめかみのあたりから、きつく巻き下ろされた髪の先端を、彼は弾ませる。ドリル状の髪は揺れながら、全く崩れる気配がない。

「姉様、日本のね、少女漫画が好きでしたの。それも昔の。こんな意味不明な髪型、普通の人はやらないでしょ。でも少女漫画の子たちはけっこうこういう髪型でいるのね。姉様、不器用ですのにやりたがるの。僕がよく手伝っていたわ。だから、巻くの上手いのよ。リボンだってきれいに結べる」

 傘を閉じ、そっと地に突く。小さな頭を傾けて、シュンは菅野を観察した。

 何を言われているか、わからない顔だ。ただ玉の汗だけがびっしりと肌に浮いている。そういえば、自分はどうしてこの暑いのにまったく汗を掻かないのだろう。こんな分厚い服を着ていて。

 心の臓まで冷え切っているから?

「この服をくれた信者さん、ご病気でしたの」

 シュンはそう言うと、静かに腰を下ろした。

「末期癌でね。若いから進行が速くて。彼女も漫画やアニメが好きで、ロリィタ服をたくさん持ってた。信者さんのご親戚がね、自宅療養で寝たきりの彼女をとても気の毒がって、僕と会うことを勧めてね。ご親戚は元々僕の信者さんでしたから、善意でのことよ。僕だって、別にお金巻き上げるんじゃないですから、まあ、彼女の暇つぶしになれば、って会いに行ったのね。しばらく通ったわ。一冬くらいかな。亡くなるまで」

 シュンの脳裏に、雪景色が浮かんだ。彼女の居室は広い和室で、家自体も大きかった。庭に面した襖は、防寒と景観のためにすべてガラスに換えられていて、障子のような飾りが立っていた。雪の降る和風庭園は、いつまで見ても飽きない眺め。

「私いつもは死後の世界の話とかは致しませんの。だっていかにも宗教くさいし、自分で言っててどうしても嫌になるのね。馬鹿馬鹿しい。不幸な目や悲惨な目に遭って散々打ちのめされた人が、死後には救われるはずだって、虚しい現実逃避でしかないでしょ。逆も然りだわ。犠牲者が大人しくしていて喜ぶのは加害者だけよ。誰のためのお話なんだか」

 吐き捨てるように言ったあと、気を取り直しにこりと笑う。

「まあ、だけど、死が目の前にあったら、やっぱりどんな作り話でも欲しくなるかもしれないわ。そう思って私、彼女に、口から出まかせ言いまくったの。死後のこととか、生まれ変わりとか。聞き齧りの宗教知識を総動員して慰めて。彼女、聡明な方でした。私の必死のお道化はぜんぶ見抜いていたと思う。でも、笑ってくれていた。この服をいただいたのは、最期にお会いしたとき」

 初雪の日だった。うんと冷え込んだその日、きれいに凍った雪のかけらが、しんしんと松に降っていた。こんな情景をうたった古歌がなかったろうかとシュンは思ったが、記憶違いだったか、思い出せなかった。

「彼女ね、話の拍子に、不意に、おっしゃったの。あなた、嘘つきね、って」

 菅野が眉をひそめた。シュンは、変わらず穏やかな顔でいる。

「でも、嫌な嘘じゃない。信じたくなる。もしかして、本当だったらいいのにと、本当なのかもしれないと思う。だからあなたと話すのが、私にはとても嬉しかった、……と」

 そう言って彼女は、部屋の奥にあるクローゼットを指差したのだった。

『そこに、私の大好きな、大事な服があるんです。私が死んだら着てください。あなたにはきっと似合うから。大事なときに、使ってほしい』

「だからね、今日着てきたの。今日こそ着なきゃと思ったの。空振りじゃなくて、よかったわ」

 東京にしばらく居を移すと決めた時点で、山奥の本拠地から、他のものと一緒に移していた。いつ着るべき時が来るかわからない。だから少々嵩張るとしても毎回荷物に入れておき、ホテルを移るたびに運んだ。

「十五年前、姉様は、大好きな少女漫画と、その影響で好きになった日本文学の研究をするため、ここへ留学していました。その前年の秋から移って、もう半年というころだった」

 シュンは、傘を倒して、コンテナの床に丁寧に置いた。そして、そのすぐ隣から、包丁を拾い上げた。

「〝あの部屋〟に入ってしまったきっかけは、同じ大学の、同じゼミだった男子生徒。彼、しょうもない人間とつるんで、怪しげな金稼ぎばかりしている不埒なひとだったそうだけど、姉様はそういう噂を鵜呑みにはしないのよ。自分が接するその姿だけで判断をした。だから、カモにされて連れてかれるとき少しも気づけなかったのね」

 包丁を掲げる。よく研いだ刃が、設置されたLEDに照らされて紋を露わにする。

「あなたたちはある宗教組織から依頼を受けて、生贄を集める事業を始めた。宗教組織としては、まあ、どういう理屈か知りませんけど、生贄になる人には自分たちの神様を信じてもらわなきゃならなくて、だから洗脳を必要としていた。その過程で性別を問わずレイプがあった。人の魂を殺す方法を、よくご存知だということね」

