第五話

    ◇



 二年前——



「やめたほうがよござんすよ」

 シン、としたひと言の直後に、蝉が耳を圧した。瞬く間に鳴き声を戻し、他の音など聞こえなくなる。空間を支配していた大音響の蝉時雨がなぜあの一瞬途絶えたのか、これが宗教家というものか、——とめどなく湧く汗を拭きながら縁側越しの外を見遣った。竹林の笹がざわめいている。

「仰ることは分かりますがね。こっちも仕事なんで」

「ええ、存じてますとも。けどねえ、ネタってのは他にごろごろあるでしょ。なんでまたこんな」

「いえ、まあ。ご縁がありまして。そちらさんも、縁は大事でしょ?」

 軽く茶化すが、目の前の袈裟姿の男は動じない。

「仏さまのお導きならね。ここであなたと会ったのも、縁だといえば縁なんでしょうが」

「ここらの『お寺さん』としてお宅は永年やってきた。さぞやご存じのことが多いと踏んで来たんですが」

「あなたね、神仏習合じゃあるまいし。そんなもの、〝お社さん〟の事情は、あたしにゃあよく分かりませんよ。うちの境内に神様はいない。正直なところ詳しくもないしね。敬意を持たないわけじゃないけどさ、畑違いです」

「そうは言っても」へりくだるように首を下げ、しかししつこく見詰めた。「この件、『やめたほうがいい』ってのは、分かるんでしょう?」

 僧侶は黙った。やがてため息を漏らすと、そっと居住まいを正す。

「あなた……なんていったっけ、お名前?」

「草壁です」

「草壁さん。もうね、なに……十二、三年ですか? そんな昔の話だよ。それまでに何があったとて、どうせあのときみんな揃っていなくなっちまった﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅んだ。なにも墓穴を掘り起こすこたあないでしょう」

 そして、身を乗り出す。

「可哀想だと思わないの。せっかく生き残った子も、あなたが報じればまた思い出すよ」

「だから、待ったんですよ」

 蝉は、止まない。俺の一言になど、忖度する気はないらしい。

「ほんとに土かけて忘れ去るのが最善だってお思いですか。もう済んだことだってのは、無関係の人間の思い込みじゃあないですかねえ。それこそ生き残った子にしてみたら、あの事件は終わっていないでしょ。蓋をしたままがいいのか、なんて、本人に聞かなきゃ分からない」

 僧侶は口をひん曲げている。

「屁理屈に聞こえますけどね」

「全部じゃなくていいんですよ。一部だけでも。知ってることをお聞かせ願えませんか。それこそあなたがあの子に義理立てしてるようなことは、今は無理に聞きません」

「今は、ってこた、いつか聞くんでしょう」

「先のことは、なんとも」

「はあ」今度のため息は、はっきり声になった。「言うまで帰りそうにないね——」

 へらりと笑う。記者になって十数年。こんな表情も、すっかり板についた。


「おかえりぃ」

 待たせていた車に乗り込むと、クーラーがめっぽう効いていた。熱中症一歩手前の身には有難い反面、運転手の頭に節約のせの字もないらしいことが胃を狭める。運転役にと雇ったのはこちらで、諸経費の負担は当然こちらだ。クルマ自体も彼の持ち物で、まあ当然の話ではある。

 中古のボロなら俺も持っているが、なにせボロだからガタついている。県を越えて取材に行くというのは無茶な代物だ。レンタカーを借りようとしたら、そこの店主の紹介で彼を雇うことになった。いざと言うときの用心棒にもなるらしい。確かにえらい長身で体つきもしっかりしているが、あんまり綺麗な顔をしていて頼もしさは感じられない。反面、彼が道端にいたら、なるべく避けて通ろうとするだろうとは思った。派手な髪といい服装といい、オヤジ狩りでも仕掛けてきそうだ。

 長期間のリースと比べれば、レンタカーより安いので雇った。『コウイチ』と名乗った彼は、長めの銀髪をちょんと束ね、サングラス越しにルームミラーを見る。

「どうだった、取材?」

「ぼちぼちだな。ま、ハナから一回で聞けるた思ってない」

「ふぅん。むずかしんだ」

「想像以上だ。月日が経ったから、口も緩むかと思っていたが……」

 俺は手帳を取り出し、めくった。断片的な情報が書き記されただけのページに、思わず額を押さえる。

 事件発生当時、俺は駆け出しで、まだ新聞社に所属していた。第一報を聞いた先輩が慌ただしく準備するのに、思わず声をかけると、彼はバッグを引っ掴んで言った。

『ヤバいぞこれは。集団自殺だ』

 翌日、自社の朝刊を読んだ。◆◆県のある屋敷で集団自殺が起こったという。死者数は七十二人。生存者は、少年ひとりだけ。

 当初からカルト絡みだと囁かれていたが、その後、不思議なことにほとんど続報がなかった。一説には与党関係者が信者たちの中にいただとか、教団と繋がっている暴力団からの圧力だとか、その他あれこれとあったが、報道がされぬうち、事件はすぐに風化した。平成末期の当時、既にコンプライアンスは意識されていたし、生存した少年が未成年だったということも、報道の自粛を促したかもしれない。

