第十話



    ◇



 もう、ひぐらしが鳴いている。

 立派な木造りの門前に立って傍らの呼び鈴を押すと、少しして中から、はあい、と声が返った。三和土に降りた彼女の姿がすりガラスにぼんやりと映る。じきに、引き戸が開く。

「こんにちは」

「どうも」

 距離のあるまま頭を下げる。門から家までは草木に囲まれ、緩やかな石段が伸びている。晩夏の陽射しが黄金こがねがかった光を庭に投げかける。尤も、この先もひと月は、残暑とは名ばかりの猛暑が居座り続けるだろう。

 女性はチャコールグレーのカーディガンを着て、細身のデニムという姿だった。身体のラインをあえて強調しているようだ。穏やかな微笑みを浮かべ、ゆっくり石段を降りてくる。かんぬきを外し、門を内側へ開けて、彼女は言った。

「草壁さん?」

「そうです。お時間いただきまして」

 再び辞儀をする。彼女は『ヨモチ』家の分家で、今は嫁ぎ先の苗字になっている。

「どうぞ。上がってください」

 彼女に従い、石段を上った。前を行く彼女の、緩く波打った黒髪が、黄金色にきらめく。

「奥さん」後ろから声をかけた。「あの、なんとお呼びすれば?」

 彼女は立ち止まった。ややあって、振り向く。

「では、——」


 なぜ今の姓も旧姓も名乗らなかったのか、気になって尋ねると、彼女は笑った。

「だって、ねえ。どちらも、『私の名前』という気はしません」急須からお茶を注ぎ、湯呑みを差し出す。「私のものなら変わったりしない」

「それも、そうですね」

 ありがたくいただく。茶は芳醇な香りだった。彼女は薄い笑みのまま、俺を眺めている。

「本家様のこと。私も、詳しくはないですよ」

「俺なんかよか詳しいでしょう。なんでも分家筋の中じゃ、かなり近しいお家だったとか」

「ええ、」

 彼女も湯呑みに手を触れて、熱かったのか、すぐに離した。

「片腕と言われることもある家でした。付かず離れずというのか。でも、昔の話ですよ。現代では意味もありません。それに、」

 また、おっかなびっくり、湯呑みに触れて、なんとか掴む。ふーふーと長く息を吹き、ようやく、ほんの一口のむ。

「女は家を残すのが仕事。家の来歴とお役目はいやというほど叩き込まれるのに、力と権威を受け継ぐのは、男児なんですって。つまりませんでしょ」

 曖昧に頷く。ありがちな男尊女卑だが、男の立場でどういう反応をしたものか、解が分からない。

「本家様も同じですよ」と、彼女は言った。

「え。本家さんは、女系一族なんじゃ?」

「それは隠れ蓑を得るためです。一家の当主はやはり男。家の力を継ぐのも男児ですよ。十三年前の神子みこ様だって、男の子でしょう? 女が家を継ぐなら、あのとき犠牲になったのも女子でなくてはおかしい」

 犠牲。「当時の少年は、生きているのでは?」

「え?」

 彼女は不思議そうに顔を上げ、間をあけて、ああ、と言った。

「犠牲って、死んだとかじゃなく。あの儀式に、巻き込まれたこと」

 合点しながら、次の問いが浮かんだ。「儀式って?」

「ふふ、」

 すると彼女は声だけ笑って口元を押さえた。

「そっか。こんなことも外の方は、ご存じないのね。当たり前か」

 俺の緊張を知ってかしらずか、彼女は手をすっと除けた。……彼女と対面してからこっち、妙な違和感が胸の隅に、じわじわ住処すみかを広げている。

「神子様、双子でいらしたの。先に出てきたお兄さんはすぐに死んでしまったわ。可哀想に、死産で」

「そうなんですか」

「記者さんはご存じ? 『露払い』と言ってね。昔は双子って、先に出てきたほうが弟で、後から出てきたほうが兄だというふうにしていたの」

 彼女の指がひらりと動き、傍らの古書へ伸びた。この古書の山は畳敷の個室に初めから積まれてあった。一番上の縹色はなだいろをした表紙を開き、崩れた筆書きを指差す。

「先に出てくるほうは、あとの子のために、難を祓っておくんです。それを『露払い』と言う。日本ここは年功序列でしょ。兄のほうが偉いから、この話で行くと、大事な『後の子』が兄」

