第十一話



    ◆



「もうっ!」

 シュンが短く声を上げて、手にしていたスマートフォンを向こう側のベッドへと投げた。さほど激しくもない投球は、緩い放物線を描いてブランケットへぽすんと落ちる。少し前から延々と誰かへかけ続けていた彼は、一瞬前やっとのことで電話がつながった様子だったが、どうやらあっけなく切られたらしい。

「ひどいわ、ショーゴくん」

「彼に掛けてたの?」ユウは膝の上に開いたパソコンを見つめたまま言った。

「そーよ。や、正確にはクラミくんにだけど。まあ同じよね」

 ユウは少し前のめりになり、シュン越しにサイドテーブルを見た。時計は夜中の二時を指している。

「こんな時間に鬼電はねえ」

「だってえ、イヤな予感するの。アイツの行方、分からないんでしょう?」

「まあね」

「あーん、どうしよう……」シュンはもぞもぞと動き、隣のユウの肩へ頭を乗せる。「本当に不安になってきたわ。このうえ菅野かんのまで逃したんじゃ、死んでも死に切れない」

「そうねえ」

 ユウは上の空でキーボードを叩く。国会議員の菅野は、シュンの仇のうちの一人だ。

 シュンの仇は、大きく言えば、十五年前のある〝ビジネス〟に関わった者すべてだった。目ぼしい者から順に少しずつ殺し始めたのが二年前。ところが本丸を前にして、急に不可解な火事が起こった。この火事が最終目標と、大方の仇を燃してしまった。何せ〝ビジネス〟を実質的に運営していたのは金王組で、奴らはアジトごと燃えたのだから。その金王組が繋がりを持ち、金を上納していた相手が皀だ。皀は金王組の存続に便宜を図り、甘い蜜を長年吸い続けた。〝ビジネス〟だって持ち込んだのは皀だと噂されている。とはいえ、まだ、他の獲物もいる。昨日の会合のあとシュンはさっそく後始末に取り掛かった。ところが——

 ようやくデータがヒットした。何回かクリックを重ね、それから画面をシュンへ向ける。

「ほら、見つけたよ。菅野のボルボ」

「あら!」

 シュンは嬉しそうに前傾した。ユウの肩に両の手を乗せて。

 画面には二時間ほど前、高速道路の防犯カメラに捉えられた車が映っている。黒のボルボが直進中だ。僅かにブレた画像からも、一応ナンバーは読み取れる。車内はスモーク貼りで、まるで確認できない。

「0時ごろ……」シュンがつぶやいた。「これより先はないの?」

「ないんだよなあ。どっかしら写ってそうなもんだが」

「ええー、ますます不安よお。誰かに襲われたんじゃない? というか、あの二人に」

「可能性はあるね」

 答えて、ウインドウを閉じる。厄介なことになったかもしれない。

 菅野についてはなにも今日、殺してやろうと思っていたのではない。実行の手段なりタイミングなりを練るために行動の監視を始めたところ、いきなり行方がわからなくなった。監視といってもまだ生活のサイクルをつかむ段階で、車通りの少ない深夜に後を追わせたりはしていない。直前の公務を終えて私用車に乗り換えた彼が会合のためにレストランへ赴き、そこを出て自宅へと車を走らせたところで信者は監視を終えた。あとは自宅に先回りし、帰宅の時刻を報告するだけ——ところが、いつまでも帰ってこない。

「うーん……」シュンはユウの肩に頭を置き直している。「どうしましょう」

「どうするもこうするも。電話は切られちゃっただろ? もうどうしようもないんじゃない」

「そう簡単に諦めらんないわよお。でも、考えすぎってこともあるし。何せこの時間だし。悩むわ」

 ついさっきシャワーを終えてベッドに潜り込んできたというのに、もうすでにシュンの体はひんやりと静まっている。いつまでも熱が去らない己の肌と大違いだ。クーラーのよく効いた部屋で、シュンはユウの肌の熱さを楽しんでいるように思える。まあ、それはお互い様だ。

 ユウは視線を窓辺へ向けた。ごく薄いカーテンの向こうに都市の夜景がありありと見える。この時間でも外のビル群は煌々と灯りをつけたまま、この国の効率の悪さをそのまま露呈しているようだ。ホテルの上階、うっすら灯りをつけたままの部屋ここも、その一部なのだが。