 矯めつ眇めつ、刃を閃かせる。菅野の喉が、ごくりと動く。

「宗教組織からちゃんと報酬をもらってはいたけれど、あなたたちはもっと利鞘を増やそうとした。それで、洗脳の過程にあるレイプを逆手に取った。つまりレイプしたい奴にレイプさせれば﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅そこからも金が取れると思った。それはビジネスになった。素人の普通の人たちを、好きにレイプできるサービス。ふふ、」シュンは唐突に、笑顔のまま、口を押さえる。「やだ、吐きそ」

 菅野の膝がかすかに震える。シュンは、その様をじっと見つめる。

「誤算があったのよね。身元の分かるような、消えてしまって問題になるような人を狙う気は、あなたたちにはなかったの。自分たちから借金をして二進も三進も行かなくなった人や、ホームレスや家出の少年少女、彼らを犠牲にしていれば安全だと思っていた。いなくなってもバレないから。虫唾が走るけど、あなたがたが雇ったバイトの一人は加えてとってもお馬鹿さんだった。ノルマに足りないからって、自分の身近の騙されやすい女性を一人連れて行った。現場の人間はまさかそうとは気付かずに通した。それで、あのザマ」

 シュンは刃の側面に指を置き、その滑らかな表面をなぞった。黒のポリッシュを塗った爪。

「地面に落ちた姉様の体に、暴行の痕はなかった。姉様はなにかをされる前に、隙を突いてベランダから飛んだ。他に陵辱と苦痛から逃れる術はなかった。姉様は、カトリックだったの。あれは自殺ではない。姉様は自分を殺したりしない。殺されないために、勇気を振り絞って、逃げたのよ。私には分かる——」

 シュンは、包丁を手にしたまま、ゆっくりと菅野へ歩み寄る。ゆっくりと彼の膝を割り、自身の片膝を空いた座面に載せて、身を乗り出す。顔を近づける。

「私が何をしたいのか、もう、お分かりね?」囁くように。「今さら訊きたいことなんて、私には、なんにもないの」

 冷えた金属の質感が菅野の顎を緩慢に、滑った。寝かせた刃で頬を撫でられて、彼の目がそこを凝視する。

「いつか小説で読んだの。人の肌って、神経がたくさん通っていてね。とっても敏感なの。だから、痛みを味わわせたかったら薄く肌ばかり切るんですって。細かく、たくさん。ハモの骨切りみたいに。それと、切れ込みを入れてね。掴めるようにしたらね、皮をね。ビーッて剥ぐの。ガムテープみたいに」

 刃がすっと退き、今度は立てられて、ぴたりと頬に当てられる。

「あとね、これはいろんなので観たけど、目ってやっぱり繊細なの。だってまつ毛が入ったり、ちょっと砂が入ったりするだけですっごく痛いでしょ? 何か刺さったりしたらもう、飛び上がるようよね」シュンは一瞬、背後を向いた。視線の先に針がある。「ね」

 体の震えは誤魔化しの効かない状態になっていた。がくがくと膝を鳴らす様を、シュンは微笑みとともに眺める。じっくりと。そして、身を引く。

 数歩退いた位置に立ち、しかしそこで、彼はため息をついた。

 震えたままの菅野が、それでも訝しげに見上げた。シュンは片手を頬に当て、包丁を気重に見遣る。また、軽く吐息がこぼれる。

「『言うは易し』だわねえ……」

 シュンの憂鬱の正体は、簡単な話だった。今からやろうとすることはあらゆるフィクションの真似事であるが、ただ文字で読むのさえあまりにも痛そうで、急ぐように読み飛ばしてしまった。ドラマや映画で観たものはほとんど直視できなくて、声だけ聞いたような体たらく——相手がどんなにクズであっても想像しないのは不可能だ。無痛症の人はともかくとして、感じる痛みは万人に等しい。

 要するに、思い浮かべるだに怖気立つことを、今から実際に行うというのが、もう、めちゃくちゃ嫌。

「だけどねえ。逃げるってわけにも。人に任せてばっかりじゃやっぱりちょっと恥ずかしいですし、一人くらいはやらないと、……申し訳が立たない気がする」

 渋り、唸りながら、しかしシュンはうんと頷いて、至って前向きな表情で向かいの菅野に目を据えた。頬に当てていた手で軽く拳を握り、気合を入れる。

「わたくし、頑張りますわ! だから、あなたもなるたけ長く苦しんでね。お互い、精一杯やりましょう」

 菅野の両目が見開かれる。くぐもった声が何を訴えたか、聞き取れる者は、誰もなかった。



「ああ〜、嫌! もう、……やだー! うわ、……ああー、ああ、痛そう、痛、……ひえ、ひゃあ、……あああ〜っ、うう、まだ? ええ、まだよねえ、……ひええ、やっ、……あうう〜見てらんない、……やだっ、も、……ひゃああ〜!」

