第四話
怖い。
フェンスから身を乗り出して、男は心臓に戦慄を覚える。眼下には夜の空が縦に、深く口を開き、その底にあるはずの路上はよく見えない。何せ五十階建てだ。頭から血の気が引いて、立ち眩み、咄嗟に手すりを掴んでしまう。だめだ。本当は、このまま放さなければならない。なのにさっきから何十分も踏ん切りがつかないままだ。
下から吹きつけ頬を撫でたのが、地獄からの風に思える。
酒は浴びるほど呑んだ。こうしている今も、ふらつきのままに傾いて向こう側へと落ちるのは造作もないことに思える。だが実際は、何度やろうとしても反射的に身がすくみ、ぎゅっと手すりを掴んでしまう。その度に心臓が凍るような思いをする。怖い。だが他の道はない。あくまで事故を装って落下し、あっけなくこの世を去らなくちゃならない。そうすれば家族に累は及ばない。それに、——
今死ぬことができれば、少なくとも、悲しんではもらえる。
「あのう、」
男は震えた声で、背後に呼びかけた。窓が開いたままのリビングに、長身が二人立っている。
「どうしても、手伝ってもらうわけには、いかないんでしょうか」
「なに? 勇気でない?」
ぞっとするほど美しい男が、さも面倒臭そうに言った。染めたのかまさか地毛なのか、銀色に見える髪を掻き、ため息をつく。
「だから言ってんじゃん。あんたが自分で落ちないとさあ、事件になっちゃ困るわけ。俺らあくまで見張りだから」
「ごめんね。怖いのはわかるんだけど」
傍らの黒髪が言う。彼もずいぶんな美男だが、表情が柔らかいせいか、さほどの威圧感はない。男は少しの期待を込めて、黒髪を見つめた。
「そうなんですけど、踏ん切りがつかないんです。すくんじゃって。どうしても、あと一歩が出ないんですよ」
「うーん……」黒髪は困った顔だ。「そう言われてもなあ」
「でも、俺が死なないと、お二人も仕事終わらないですよね? もうご飯どきだし……」
「そーだよ」銀髪が口を挟む。「だからさっさと飛べってば。怖えとか知らねえし」
「俺だって飛びたいよ」
思わず泣きそうな声になる。この期に及んで助かりたいとは自分だって考えていない。だが無理なのだ。こんな高所から、全ての想像を断ち切って自ら飛ぶなど、そうできやしない。
改めて自殺というのは、尋常でない心理状態なのだ、と思い知る。こんなことができてしまうなんて。そんな淵に、追いやられるなんて——
「……飛ぶしかない、……」
もう一度、前方を向く。下を覗き込み、胸が絞られる。胃の腑からゆっくり体が震える。あとちょっとだ。ここのフェンスはそう高くないから、ちょっと上体を傾けて戻れないところまで行けば、あとは重力がやってくれる。分かっている。やれ。やるしかない。深く底を覗き込んだら、そのまま、パッと手を放し——
「あーあ」
痺れを切らしたクラミが男の足を掴んで持ち上げ、そのままひっくり返すように向こうへ落としてしまうのを見て、サワギリは気付けば言っていた。しかしまあ、あーあ、以外に出すべき声は見当たらない。戻ってきたクラミに投げかける。
「何してんの」
「だって遅いから」唇をとがらす。「お腹すいちゃったよ。分かってるなら早く飛びゃいいのに」
サワギリは男の消えたバルコニーを見つめる。まあ、クラミは使い捨ての手袋をしてたし、強く痕の残るようなことをしたわけでもない、構わないだろう。だいいちまったく少しの証拠も残して欲しくないというなら、そもそも自分達に頼むわけがない。どうせ警察への根回しは済んでる。なんならこういった状況になれば、直接始末をしてくれることも期待しての差配だろう。
誰の目にも明らかな証拠さえなけりゃ、どうでもいい。
「なんか食べる?」
振り向くと、クラミがキッチンへ入り、大きな冷蔵庫を開けていた。渋面になる。
「食べねえ。余計なことすんなって」
「でもどうせ事故になるんでしょ? 冷蔵庫の中身まで調べないじゃない、多分」
「かもしんないけど……」
「あ、すごい! ラクレット! こっちは生ハムかなあ。いい匂い」
サワギリはクラミの背を見つめ、それから端末を取り出して検索した。
「まあイケる」
「なんで?」
「あいつのアカウント。直近の写真にその……ラケットだか生ハムだかが写ってたらマズいだろ。状態が違うと」そのまま暇つぶしすることに決めてサワギリはアプリを移動した。「インスタにもツイッターにもフェイスブックにも写真なし。バレやしねえから、食っていい」
「やったー」クラミは冷蔵庫からそれぞれを取り出し、用意をし始めた。キッチンから声を上げる。