「まだ生きてるかしら——」

 つぶやいた彼は、するりとベッドを出て、隣のベッドに投げた端末を拾い上げた。抜け出たときにはだけた青のガウンを合わせ、そのまま腰掛ける。

「きゃっ」画面を見つめ、はしゃいだ声を上げる。「生きてる生きてる」

「うん? 何が」

「GPS。あらあ、よかった。見つかってないのね」

 一瞬、眉をひそめ、すぐに理解した。「このまえ仕込んだのか?」

「そうよお、仕込めそうだったから。もしかして必要になる時があるかもしれないでしょ?」

 黒のポリッシュを塗った爪で、シュンはスマートフォンをつついた。

「最近のGPSて、ほんと小さいのね。シートの隙間に押し込んじゃえばひっぺがしたってわかんない」

 ユウはほんの少し《家事代行》の二人が気の毒になった。彼らにシュンを護衛するよう頼んだのは自分だ。まさかバゲットサンドを買いに行くお使いの付き添いのために、車にGPSを仕込まれる羽目になるとは思うまい。

「しかし、昨日の今日でほんとに菅野に当たりに行くかなあ」

「あると思うわよ」シュンは画面を睨みつつ、ブツブツと何か呟いている。K県、X区。「だって正直、アレ、気づいてたでしょ? 僕らがなんか隠してるって」

 シュンの目に入るか知らないが、ユウは無言で頷いてみせた。料亭の席での話し合いは、表面上はスムーズだったが、何もかも正直に腹を割ったとは言い難い。こちらの考えは想像を絶する不可解さ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅だから、向こうが正確に読める気はしないが、少なくとも伏せているカードがあることはバレているはずだ。

「彼らだってプロよ。不信があれば、背景くらい探ろうとする。僕の目的が復讐だったことも、復讐の相手も明かしているんだから、金王組に近い位置にいた彼らならすぐピンと来るわ」

 それも頷ける。むしろこちらより、〝ビジネス〟に関わる人間については詳しかったのかもしれない。

 菅野某は皀の一派で、よく言えば目をかけられ、悪く言えばいいように使われていた男だった。〝ビジネス〟の発端が皀であったとしても、彼が直接「反社会組織」とおいそれと関わるわけにいかない。ある種の窓口、そして仮の司令官を担っていたのが菅野だった。彼もその見返りに足掛かりとなるキャリアを得、事件の発覚時には無傷で逃げおおせている。捕まったのは末端も末端の人間だけだ。

 ちなみに、金王組のほうもまさか親分がしゃしゃり出てはこない。実際の仕切りをしていたのが、『近日息子』の「親父」だった。要するに、クラミが山奥の、納屋で首をへし折った男。その経緯を聞いたとき、シュンは帰ってきてからずいぶん興奮していた。それには理由ワケがあるのだが、——恐らく容易に理解できまい。

「今さら僕の過去なんかバレたって困らないけどね」シュンは言う。「獲物の横取りだけは困るの。それだけは、ぜったいに困る」

 ユウは口元に手をやった。そうしてひとつ、顎をさする。

 クラミとサワギリ。彼らの殺人へのハードルは著しく低いだろう。何せ人が殺した死体の隠滅を仕事にしているくらいだ、処理の方法は熟知している。通報、脅迫、その他諸々のリスクと手間を考えたら、用が済んだら殺す以外の選択肢はない、……いや、どうだ? 相手は国会議員、姿を消せば騒ぎになる。彼の後ろ盾は先の火事でほとんど焼失﹅﹅しているし、大事おおごとにしたくないのは双方が同じだ。聞きたいことだけ聞いて黙らせ、帰したほうが安全かもしれない。少なくともサワギリはそう考えるだろう。だが——