「ええ。聞いたことがあります」

「本家様は、いずれこの世に、本尊様が降臨なさると信じてました。本尊様というのは、本家様が信仰していた神様ですね。白い大蛇だいじゃ碧玉へきぎょくの眼の——その本尊様たる神子は、途轍もなく美しい顔で、必ず双子として生まれる。そして先の子に露払いさせて、後の子としてお生まれになると。でも本尊様のお力が双子に分かれてはならない。神子様がお生まれのときは、必ず、ただ一人に集めよ——」

 整えられた爪が、紙の上をなぞる。紫がかったベージュのマニキュア。

「そのようなことが、書いてあるそうです。ここに」

 俺は身を乗り出して、彼女が開いているぺーじを覗く。彼女も本の向きをくるりと変えた。とはいえ、やはり書かれた字を見てもなにひとつ判読はできない。これまでの取材同様、彼女の謂を信じるほかない。

 俺は話を聞いてすぐに浮かんだ疑問を投げた。

「ならない、と言っても。産まれてくるのはどうしようもないでしょ。二十五年前はたまたま死産だったみたいですけど、そうでなかったらどうするんです? その子は神子じゃない、とか?」

「あら、」彼女は平然と言った。「だから、殺すんです。生まれてすぐ」

 一瞬、言葉に詰まった。詰まったそれを吐くように、なるほど、と返す。

「お気の毒よね。神子様のときも、死産というのは本当かどうか。特別にきれいな子は、生まれたときから分かるものよ。赤ん坊の神子様を見て、誰かが片方、ったのかも」

 蜩が鳴いている。ひと月ほども前、蝉が鳴く中で僧侶と話したことを思い出す。あの時は青々繁った竹林越しの昼の日が、草いきれのするようだった。今は黄昏、赤い陽が、かなかなと囁く声と共にこの和室に差し込んでいる。

 彼女が隣の頁を指した。

「あの人たち。『血』には力が宿っていると信じていました」

 彼女の影が視界で揺れる。板張りの廊下へ伸びた薄暗い影は、畳の上で、崩れ、斜めに傾いでいる。

「あれはね、神子様に、力を集める儀式だったの。知ってます? 儀式。どうやったか」

 俺はゆっくりと顔を上げた。想像していた通りの景色に、臓腑が冷える。同じ表情かおをしている。

「神子様を、取り囲んでね」

 穏やかな、嫋やかな。ほんの少しだけ愉快げな、笑み。

「全員、目の前で切ったの。喉」

 咄嗟に瞼を閉じた。

 立ちすくむ少年。周囲には、大人がぞろぞろと渦を巻く。戸惑い顔の彼の前で、大人たちが晴れやかに笑う。おもむろに、小刀を取り出す。そして喉笛を——浮かびかけた情景を必死で払う。だが脳裏には、数字が焼き付いて離れない。七十二人﹅﹅﹅﹅。七十二人が自ら、喉を切った。十二歳の、少年の前で。

「もともと本家様は、本尊様が御隠れになるとき、復活までの長い眠りにつく本尊様のお力を、血で預かって受け継ぐために作られました。だから理論上、本家の人は本尊様の力を少しずつ継いでいる。でもこれは、預かり物だから。いずれは返さないとならない」

 この人は、何を思ってこんな話をしてるんだ。どこか芝居がかった態度。弾むようでさえある口調。不自然なほど、変わらない表情かお

「ほんとうは、別の手段を用いるつもりだったんですって。生贄をたくさん捧げて。でもその計画は頓挫したみたい。タイムリミットが近くてね。十三歳になる前に継承を行わないと、本尊様の器になれない。それで、苦肉の策ですね。誰だって死にたくないですもの。でも、悲願だったから」