「あ、そういえば」
「あん?」
「この前、あの、宗教の人のさ。おつかいに付き合ったろ?」
「ああうん」
「それで、納屋にいた人を始末したんだって話したじゃん」
「したな」
「あのとき、依頼主の素性とか立場まで、お前話してたっけ?」
「は?」
サワギリがスマートフォンから目を上げてクラミを見ると、クラミは勝手に取り出したらしいバゲットをナイフで切っていた。どこから探し出したやら、ちゃんとパン切りナイフだ。
「言えるかよ? 漏らすわけねえじゃん。依頼主が殺したって言ってたくせに生きてたことと、まあ黙って処理しましたよってことだけ。お前聞いてただろ」
「だよなあ。でもさ」
「うん」
「俺聞かれたんだよ」
「なに?」
「シュンさんに。『死んだんだって触れ回ったの、どこの組の方?』って」
しばし沈黙が流れる。そのあいだ、クラミはバゲットを丁寧に十等分した。皿を探し出す。
「どういうこと?」やがてサワギリは言った。「なんで『組』ってわかんの?」
「だから、それが不思議なんだろ。お前なら理由わかるかなって」
「わかるわけねーだろ。盗聴? だとしたらなんで?」
「あのさ。あのとき俺、お前の話聞きながら、当時を思い出しててさ」
「うん」
「だからもしかして、俺の考えてたこと、見えちゃってたりしたのかなって」
サワギリは顔をしかめる。が、返事がないということをクラミが一向に気にしないので、仕方なく言った。
「超能力者ってこと?」
「わかんないけど、なんかあるのかも? 宗教家だし」
「あってたまるか」
「絶対に無いとは言えなくない?」
クラミは皿を調理場に置いてサワギリを向いた。
「お前、視えるじゃん」
サワギリは自分に視えるものが霊なのか別のものなのか、よく分かっていないが、世間一般に霊と言われるものに近いことは把握していた。サワギリはかつて、家の門の前に〝何か〟が立っていた時のことをよく覚えている。正確にいつとは言えないが、ランドセルを背負っていた頃だ。
サワギリは使用人が開けた門を抜けて家へ入ると、真っ先に父の書斎へ向かった。
「父ちゃん」
「どうした」
「門のところにだれかいんだけど」
「門に? 誰だ」
「わかんない。おっさん」
サワギリは父に、その当時の自分が言える限りの特徴を並べ立てた。
「なんもしゃべんない」
父は押し黙った。心当たりのある顔だった。
「何もしてこないか」
「うん。立ってるだけ」
「そうか」
「でもなんか不満そうだった」
「だろうな」
呟いた一言は、かろうじて聞こえる程度の大きさだ。
「あれ、だれ?」
幼いサワギリの問いには答えず父は書斎を出て行った。サワギリは不満に思ったが、呼び止めないまま見送った。
そう滅多にあることじゃないが、その後もしばしば似たような経験があってサワギリは悟った。ウチの稼業で死んだ人だ。そして思った。あいつら恨んでるんだ。恨んでるけど何もできなくて、ぬぼっと突っ立ってるんだ。ずっと。
「幽霊が見えるって、面倒じゃない?」
クラミにスカウトされてしばらく、この話をしたとき彼は言った。選ばず入った真夏のカフェは冷房の効きが良くなくて、頼んだコーヒーの氷がみるみる溶けてきていた。
「殺すたびに視えるんじゃ、鬱陶しいだろ? こんな仕事」
「それがさ、」
サワギリは薄まるアイスコーヒーをストローでかき混ぜる。
「殺されたやつがみんなぬぼっと出てくるわけじゃねえの。よっぽどっつーか、恨みがましいやつしか出てこない。で、死んだところであいつらも別に力とか持てねーから、なんかしらできるわけでもないわけ。祟りとか起こせるのって、生きてるときからすごかったやつだけだと思うわ。
「平清盛かあ。そういないね」
「だからまあ、別に。うざいっちゃうざいけど、この仕事してなくたって視えるときは視えるし」
「なるほどね」
クラミは感心したように呟いて、コーヒーを飲んだ。この話を真面目に聞いてなんの疑問も持たなかったのは、サワギリの生涯で、彼が初めてだった。
「だからってファンタジーすぎね?」
「視えるのだってファンタジーだろ。シビアな人なら信じないぞ」
「えー、うーん。要するに、あの人にお前の頭ん中が覗けたんじゃないかっていうわけ?」
クラミは口をもぐもぐと動かしながら頷いた。テーブルの上には大皿に載ったバゲットが並べられている。バゲットには生ハム、その上からとろとろのラクレットがかけられ、全体を包み込んでいる。
「そ。もし見えるなら、俺が考えたこととか分かったんじゃないかって。思考も聞こえたりして」