「いちおう、二人が今いるところはわかったんだけど」

 シュンがスマートフォンの画面をこちらに向けた。ここからさほど遠くない県の、海沿いにポインターがある。

「行きたい?」ユウはラップトップを閉じた。

「うーん……あたしはね。でもユウはイヤでしょ? もうシャワーだって浴びちゃったし」

「そのくらい、構わないよ。一人で行かれるほうが怖い」

「あらあ、あたし大丈夫よ。二人からもそんな嫌われてないし」

「それは否定しないけど……」ラップトップをのけ、上掛けをめくる。「あのクラミってのは予想がつかない。何しでかすか分かんないから」

 シュンの護衛依頼の前後、ユウは少しだけ、《家事代行》の二人について調べた。例の火事の直後は本腰を入れて。その過程で得た情報を踏まえユウは新たな計画﹅﹅﹅﹅﹅を立てたが、そのとき、クラミコウイチにまつわるさまざまな噂話を知った。結果、いつかアズキヤから聞いた『制御不能』の意味合いが、より詳細に理解できた。彼は操作不可能アンコントローラブルだ。それを踏まえて動かなきゃならない。

 ベッドから出かけたユウヘ、シュンは、不思議そうに声をかける。

「同意だけれど、二人で行っても、それっておんなじことじゃない?」

 思わず止まり、彼を見る。シュンはけろりとした顔で続ける。

「あなたがいてもいなくても、ダメなときはダメじゃない? あなたがいれば回避できるというようなものじゃないでしょう」

 シュンの瞳が弧を描く。白い手が、彼の口元を隠す。

 ユウはそのとき少しだけ、背筋がひやりとするのを感じた。見透かされた気がしたのだ。

「私たちの想像する通り。彼が、——〝第二の獣〟なら」

 俺の本当の思惑は、まだ、彼にさえ告げてない。




「質問いいか?」

 語り終えたあと、草壁はおずおず手を上げた。黙ったままのサワギリが目顔で了承すると、草壁はクラミとサワギリの二人を見遣る。

「章吾、お前、コウイチくんの家のことは知ってたのか?」

「いや」

「コウイチくんは?」

「えっと……」クラミは首筋をさする。「それは、俺がコイツの事情を知ってるかってことですか? それなら、」

「や、それはさっき聞いたよ。章吾が知ってることならたぶん知ってる、って言ってたろ」

「あ、はい。じゃ、俺の家……」クラミはついさっき聞いた、草壁の語りを思い出す。「初耳です」

「……二人とも? それにしちゃなんか……」

「いや……」答えたのはサワギリだった。「理解、追いついてないだけだから。考えるの後にしようと思って……情報多すぎでしょ」

「俺も、何が何やら。結局、俺と沢霧って実は親戚でしたよってこと?」

「クソ物騒な由来だったじゃん」

「章吾は知らなかったのか? 『蔵未』って名前」草壁が問う。

「知らねーって。でも……マリって名前の女は、見たことある、ような気もする。うちに来てたことあったかも」

「右腕みたいな家だったなら、そうだよね」とクラミ。

「わっかんねーけど、あの家だけは、苗字で呼ばなかったんじゃねえの? だって由来が死刑だろ。避けようとかってしそうじゃん」

 ありそうな話だ、と草壁は思った。そういえば麻理も「旧姓」などと言い、直接口に出すことは避けていた気がする。

「マリさん、かあ……」クラミがため息をついた。「俺の母さん、なんかやばそうだなあ」

「それな。マジ離れて育ってよかったな。逆に」

「まあ父さんも父さんだったけどね」

「だった、ってこたぁ」草壁が口を挟む。「お父さん、亡くなったのか?」

「ああ、はい。亡くなったというか——」

 そのとき、サワギリが大きく顔をしかめたのを、草壁は見た。クラミは言葉を探すように、両の目をぐるりとさせる。

「七年くらい前のことなんですけど。そのとき俺、父さんの手伝いしてて」

「うん?」

 草壁は首を傾げる。クラミは、彼を見て、困ったように言った。

「殺しちゃったんですよね」



 七年前の冬。五月生まれのクラミは、二十歳になる年だった。そこは夜の森で、崖下は海だ。車で拉致した標的を先ほど海に突き落とし、無事に始末を終えたあとで、父・孝介こうすけはクラミを振り返って言った。