 湯呑みに再び手を伸ばして、彼女は付け足した。

「よかったわ、私。本家じゃなくて」

 違和感が形に、なりかけていた。彼女は湯呑みに指を触れ、ほっとしたように息をつく。

「あのとき犠牲になったのは、本家の人たちだけですか?」

「犠牲?」湯呑みを持ち上げながら訊き、すぐに合点した。「ああ、死んだって意味ね」一口飲んでから答える。

「違いますよ。分家筋でも、力を分け与えられたってことになってた家は使われた。逃げたらよかったのに。不思議」

 門の前でのやりとりを、思い出して訊ねる。「麻里まりさんのお宅は?」

「うちは——」

 彼女は頬を緩めた。「実は、はっきりしないんです。うちの力ってなんなんだか。……旧姓の話ですけどね、」

 もう一度茶で唇を湿らせ、それから彼女はまた古書を手に取る。今度は萌黄もえぎ色だ。ぱらぱらとめくり、迷いなく頁を開いてみせる。

「読めます? ここ、うちの興りの話。たった一ページだけど」

「全く」

「何代も前の本家様が、うちの家の初代をお取り立てになったそうです。その男は、不思議なほどきれいに人の頭を落とせた。あっという間に。それにしくじりもない。大した腕だといって、ご当主様は傍に置いて、身内の処刑を彼にやらせた」

 つやつやとコーティングされた楕円の爪が、行をなぞる。

「処刑に相当する者は、まず当主様の前に引き立てられて、あれこれ裁きを受けるんです。それで、罪状を述べ終わると、当主様は初代を一瞥して、『蔵に』、と言う」

「蔵?」

「ええ。そこで何日か監禁して、最期のひとときを与えてから、初代が首を落とすんです。だから、『蔵に』は死刑を指した。そして、やがては初代のことも」

 腑に落ちた。「それで……」

「ええ。音って濁りますでしょ。処刑や護衛を行うのは、うちの人ということになっていって、いつしかそれは苗字のようになった。その過程で、『クラニ』が濁ったのね。漢字を与えられた時には変わってしまっていた。だから、」

 顔を上げた彼女が、宙に指で書く。

蔵未くらみ、だと。……そういう、言い伝えです」

「お子さんがいらっしゃるんですよね?」

 取材を申し込む際に聞いたことだ。彼女は頷いた。

「ええ。今、どうしているかは知らないけど」

「そうなんですか? なぜ」

「なぜって。男が引き取ったから。元々結婚する気なんてなかったんです、なんというか、出来心で選んだので」

 出来心、と、選んだ、とが、うまく結びつかない。「どういうことです?」

 すると彼女は、初めて言い淀んだ。迷うように視線を泳がし、しばらくして、ため息をつく。

「なんというか……今となっては、少し後悔していて」

「後悔?」

「愚かなことをしたかしら、と。あまり、褒められた話じゃないし」

「せっかくなので、」俺はあらゆる感慨を押し込めて言った。

「話してみてはどうです。この先、誰かに言うこともないでしょう?」

 彼女は、まだ迷い顔だったが、その瞳にちらりときらめきが過ったのを、俺は見てとった。案の定、彼女は口を開く。

「うちは分家だし、本家様みたいな、立派な由来があるわけじゃない。でも、家格は上のほうで、処刑の役目を与えられていた。何がしかの力はあるとみなされていたんです。私はそれを父や祖父やが誇らしげに話すのが、ちょっと馬鹿馬鹿しくて。だって、そんな大層なおうちなのに、私は何にも持たせてもらえない」