「お前ひとりごとうるせえしな。事情わかるくらいブツブツ言ってても不思議はねえけど」
「この場合もひとりごとになんの?」
「知らねえよ。原理は一緒ってこと」
納得したようなしてないような顔でクラミは頷く。
「とにかく、可能性はあるだろ?」
「まあ……」
サワギリはバゲットを噛みちぎり、飲み込んだ。妥当な線で言えば、元々シュンが裏社会の情勢を知っていたのだろう。最近の事案で〝息子〟——後継者候補が身内を誰か殺した疑惑のある組があれば、大方の予想をつけて尋ねることもできる。訊く前に、もう答えは分かっていて、念押しをしただけかもしれない。あの騒動の真相はこんなことだったのかと、興味本位だったんじゃないか。
「まったくないとは言わねえけど。見えてたとして、なんなんだよ」
「ちょっと面白いじゃん」
「そんだけ?」
「見えるから宗教もうまくいくのかな? 何を考えてるかわかるなら、いろいろ便利そう」
「そうでもないんじゃね?」
サワギリは次のパンを選び、手に持ったまま話した。
「見えたところでさ、出来ることとかエセ占い師とそう変わんねえじゃん。引っかかるやつは、見えてなくても占いもどきのテクニックでどうせ騙せるし、それに引っかかんねえやつにマジで当てたって意味ねえよ」
「そっか……」クラミは宙を見る。「お前も、視えるからって便利なこととかないもんね」
「そうそう。むしろ邪魔。あ、でも」
その声にクラミが前を向くと、サワギリは新たなバゲットを頬張ったところだった。食べ物が口にある最中に彼は決して話をしない。なので、彼が咀嚼し終えて飲み込むのを待ち、クラミは訊ねた。
「なに?」
「俺さ、視えてるやつを無視すんのに慣れてっから、忘れてたんだけど」
「うん」
「シュンさんだっけ? あの人」
「うん?」
サワギリは次のバゲットに手を伸ばしながら言った。
「超ヤバげなの憑いてたわ。金髪の。なんか、女の人」
シュンは一葉の写真を見ていた。印画紙に印刷されたもので、おそらくフィルム写真だ。公園の芝生に大きなビニールシートが敷いてあり、三人の子供が思い思いに昼食を摂っている。撮影者はシートに座る子供たちを立って見下ろし、写真を撮ったらしかった。声をかけたのか、食事の途中の体勢で子供たちはレンズを向いている。
手前に黒髪の少年が二人、よく似た格好で写っている。白いブラウスとハーフパンツはどちらもリネン素材のようだ。その背後で風に吹かれつつ、長い金髪を耳にかけている少女は、ギンガムのワンピースを着ている。二人の少年より年嵩で、だがまだ少女だ。三人とも、よく似た青い目で、人形のように愛らしい。
写真では白に近づいているレモンイエローの本当の色を、シュンはよく覚えている。姉にはそれがよく似合った。
「おつかれ」
ドアが開く音と同時に声がして、シュンは振り返る。ユウが後ろ手にドアを閉め、シュンを見て笑った。
「何してるの?」
「写真をね、見てました」シュンは窓辺へ目を向ける。「いい天気ですね」
窓の外には低層ビルが連なっている。雑居ビルが立て込む路地の一角だった。シュンは普段着でこのビジネスホテルに滞在し、ユウが外回りから帰ってくるのを待っていた。今日の護衛のアズキヤは部屋の外に待機している。
ユウは黙って同じ方を向き、目を細めた。
「うん。クソ暑い」
「そうね。こんな中ご苦労様ね。スーツまで着て自殺行為」
「誰のためにその自殺行為をしてるのかなあ」
ぼやきつつ、ユウは二人の間にあるテーブルへ紙袋を置いた。
「コーヒー買ってきた。まだギリ冷たいと思う」
「あら、ありがとう。甘くしてくれた?」
「当然。君の頭脳には糖分が必要だしね」
「なんだか茶化されているみたい」
「茶化してんのさ。さ、飲もう」
シュンは頷き、手前へ座る。ユウはその向かいに座り、訊ねた。
「お姉さん?」
「うん? ああ、写真?」シュンはまた頷き、紙袋を漁る。「ねえそういえば、彼、死んだ?」
「ああうん、報告をもらってる。しっかりやってくれたみたいだよ」
自分の分を取り出したユウは飲み口を開けた。「あのふたり」
昨晩、正確には今日の未明、ヒノを通じて報告があった。無事に飛びましたよとサワギリは言ったそうだが、例の納屋での逸話を聞くに本当のところは疑わしい。とはいえ事故、あるいは自殺として処理が済むならそれで結構だ。もっと言えば、こちらとしては、
「そう? そうよね。僕好きよ。彼ら」