「かたァついたな。酒でも呑むか?」

「いいね」クラミは応える。「父さんは、いつもの?」

「そーだな」孝介は肩を回す。「ったく、バキバキ言いやがる……」

 クラミはそれを聞いて、思った。確かにこのごろの父さんは、動きにハリがない気がする。

 今回の仕事のときも、標的を一発で落とせていなかった。支障が出ると言うほどじゃないが、自分が手伝いを始めたころ、十五の時の父さんはもっと動けた。たまに現場に連れてかれていた小学生の頃なんか、鮮やかなほどだった。人体はどこをどうやれば壊れ、どのように動けばどう壊せるのか、父さんを見てるとよく分かった。

 ほとんど不在の父がときたま上機嫌に現れて、ついてくるかと尋ねてくる。幼少のクラミにとって、その瞬間がいちばん嬉しい。車に乗せてもらい、知らない土地へ行って、車内から窓越しに父の活躍を眺めている。僕の父さん。強くて、綺麗な。

 今は、そうでもないかも。

「父さん」クラミは訊いてみた。「いま、俺と父さんと、どっちが強いのかな」

「ああ?」父は崖下を覗き込んだまま答えた。「どうだかな。お前かもな。試してみるか?」

 父は見ていなかったが、クラミは問いかけに頷いた。そして地を蹴った。

 物音に気づいて振り返った父に、空を切る音は聞こえたろうか。恐るべき速さで振り抜かれた左の足の残像は、果たして視界に過ぎったのか? 何にせよ、遠心力をそのまま載せた打点の高い回し蹴りは、父の首筋を撃ち抜いてその延髄を破壊した。木立に、破砕音が響く。一瞬のあと、崩れ落ちる音は、ほとんど土が呑み込んだ。

 無音が訪れる。遠い、潮の満ち引き。

「……あ、」

 しばらく父を見下ろしていたクラミは、やっと声を上げた。

「……やっちゃった……」

 消え入るようにつぶやき、長いため息とともにしゃがむ。両の頬を挟み込み、落ち着くためなのか独り言を言う。

「俺って、なんでこう、……ああー、もう……どうしよ……えっと……ああー、どうしよー……」

 あれこれ考える。今後の生活は? 父への仕事は何もかもヒノさんから来てたわけだから、事情を話せば引き継げるだろうか。アパートの契約はもちろん父の名ではなく、ヒノさんが用意した名義になっていたはずだし、ということは父がいなくなってもそれほど問題ないのかもしれない。うん、たぶん。平気。大丈夫そう。

 顔を上げる。首があらぬ方に捻じ曲がった父は、うつ伏せなのにほとんど顔が見えていた。

「ごめんね……」

 今さら言ってもしょうがないのだが、クラミは呟く。

「殺したかったわけじゃないんだよ。俺、父さんのこと好きだったし……」

 さっき落とした標的と同じに、海へ投げればいいだろう。この辺りの海流は特殊で、少なくとも巻き込まれれば日本の岸には辿り着かない。

「でも、」

 海のそばだからか、真冬にもかかわらず空気はどこか湿っていた。白い息がふわりと消える。

「できると、思っちゃって」

 クラミはしばらく、うずくまっていた。やがてよっこらしょと腰を上げ、ずるずる、父を引きずっていった。



 草壁が愕然としている。

 そりゃそうだ、とサワギリは思った。初めてこの話を聞いたとき——それはクラミとタッグを組む前、ヒノから聞かされたのだったが——サワギリは引いた。ヤバすぎる。悪意も殺意もないのでは、こっちは対処のしようがない。そんなヤツと一緒にいたら命がいくらあっても足りない。だがクラミは「一人じゃ寂しいから」と仕事の相方を欲していて、サワギリはどうやらクラミによるご指名だったようなのだ。無理強いはしない、と言われたし、断ろうかとも思ったが、一方で今のままの暮らしでいいのかという不安もあった。

 サワギリは自決騒ぎのあと、父の伝手でヒノに預けられ、あくまでヒノの子飼いという形でチンピラ稼業をしていた。が、最近は金王組との距離が近くなりすぎていた。今さら表社会へは戻る気も、戻れる気もしないが、組に入るのは絶対に嫌だ。一旦入れば足抜けできない。どうにか今の立ち位置のまま、のらりくらりとしていたい——それを思えばクラミの提案はもってこいではある。