 コンテナの中から響くシュンの悲鳴を聞きながら、外の三人は少しずつ明るんできた空を見つめる。とうとう朝の気配がしてきた。草壁は微妙な表情のまま、一つ大きなあくびをする。サワギリは頬を揉みしだき、クラミは目をしょぼしょぼと瞬く。

 どのくらい経っただろう。しばらくの静けさの後、唐突にシュンの情けない声がしたときは何事かと思ったが、それがどうやら自らしている拷問のせいだと分かると、気が抜けるやら呆れるやら、三人揃って微妙な顔になった。それからかれこれ長いこと出てくるのを待っているのだが、菅野の生命力が強いのか、シュンがおっかなびっくりなせいか、なかなか事が終わらない。

 が、そこで悲鳴が止んだ。ボリュームの落ちた声が、ぼそぼそと響いているのが分かる。詳しい内容は知れないが何かを確認しているらしい。やがて足音が高らかに鳴り、がたん、とコンテナが開いた。

「お待たせ!」シュンが顔を出す。ウィッグと髪飾りを外している。「やっと終わりました」

「長すぎなんだけど」

「ごめんなさいね? 私も途中でうんざりしたんだけど、でもねえ。だからってやめるのも」

「すっきりできた?」クラミが訊く。

「どうかしらねえ……死ぬとき、なんていうか唐突で。え、今死んだの? みたいな感じで。拍子抜けでしたけど、でも、そうね。終わってみれば、ちょっとやりきった感じだわ」

「それはよかった。これからどうするの?」

「どうしましょ、もう朝ご飯よね。私はホテルに戻るけど、皆さんは?」

「俺らも風呂入って飯だな。マジ無理、この暑さ」

「ねえ。ほんと、待たせてごめんなさい。あ、銭湯とかに行きます? スパとかどう? 奢るわよ。ちょっとお洋服貸してくれれば」

「お洋服もいいけど……」クラミは返り血でびっしょり濡れているらしいゴシックロリィタに目を遣り、それからコンテナを向いた。「中の死体は? いいの?」

「あら。忘れてた……あのう、依頼してよろしい?」

「いーよ」うんざりした顔でサワギリが返す。「どうせそうなると思ってたわ」

「何から何まで、ごめんなさいねえ。あの人にあなた方、訊きたいことがあったのよね?」

 クラミとサワギリは、無言で顔を見合わせる。まさかあんたのことを探っていたのだとは言えない。シュンは、読んでいるのかそうでもないのか、やはりすまなげな顔のまま続ける。

「どうしてもあいつだけは、自力で殺したかったの。お邪魔だてして悪かったわ」

「まあ……俺ら、アイツにこだわりねえし」

「依頼ももらって、スパも奢ってくれるんだったら、俺たちはいいよ」

「ありがとう! やっぱり優しい」

 はしゃいだ様子で手を合わせた彼は、次いで、言った。

「あたしに関することでしたら、あたしから話すわよ。訊きたいことがあるんなら」

 再び、顔を見合わせる。数秒の沈黙のあと、サワギリが尋ねた。

「なに企んでる?」

 シュンの目が、細まる。合わせた手が少しだけ下りる。

「……そうよねえ……」

 空の境目は、もう赤い。太陽がそこまで迫っている。藍色とオレンジの薄明かりを頬に浴びながら、夜明けの闇のなかで、シュンは言う。

「隠し事は、したわ。でも、あんまり奇想天外な話で、あなたがたが困惑すると思って、言わないでいただけなの。だから、私はなにも企んでなんていないのよ、——私はね﹅﹅﹅

 三人は、息を凝らす。クラミもサワギリも、草壁も。

「でも、あの人はどうかしら。……私ねえ、実は気が付いてるの。どうやら彼は単に私に付き合ってるだけじゃないみたい」

「あの人って——」

 クラミの呟きに、シュンは視線をそちらへ向けた。

「だからね、作戦会議しましょう。お話ししながら探りましょう。互いに何を知らないのか、——ユウが、——何を、企んでいるか」



    †



 すでにワイシャツとスラックスを身につけた彼が、ホテルのテーブルで聖書を読んでいる。開いているのは終わりのほうで、同じ箇所を何遍も、ページをめくっては戻し、確かめる。彼の前にはグラスが四つ。それぞれ色のついたショットグラスだ。緑、赤、青、黄色の順に、一列に並べてある。

 彼は、聖書をぱたりと閉じた。やがて、大きな手を伸ばす。

 緑と青のグラスを、ディーラーの仕草で入れ替える。次に緑と黄のグラスを、手品師さながらにすり替える。

 順番の変わったグラスを彼は眺めた。グッと姿勢を沈ませて、下から、覗き込むように。グラス越しの彼の姿が歪んでいる。

「誤魔化せなくもない……」

 彼の指が、黄色のグラスに触れる。前後に小さく傾けて、彼は言う。

「さて。どうしよう?」

 それは、いつも通りの口振り。もったいぶった、芝居くさい、——誰かに、聞かせているような。

 彼の指が、黄色のグラスを倒す。グラスはコトリと音を立て、白いテーブルを、左右に揺れた。

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