「ってかさ」コウイチは振り返った。「カベっちはなんで、この事件追うの?」

「あん?」俺は手帳から目を上げる。「なんでたあ、なんだ」

「だってさ、十三年前しょ? 調べ直すには中途半端じゃない?」

 俺は頷き、手帳を閉じた。「俺なりの仁義でね」

「は?」

「当時生き残った子は、中学に入る前、十二歳だった。事件の日が誕生日でな。順当に育ったら今ごろ、」コウイチを指差す。「同じくらいだろ?」

「たぶん?」彼は軽く頷く。「ピッタリ同い年じゃね」

「年齢情報にフェイクがなきゃあ、今ごろ二十五歳のはずだ。これはつまり、現役合格なら、社会人三年目だな」

「俺は社会人長いけどね」

「フリーターがナマ言うな」思わず顔をしかめる。

「は? 人のこと言えた義理? フリーのハイエナ低収入に言われたくありませーん」

 すかさずコウイチはのたまって、手をひらひらとさせる。このやろう。しかし返す言葉もないのでスルーを決めた。

「ここが重要なんだよ」

「都合悪いからって無視してやんの」

「うるせえ。いいか? 社会人一年目なんて、まだお勉強中のお子ちゃまだ。とても社会の一員じゃない。二年目になるとようやく慣れて、ここでやっとこさ仕事を覚える。で、三年目。ここまで来れば、会社の中での役割や目指す立ち位置が見えてくる。足場が安定して、余裕もできる」

 俺は胸ポケットを指した。目顔で訊くと、どうぞ、と言うように、コウイチは手を伸べる。

 窓を開け、タバコを取り出した。ふちを叩いて一本抜く。

「だから俺は、こういう重大事件は、せめて被害者や当事者が二十五歳になるまでは待つ。直当たりした時に、自分で判断できるはずだとな」火をつけると、外へ煙を吐いた。「これもまあ、欺瞞なんだろうが、ハイエナなりの一線なんだよ。誤魔化しと言われりゃそれまでだが」

「ふぅん」コウイチはつぶやき、前を向いた。「分かった」

「なんだ?」

「カベっちが売れねえ理由」

 エンジンがふかされる。渋面の俺と対照的に、コウイチは、愉快そうにしていた。



     ◆



 朝から落ち込んでいる。

 シュンはいまだ東京に居た。本当は今日にも〝天界〟へ帰るつもりだったが、とてもそんな気になれない。昨日の気分は最悪だった——念入りに準備して、カルト組織をここまで育て、いよいよ実行の計画を練っていこうという時に!

 獲物を横から掻っ攫われた。丹精込めて用意したサンドイッチを埠頭で開けたら、トンビに持って行かれた気分。いや、もっと悪い。まだスーパーでうきうきしながら素材を買った段階で、レシピも練り切っていなかった。これからが楽しいところなのに、下準備の段階で強制終了されるだなんて——。

「ああー……」

 昨日からずっとこうだ。なんとかベッドから出てきたものの、テーブルに倒れ込んでいる。起こったことはもうどうしようもないのに、うじうじ引き摺って気が沈む。死んだ人間は還らない。「せっかく死んだとこ悪いけど、僕に復讐されるために生き返ってはもらえない?」なんて無茶が通るわけがない。でも悔しい、——ああ、悔しい! あんなあっさり火事で死ぬなんて! もっと丁寧に、じわじわと、この世の地獄を思う存分味わわせてから殺したかった。誰がやったか知らないが雑な殺し方しやがって。もっとなんかあったろ? まあ、ちょろっと包丁で刺し殺すよりは苦しそうだから、まだよかったけど……

「あはは」

 ユウが笑った。じとりと目を向けると、ごめんごめん、と彼は手を振る。

「君ってば、見てるだけで何考えてるか大体わかるからさ。面白くて」

「面白がっている場合? 僕は長年の目標が急に潰えて最悪なのよ」

「そこは同情するけどさ。でも、よかったじゃない? 手間が省けて」

「矛盾してるわ!」シュンは身を起こした。「手間が省けたことが悲しいのに、ぜんぜん同情できてないじゃない」

「ああ、そっかあ。そうだねえ。にっくき相手が一度に死んで、効率いいと思ったんだけどな」

 シュンは思わず拗ねた顔になる。この人は、相も変わらず情緒がない。幼少からの付き合いなのに、僕のやるせなさ、分からないのかしら?——分かんねえだろうな——『エドワード』だし。