 先ほども言っていたことだ。浅く頷く。

「それでも、私は家のひとりっ子で、血を残していく義務がある。反感はあったけど、それはやっぱり私にとっては当然のお役目なの。でも、ちょっと、思いました。せっかくこの家に生まれたのに、普通の子産むんじゃ、つまらない」

「は?」

「ですから、」

 彼女は恥ずかしげに、頬に手を当てる。

「どうせなら、この家の力を十全に継いだ男児が欲しい、と思ったの。特別な子が。言い伝えじゃ初代は、中高な顔で黒髪で、彫りの深い美男子だったって言うから。垂れ目だって話もあるけど、それは私の血があるとして、容れる子種はそれを念頭に選ばなくっちゃならないと思った。それから、殺しが上手くないと」

 この暑さのなか、うっすらと、寒気が背筋を這い上る気がした。彼女はつらつらと経緯を語る。言葉に反して、少し、誇らしげに。

「うちにはそういう人脈は、いっぱいあったから。父や祖父も賛成でした。眼鏡に適う男を探して、一人いたわ。惚れ惚れするような美男子。でも、頭の出来はダメね。その代わり殺しは上手かった。殺しの仕事ばかりさせられて、でも一回もしくじってない。初代様と同じ。じゃあ、コイツにしましょう。あっちも私とヤれるのは満更じゃなかったみたいだし、男児も無事作れた。やっぱり、美人だった。産まれてすぐのときから」

 そこで彼女ははにかむ。「さっきのは、実体験」

 外は陽が沈みかけ、宵空に変わりつつあった。赤と紺との境目は、恐ろしいほど、黒い。

「産むまでは、子供なんて育てられないとさんざん言っていたくせに、腕に抱いてみると情が湧くのね、たまには会えねえかとか言うから、いっそあげちゃおうかな、って。私、子育ては向いていないし、それに試したかったの、家のことを少しも知らなくても、家の者として相応しくなるか。もしそうなったら、本物じゃない?」

「その子とは、」なんとか声は掠れずに済んだ。「それから、一度も?」

「会ってない」と、彼女は言う。「楽しみね。今は、どっち似かな」

 俺にはうすうす、これまでの彼女の笑みの意味が、分かりかけていた。彼女はただ、本家の凋落ちょうらくがほんのりと愉快だったのだ。自分たちより特別な、選ばれた家が、絶えたのが。彼女は本家や自分の家に伝わる価値観を否定しない。彼女もその価値観の中で生きている。ただ、その中で、自分が特別でなかったことが不満なだけ。

「『ヨモチ』家は——」

 口にすると、彼女はそこできょとんとしてみせた。「ヨモチ?」

「え?」

「……ああ。メールにも書いてらしたけど、打ち間違いかと思って。違いますよ」

「違う?」俺は身を乗り出す。「もしかして、正しい読みをご存じなんですか」

「そりゃあ、」彼女は隣の本の山を、上から取って崩した。「他家と一緒にされても」

 そうして黒い表紙を捲る。中を覗くと、時代が近づいたのか、なんとなくだが文字は読めた。

「これ、見て」細い指が差す。「読めます?」

 目を凝らす。『夜持』、と見える。

「これは……」

「これね、誤記なの。本家様の名を聞いた人が、学がなかったのね。本家様の苗字、どう書くか分からなかったんです。それで、聞こえた音に適当に字を当てた。これが今度は字だけ伝わって、誤読を生んだ。『ヨモチ』、『ヤモツ』と」

 ページから密かに目を上げる。彼女の口元が、歪んでいる。

「他家は由緒を知らなくて。……この誤読、ちょうどいいからと、本家様は仮の名前に使ったんですよ。だから文献にも、この字や読みが残るようになった。今見てる書物自体は戦国あたりのものですけど、載ってる逸話は奈良よりも前。長いことそうしてきた」