 ヒノの前でウンウン唸ること十五分。結局、サワギリは提案を呑んだ。クラミが指名してきた理由をサワギリは聞いたことがないが、ヤツのことだ、どうせ顔だろう。一度、助手席に座ったクラミが、「やっぱり隣に見る顔はきれいなほうがいいなあ」と宣ったことがある。もはや、キレる気も起きなかった。

「そ、そう」草壁がようやっと応える。「そうかい……」

「次、俺な」サワギリは言った。クラミのことなど深く考えても仕方ない。余計に恐怖が増していくだけだ。「十五年前の飛び降りのこと。あんた、何知ってんの?」

「ああ、それか。……なんだっけ?」

「あのさあ〜」苛立ちが声に出る。「しっかりしてよ? なんか思い出してたじゃん」

「ええとな、ちょっと待て。俺も混乱して——」

「十五年前! 女がビルから飛んだんだよ。それが金王組がやってた〝ビジネス〟が潰れたきっかけで、その女は確か留学生——」

「ああ!」奇しくも同じタイミングで草壁は思い出したらしい。

「そう! その子な、覚えてる。金髪で青い目の、きれいな女の子。報道を見たんだ。どうもキナ臭いと注目してたが、その後ロクな続報がなかった。なんで飛んだかも、なんであんなところにいたのかも分からないままだ。その雑居ビル、風俗街の一角だろ? まともな大学の留学生が行くような場所じゃない」

 サワギリの脳裏にある言葉が引っかかる。金髪で、青い目?

 もしかして、——もしかしてだけど。俺その人、視た﹅﹅ことあるんじゃね?

「死に際も不可解だったんだ。変な言葉を遺して」

「言葉?」

「別の事件の取材んとき、チラッと聞いただけだがな」草壁は記憶を掘り起こすように、またぐりぐりとこめかみをえぐる。「自殺の現場に居合わせて捕まった男がな、言うには。彼女、窓を開けて、ベランダに出て。手すりに足かけて飛んだんだとよ」

「事故じゃねえってわけね」サワギリが相槌を打つ。

「ああ。で、飛ぶ寸前、追いかけてきた男を振り返ってこう言ったそうなんだ」一つ息を置き、続ける。「——『私は、空を飛べるのよ』」

 二人は同時に首を傾げた。草壁は、うなじをかきむしる。

「ま、そうだよな。意味わからん。飛べなかったから死んだんだしな。しかし、彼女からは薬物も、アルコール類も検出されてない。妄想とかの症状が出ている兆候もなかったそうだ。ただの強がりだったのか、別の意味があったのか……誰も分からん」

「その女の子……」

 サワギリは、訊いているのかいないのか、曖昧な大きさで、訊いた。

「名前、なんてーの?」

 草壁が目を上げる。そして唇を一旦むすんだ。腹を括ったような顔で、サワギリを見つめる。

「彼女の名前はな、」


 そのとき、打撃音がした。


 バン!

 と大きく音が響き、その場に居合わせた全員が肩を跳ねさせた。何の音? 周囲を見回すうちに、もう一度それは打ちつけられる。サワギリは音のしたほうを振り返った。ドアだ。

 バン!

 コンテナはその作りゆえよく音を響かせているが、恐らくこの脅迫的な響きほど大した衝撃じゃない。手のひらでたたいているだけだ、とサワギリは判じた。ただ、めいっぱい。全力で。

 バン! バン!

 音の間隔が狭くなる。クラミとサワギリは、顔を見合わせる。

「これってさー……」

 紛れるようなつぶやきも、戸外の人は逃さなかった。

「いるわね?」

 凛と、声が通る。澄み切っていながらどこか霞のように柔い、独特の声音。

「ねえー、電話切るなんてひどいわ? 開けてちょうだいな? もしもーし!」

 バン! バン! バン!

「もうシャイニングじゃん」

「そのうちここ、斧で割られるってこと?」

 サワギリは応えずに、草壁のほうへ歩いていく。無言のうちにまだ縛っていた下半身も解いてやる。おっかなびっくり体をほぐそうとする彼に、立ち上がって告げた。

「今からさ」

「おう……」

「張本人、来るから」

 くるりと、ドアのほうを向く。コンテナの壁が、衝撃に震える。

「おててが痛くなってきたわ。そろそろ、中へ入れてちょうだい?」

 バン! バン!

「あー、けー、てー」

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