 ユウの本名は『エドワード』。シュンの本名は『カーティス』だ。二人とも日本に来たのは十年近く前のこと。爾来コツコツ足場を固め、日本語もずいぶん上手になった。と言っても、カーティスは最初から割と話せた。すぐ近くに日本語をよく話せるひとがいた。そのひとに習った言葉や口調はちょっと偏っていたのだが、今も遣っている。

 忘れないために。

『君はどうしてそうなの?』カーティスは久々に、第一言語を口にした。

『僕は〝あの件〟に噛んだ奴は僕の手でみんな殺す気で、十年くんだりこんなことをして、君だってそれに付き合ってきたんじゃない。嫌にならないの?』

『別に』とユウ——エドワードも応える。

『俺は過程は気にしない、こればっかりはタイプの差だな。求めた結果が得られたのならそれでいいかと思ったんだ。と言っても、つまり、お前の求める結果からは程遠い形で、急に頓挫をさせられたという話なんだな。それなら、理解できる』

 カーティスは鼻息をつく。『理解、ねえ』

 分かっている。きっと「理解」はしている。ただ「同情」と「共感」が彼には全くないだけだ。そこが好きなところでもあり、たまに不満に思う点でもある。

 何にせよ感情的で共感ベースになりがちな自分に、エドワードはうってつけの補佐役だった。彼のほうも、自分では考えもしないことをしでかすカーティスが面白いようで、「ついていくには飽きない相手」と、以前、言われたことがある。

「これからどうしましょう」

 日本語に戻って、シュンはまたテーブルに伏した。

「それねえ。どうしようか? 正直なところ、〝アレ〟を運営していた理由は昨日ふっ飛んじまったろ?」

「そうなのよ。でもここまで育てて、ほっぽりだすのも惜しいわよね。一応僕を信じちゃってる人たちもたくさんいるんだし」

「妙なとこ、責任感あるね。ハナから騙してるんだから、ほっぽり出したらいいだろうに」

「やあね。僕はあの人たちのこと、嫌いでもないし、憎んでもないのよ」

 言うとシュンはのっそり顔を上げ、手振りでコーヒーを所望した。ユウが首を傾けて頷き、スマートフォンを取り出す。配達サービスを使うらしい。

「たまに愚かしく見える人もいるけど、それだって運みたいなものだわ。僕らはたまたま人よりちょっと頭がいいかもしれないけど、人よりだいぶ頭が悪く生まれたとして、それって罪じゃない。それはそれとしてそうある﹅﹅﹅﹅だけよ。罪悪があるとするならば、性質を利用する人。つまり僕ら。違う?」

 ユウは頬杖をつき、薄ら笑いを浮かべている。話を聞きたい様子なので、シュンはそのまま続けた。

「だから、僕らが彼らを見下す、憎む、嫌うのはおかしいわ。僕らはせめて彼らを愛すべきでない? ええ、僕の言うようなこと、何で信じられるのか不思議よ。でも、信じそうな人をもとより僕らは選んだのじゃなくて? その恣意性を無視して彼らの愚かさを言うのは、筋が通らない」

「それだけのことを言っといて、——」

 注文を終えたのか、ユウはスマートフォンを切った。その顔は笑みをたたえたままだ。

「彼らを利用することに躊躇はしない、君のメカニズムはなんだ?」

「変かしら……」

 シュンはわかりやすいたとえを必死に探し、やがて妥協した。

「軍用犬、いるわね?」

「ああ」

「とってもかわいいわよね」

「だね」

「まあ君が犬のかわいさを『理解』しているのかはさておき、軍用犬のトレーナーは、大抵は自分が育てた軍用犬を愛してるでしょ。とてもかわいがっているし、大事に思っているわ。でも、危険な場所へ彼らを駆り出す。そのために育ててきたからね。そして、そのせいで死んだとしたら、とっても悲しむし、憤る。死の原因を憎むかもしれない。変よね。でも、〝自然〟でしょう?」

「まあ」

「同じよ。僕だって彼らを愛してる。でも、利用するために手にしたの。手に入れたから愛してるの。矛盾はしている。おかしいわ。でもね、人の気持ちでは、こんな不条理は、ごく〝自然〟なのよ」