「本当は、なんて言うんです?」

「分からない?」

 彼女も目を上げた。赤黒い瞳が、楽しげにまたたく。

「考えて。『夜』と、『持つ』。音を聞いた人が、この字を当ててしまうような名前。思いつきません? 簡単よ」

 頭がうまく回らない。「いえ、さっぱり……」

「そう——」

 彼女の指が、畳の上を躍る。ワルツのように気取った仕草で、ゆっくり、目で追える速さで。

「もしかして、ご存じないかしら。この字で、一体なんて読むか」

「……ええ」

「でもこれは、聞いたことあるでしょ? 死んだとき、その土地のものを食べてしまうと、もう戻れなくなるって話」

 知っていた。不意に、繋がる。俺は思わずスマートフォンを出して、適当な画面を開いていた。慌ただしく文字を打つ。ひらがなで打った言葉が、変換機能で示される。思った通りだ。

〈黄泉竈食ひ〉。

「本家様、」

 彼女は言う。艶めかしい唇が蠢く。まるで、別の生き物のように。

黄泉よもつ様、っていうんです。——あんまり口にしちゃ、いけないんだけど、ね」



     ◆



「……なるほどね」

 草壁の語りを聞いて、サワギリがつぶやいた。その余韻を、コンテナの湿った空気が吸い込む。しん、と辺りに、静寂が戻る。

 サワギリの手の中でスマートフォンは鳴り止んでいる。動転するクラミの手から携帯を奪った彼は、通話に出た瞬間に言い放った。

『今、取り込み中』

 そして即座に通話を切ると電源を落とした。だから、シュンがどういう用件でかけてきたのかは分からずじまいだ。後が怖い。

「クラミについては、分かった。それで——」

「待って」

 話を進めようとした彼を遮って告げる。

「一回、はっきりさせたい」

 サワギリが草壁から、クラミへと目を移す。草壁もまたクラミを見遣った。クラミの予想が正しければ、この場にいる三人——国会議員を除く——はクラミが何を言いたいか分かっているはずだ。クラミはサワギリを見返す。

「この人、知ってるの? もう全部」

 サワギリは答えない。今度は、草壁に向き直る。

「何を、どこまで知ってるのか、ちゃんと教えてくれませんか。俺はたぶん全部知ってます。サワギリが、知っていることなら」

 少なくとも、否定はされない。口を閉ざしたままの相棒をちらり見て、また視線を戻す。

「二年前……草壁さんは、一体どこまで調べたんですか?」

 草壁もこちらを見据えている。険しい顔だ。だが、敵意じゃない。それは覚悟のようなものだ。クラミには、そのように見えた。

「——分かった。話させてもらう」

 そうして彼が語ったのは、クラミにも覚えのあることだった。二年前の晩夏。ちょうどいま時期の、秋にはまるで程遠い、残暑。



     ◇



 その日、待ち合わせ時間を過ぎてもコウイチは顔を出さなかった。仕方なく連絡してみるが、電波が通じない、と言われる。参ったなと頭を掻いて、以前彼からチラシを一枚渡されたことを思い出した。《家事代行》と銘打った、文字だけの安っぽいチラシ。そこには事務所の所在地がある。

 マップアプリで最寄りの駅を調べ、乗り換え一回で到着した。下町風情の残る町を寂れた通りへ進んでいくと、マップアプリが案内を終える。顔を上げれば、確かに事務所らしきものが右手にある。手狭な入口はガラス張りで、住居案内が貼ってあれば不動産屋にも見えただろう。