「それは分かってるさ。他の依頼も彼らに頼めって言い出すんだから。何がそんなに気に入ったの?」
「あのねえ……」シュンはカフェオレの蓋を、慈しむように撫でる。
「僕にはね。彼らが僕の守護天使のように思えるのよ」
「守護天使?」
ユウは片眉をひそめた。シュンは気に留めず、カフェオレの蓋をゆっくり開ける。
「そうよ。天からの指令を、実行するのは天使たちでしょう? そんな風にして彼らも僕の願いを叶えてくださるの」
言って、口をつけた。「きっとね」
「『願い』ねえ……」
ユウは首を捻り、それからチラリとスマートウォッチへ目を遣った。「どうかな」
「必要なピースよ」
歌うように言ったあと、シュンは少し拗ねた顔をした。
「僕より通知が大事なの? 今は、僕との時間でしょ?」
ユウは目をあげた。しばし見つめたのち、黙って留め具を外す。
「ごめん」
「仕事熱心でいいけれど、僕より『僕のため』を先にしちゃ本末転倒よ」
外した時計を脇へ置きながら、ユウは呆れまじりの視線をシュンへと向ける。彼の性格を知っているからその発言は不思議じゃないが、かと言って芯から納得がいくかというと話は別だ。
「そうかなあ。だいいち君になんの益があるの? 僕と話したってさ……」
「まあ」シュンは目を剥いた。「まだそんなこと言うのね。君って昔っからいっつも——」
「はいはい、分かってる。君としちゃ『大好きな友達』と語らう『無二の時間』は『いちばん重要』。だろ?」
「お題目みたいに言わないでちょうだい。というか、君は? 満たされないの? 僕と一緒の時間を過ごして、心が充実しないの? どうなの?」
「そりゃするよ」あっさりと言う。「それ以外の時間に意味はない」
シュンは黙り込んだ。ややあって、不満げに返す。
「なら……」
「けどそれは僕の場合であって、君が僕と話してて楽しいってのはどうもわからない。僕が君といることに無上の幸福を得るとして、君も同じだと思うのは僕には難しいねえ。違う人間なんだし」
「どうしてよ? そこまで分かってて」
シュンはテーブルに指を置き、カップの周りをくるくるとなぞった。ユウは頬杖をつき彼の動作を眺める。やがて、指が止まった。
「君はね、自他境界を引き過ぎよ。お堀のようになっているわ」
「客観的に理解しがたいのさ。君がそんなに僕が好きってことが」
言ってから彼は手を振った。「勘違いするなよ、認識はある。ただメカニズムがわからないだけ」
「君だって僕が愛おしい理由はわからないのでしょ。同じことよ」
答えに窮したのか、ユウは目を逸らし、卓上のリモコンを取った。そうして壁側のテレビへ向けてスイッチを押す。一瞬の間のあと、鈍い通電音がし、画面が灯った。
ちょうど午後のニュースの時間だ。
《東京都——区の交差点で、バイク一台とトラックが衝突する事故が発生しました。この事故で——区に住む——》
淀みなくニュースを読み上げていたアナウンサーが突然、斜め下を見て止まった。頷くような仕草をしたあと、卓上の原稿を入れ替える。
《速報です。東京都——区——で火災があり、自統党幹部で政調会長の
二人は、口をあんぐり開けていた。画面の中のアナウンサーは動きを止め、新たな紙を受け取って話し出す。
《新しい情報が入ってきました。同じ頃、東京都——区のビルで火災があり、今なお燃えているということです。同ビルは指定暴力団
もう言葉は入ってこなかった。シュンは思わず椅子から転げ、そのままテレビにしがみついた。そして誰かの肩をつかんで揺さぶるようにテレビを揺らす。
「うそでしょう!?」
ユウは机に肘をつき、自らの額を覆っている。テレビはニュースの続きを伝え、その内容は最初の報道の繰り返しに過ぎなかった。何度聞いても混乱を脱することのできないシュンは、さらに激しく揺さぶりながら訴える。
「うそうそうそ。なんで!? 死んだ?」
アナウンサーが言う。《皀氏は今も行方が分からず——》
シュンはようやくテレビから離れた。へなへなと、その場に座り込む。
取材クルーが到着したのか、現場の映像が映し出された。消防士が懸命に放水しているが、火は弱まる気配もない。
シュンは事務所から燃え盛る炎をきっと睨んだ。その目は、悔しげに——路上で誰かにぶつかられて、アイスを落とした子供のように——歪んでいた。
「殺したかったのに!」
ユウは黙って彼のそばへ寄った。肩を抱くとシュンは口を閉じ、やがて、さめざめと泣き出した。
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