「すみませーん」

 声を掛けると、ドタドタッ、と慌てた足音がした。上から誰か降りてくる。まもなく長身の青年が、左の階段から現れた。コウイチほどじゃないが、同じくらい高い。

「こんにちは。あの、どうしました?」

「いえね。すみません」俺は応接セットの脇を抜け、彼の目の前へ寄った。「コウイチって居ます? ここのメンバーのはずだけど……」

「コウイチ?」彼は首を傾げた。自らを指差す。「俺ですけど」

「え?」

 驚いて顔を見る。彫りの深い、やや垂れ目のイケメン。美男って点では同じだが、髪色も態度も、似ても似つかない。

「いや、そんなはず——」そこで気づいた。やっぱ、偽名か!「……や、勘違いだ。ここにもう一人いませんか? 白い髪の。君より背の高い」

 すると彼は答える。当然に、あっさり。

「はい、います。サワギリでしょう?」

 そのときの俺の衝撃を、彼は理解できなかったろう。

 俺は目を見開いていた。目の縁が痛むほどだから、自分でも分かった。口も開いていた。これも俺の寿命間近の関節が軋んだから分かる。それは全く予期していなかった、そして予期していなかったことをとことん悔やむ名前だった。サワギリ。確信を得るために、もう一度訊く。

「サワギリ、は。下の名前は?」

「え、」

 戸惑った顔の彼——本来の〝コウイチ〟は、恐る恐る答えた。

「〝ショウゴ〟です」

「ああ、——」

 ふらついた脚が、机の角にぶつかる。声にならない苦悶を上げてふくらはぎを押さえた俺を、コウイチくんは心配そうに見つめた。両手が泳いでいる。

「大丈夫ですか? あの、何か、」

「い、いや平気。どうもありがとう」逃げるように戸口へ向かい、足早に告げる。「お邪魔しました」

 ぶつけた脚を引き摺りながら、ゆっくり歩き出した。じんじんする痛みは、時間が経過するにつれ少しずつマシになってくる。混乱で絡まった思考も、同じように落ち着いていった。そうか。そういうことだった。向こうはきっと初めから、俺が何者か知っていた。偽名を使うのも当たり前だ。

 サワギリショウゴ、という名なら。俺は、最初から知っている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

 ようやくまともに歩けるようになったころ、不意に視線を感じた。立ち止まる。左手を見ると、家に挟まれたY字路の角に、ほんの小さな公園があった。パンダの形をした遊具に、誰かが跨っている。

「やっほー」

 俺はそいつを見つめた。ややあって、ため息を返す。

「やっほーじゃねえよ」

「遅かったね」

「最初に遅れたのはお前だろ」

「今日のこと、言ってんじゃねえよ」

 俺は口をつぐみ、公園へ入った。そのまま、彼の目の前に立つ。

「そうだな」彼を見下ろした。「絶望的に間抜けだ」

「否定しねー」

 けらけらと言って彼は——ショウゴは、出会ってからずっとかけていたサングラスを取った。

 思わず、息を呑む。

 一瞬で理解した。今までに聞いた数々の言葉、その大げさなくらいの表現が全くその通りだったこと。〝非常に綺麗な子〟、〝血の気も凍る顔〟、〝途轍もなく美しい〟。その眼の色はヘーゼルで、ほとんど黄緑に近かった。白い髪に、緑の眼。それも、すぐに思い出す。

 隠すに決まっている。俺ほど間抜けでも、見たらすぐに気がついたはずだ。

「それで、偽名か」

「そ」ショウゴは身体を揺らした。遊具がギィ、と鳴る。「偽名っても、相方の名前ね。だからすぐバレると思ったけど」

「お前は、」

 俺の脳裏にはこれまでのやり取りが去来していた。俺ははっきり言って、今すぐにでも首を括りたい気分だった。彼は一体どんな思いで俺の話を聞いていたのだろう。そのことに、俺は全く気づかず、全て見落としてここまできた。振り返ればサインはあった。彼が発したものでなくとも。

 続きが継げない俺を見て、ショウゴは目を細めた。短く言う。

「被害者」

「え?」

「未成年。十二歳。イカれたカルト宗教の、悲惨な事件の生き残り」そして、笑う。「カベっちはなに想像した?」

「……その、……」

「〝俺〟じゃねーよな」

 大人しく、頷く。ショウゴはにやりと唇を曲げた。

「素直でいーわ。まあ、でも、だいたい、そうじゃねえ? だいたいさ、なんとなく被害者ってこういうもん、って思ってるっしょ。俺はたぶんぜんぜんそれに当てはまんない。でも、そうだよ」

 外したまま手にあったサングラスを、襟元に挟む。

「俺、被害者って思われんの、嫌なわけ。そんな殊勝じゃねーし、別にそこまで引きずってねーし、もうとっくに自分の人生やってっし。可哀想みたいな、守るべきみたいな、悲劇のナンチャラ的な、そういう感じで見られたりすんの超ウゼー。だから、カベっちが色々漁り始めて、結構いいとこ突いてんじゃんってなったとき、見張ろうと思った。普通に殺すのも考えてた。俺、ヤバい仕事してるし」

 ろくに応えられぬまま、隣の遊具に腰を下ろす。俯くと、とぼけた顔のナマケモノがこちらを見ている。パンダとナマケモノ。どういうチョイスだよ。

「でも、カベっちさ。俺に訊くって言ったじゃん。記事にするか、しないか、っていうの」

「……言ったな」

「ふぅん、と思って。ぜんぶ分かったときに、俺がイヤって言ったら、やめるのかなーって。ホントかなって。試したくなった」

 俺が答えようとすると、遮るように彼は言う。

「とにかく! 俺はアンタが探してた生き残りの、沢霧章吾さわぎりしょうごですよ。同級生に聞いて知ってんだろ? アルバムとかから消したって、名前覚えてるやつくらいいるよな」

 頷いた。同時に、だから俺は接近されたのか、とも思う。当時の同級生たちから彼の名前を聞いた時点で、もう目をつけられていたのだろう。

 章吾は話し続ける。どこか、空元気のように思えた。

「なんか訊きたいことある? っつっても、カベっちって俺にけっこう話すからさあ、なに知らないか分かる気がすっけど。髪がどうして白くなったかは、俺も知んない。あんとき、俺ショックすぎて気絶して、目が覚めたらこうなってて。なんかフランスの女王とか、一晩で白髪になったらしいじゃん。まあ、それがマジならそれじゃね。そんくらいのショックではあるでしょ」

「……父親は?」

「親父? ああ、沢霧宗仁むねひと。ヤーさんに戻ってんじゃない? 俺はあれ以来会ってない。事情があるんでしょ。それもよく知んない」

 他には? 前を向いたまま問う彼に、俺は訊ねる。

「記事にしてほしいか?」

 彼は、黙った。それも、長いこと。

 蜩が鳴いている。その声ももう弱い。夏は残り火も消えかけている。それでも昼の日は厳しくて、汗がだらだらと流れ落ちた。頭上に広がる木々の葉が、章吾の顔に木漏れ日を落とす。

「分かんない」と、彼は言った。「カベっちといて、分かんなくなった」

 どうして、と、問いかけるか悩む。断られるとばかり思っていた。

「言っとくけど苦労とか、なんも気にしてねーから。俺がイヤならどんなに頑張って集めたもんでも捨ててもらう。でも、肝心のソコが分かんねえ。俺どうしてほしいんだろ。やなこったって思うけど、なんか、違う感じもして」

 風が吹き、木漏れ日も揺れた。影の落ちる彼の横顔は、やはり、この上なく美しい。

「そんなに引きずってねえけど——」

 口が動く。口調の割に静かな声。

「別に、ショックとかトラウマとか、そんなんじゃないってだけで、ムカついてんのは、ずっとムカついてる。家族ったって全員イカれてたし、ぜんぜん情とかなかったから、悲しくもなんともねえけど。けど、あんな目に遭わされて、水に流せるわけじゃねえよ」

 だろうな、と思う。ただ、じっと聴く。

「ムカついてる、……ムカついてっけど、マジ頭焦げそうなくらいムカついてっけど、それがなんでかは、あんま分かってなくて。でもカベっちと話して、ちょっと、分かったかも、って思って。したらその分ちょっとだけ、ラクになったわけ。もしかしたら、なんかぜんぶハッキリしたら、ムカついてるのは変わんなくても今よりラクかなと思ってさあ。だったらカベっちに——」

 そこで彼は言葉をつぐみ、また、遊具を漕ぎ始めた。今度は、少しばかり大きく。耳障りな軋みがしばらく響き、やがて、彼は動きを止めた。ぽつりと言う。

「カベっちがハッキリ、させんなら。俺的には、ちょっとアリなんだよね」

 言葉の隙間を、蜩が埋める。かな、かな、かな。三つ聞こえ、章吾は漕ぐのを再開した。ギィギィ鳴る音を背景に、俺は章吾の横顔を見つめる。

「俺も、考えてた」

「うん?」

「記事にすべきなのか。本当に、やるべきことは何か」

 章吾は動きを止めない。だが、聞いてくれているのは分かる。

「『物語』には気をつけろ。……それは、俺にしてみれば、誰かを『物語』にすることに気をつけろ、って意味になる。どんな志があっても、誰かをネタにすることには変わんねえからな。ひでえよな。でもやんなきゃならないとしたら、どういう時か。どうやったらいいのか。ほんとにやらなきゃならんのか。ずっとな」

 章吾が動きを緩めた。遊具は、惰性でまだ動いている。

「お前がラクになるんなら、やる価値があるよ。でも記事じゃダメだ。どんな丁寧な記事も、むしろ丁寧なほど、それは雑誌じゃ連載になる。続きが読みたい、先が知りたいって思わせることから逃げられん。お前の事情をダシにしてな」

 遊具が止まる。章吾がこちらを向いた。反対に俺は前を見ていた。いや、目の前のナマケモノを。

「学者サンに聞いた時にも思った。物事には段階があんだろ。誠実さにも。『物語』は危うい、だからって、あるものぜんぶ無くすわけにいかん。というかできん。できんってなったら、どうしようもなくひでえままのがひでえまんまで蔓延るかもしれん。だったら、やれる限りやれるだけ、やるしかないだろ。俺なりに」

「……カベっちの、」章吾が、首を傾げる。「俺なりにって、何?」

 正解かどうか自信はなかった。それでも、今言えることはこれしかなかった。

「——本にしようか、と」

「本?」

「ルポだ。ルポルタージュ。別に書籍じゃなくても、ルポはルポだけどな。それでも、記事でやるよりは、資本主義から逃げられる。名前は出さないし、近況も書かない。お前をダシにすることはしない。お前が望む報道をする。お前が、なんでムカつくのか。お前がされたことはなんなのか」

 俺は、章吾に顔を向けた。その緑の目を、まっすぐ見る。

「ハッキリ、させる。時間、かかっても」

 章吾は目を逸らさなかった。この、類い稀に美しい、それだけのただの青年に、しみったれた中年男がどう映ったものか分からなかったが、じっと見つめる時間のあと、章吾は、いつもの顔になった。つまり、小馬鹿にしたような、歳上を舐めくさった表情カオに。

「いーよ」そして、頬杖をつく。「何年かかっても、許す。きちんと、本にできんならね」

「……分かった」

 俺は茶化さずに受け止めた。すると章吾は、一瞬だけ、笑顔に違うものを宿した。その変化を捉え切る前に元の表情に戻った彼は、煽るように指差す。

「けど俺、責任取らねーよ」

「責任?」

「本。売れなすぎて、破産しても」

 これには思わず顔をしかめた。彼は、どことなく嬉しげに笑う。

 俺たちはそのまま、長い間過ごした。陽が中天を少し過ぎ、その色を濃くする時刻まで。何を話すわけでもない。けど、別れればもう会わないと、お互いにどこかで分かっていた。しばらくして、微かに漂う名残惜しさを切るように章吾が立ち上がり、振り返らずに立ち去っていくのを、俺は、黙って見送った。いつか本を出すときは、また会えることを、願いながら。


 ——いや、そのはずだったんだ。こんなの、誰が想像つくよ?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る