 ユウは興味深そうに顎に手を添え、シュンを見つめた。

「いや、面白いね。感情ってやつは」

「サイボーグみたいなセリフだわ」呆れたふうに言い、すぐ言い直す。「いえ、悪魔ね。きっとそっちのほう」

 悪魔呼ばわりされた男は軽く肩をすくめ、腕の時計を見た。液晶画面が灯っているあたり、何か通知がきているのだろう。と、彼はシュンを見て、その時計を指で示した。

「信者からメッセージだよ。読もうか?」

「あら珍しい」

 ユウに直接連絡できるなら、〝役職持ち〟からのメッセージだ。シュンは身を起こし、音読を促す。小さい画面に目を凝らすのをやめ、ユウはスマートフォンをつけた。

「『こんにちは。私如きがこの重要な時期に連絡などして、俊様の御儀式の邪魔立てにならないか、大変悩んだのですが——』」

 そうだった。信者には、「この地で行わなければならない儀があるので、しばらく帰れない」と言い訳したのだった。

「『でも、どうしても、不安で。昨日、ニュースを見ていたら、大物政治家と暴力団の事務所が同時に燃えたと言って、この政治家、前々から、黒い噂がありましたよね? 奇怪なこともあるものだと思っていましたら、今日、続報が』——」

 そこで二人は顔を見合わせた。シュンはリモコンを手に取って、点けながらテレビへ目を向ける。ユウが続きを読む。

「『皀とやら、技能実習生制度の運用に関わっていたそうですが、この制度も前々から酷い有様が報道されて……暴力団が〝穢禍えきか〟を抱えるのは当然でしょうが、この政治家もそうだったのでは?』」

 折よくニュースは同様の内容を伝えている。穢禍、というのはシュンの説く教義特有の言い方で、『罪悪』に近い意味合いだ。シュンは食い入るように液晶を見つめているが、耳はユウの声を聞いている。

「『なんでも、両事務所、出火原因が分からないそうです。自然発火とも放火ともつかないと。奇妙じゃありません?』」

 ふと、シュンの目が、ユウを向いた。ニュースは繰り返しに入っている。

「『それで私、思ってしまって。もしかしてと。これは俊様の仰る、〈第一の刻〉ではないですか?』——」

 先に目を走らせ、ユウは一瞬止まった。そして、続ける。

「『〈業火〉の、実現では?』」

 メッセージはまだ続いていたが、ユウは読むのをやめ、シュンを見た。シュンは驚きに口を開けている。固まった顔が、その感情を、如実に示していた。

『お前——』英語が口をつく。『信者、いま何人だ﹅﹅﹅﹅﹅?』

『数えてねえよ』

 シュンはぼそりと返した。やがて華奢な手が、その口を覆う。

『ヤバ。——世界、滅ぶかも』



 サワギリはすでに嫌な顔をしていた。現場周辺は封鎖されていたが、真っ黒に燃え尽きた建物自体はよく見える。昨日、ニュースを知ったあと、クラミはふらりとどこかへ出かけ、帰ったときには妙に興奮していた。そして今日になって、現場を見に行こうなどと言い出した。どうせやることがないと言われると断り切れず来てしまったが、今になってなぜ素直についてきたのかが悔やまれる。

「やっぱりいる?」

 弾んだ声で訊ねるクラミに、うんざりと目を向けた。

「なにご機嫌になってんの? 見てて気分いいもんじゃないんだけど、こっちは」

「まあなー。でもさ、お前しか視えないわけだし」

「ってか、俺らに関係ないじゃん」

 今日だけで七回は言ったセリフをサワギリは重ねた。答えるクラミの言葉も同じ。

「いいじゃん、どうせ暇なんだし。何が起こったか、知りたくない?」

 クラミがこんなに前のめりなのは後輩の話が原因だ。政治家の事務所と大手暴力団の"本社"が同時に燃えた——となれば、多かれ少なかれ興味を持つのは自然で、だからクラミがヒノの周辺に探りに行ったのも、そんなにおかしくはない。だが、先輩の頼みを受けてアズキヤが話した情報は、ちょっとやそっとで納得のいく代物じゃなかった。


「変なんですよ」

 アズキヤは、路地裏の水たまりに舌打ちしながら言ったそうだ。

「変って、何が?」

「全焼してるんで。現場の検分もろくに進んでませんから、印象の話ですけど」

「うんうん」

「立ち会った消防士が言うには……燃え方が妙だと」

 と、遠くでマフラーを抜いたバイクが轟音を立てて通り過ぎた。チンピラが、と悪態を吐き、アズキヤは音の方角を睨む。

「普通の燃え方と違うってこと?」

 クラミが訊くと目を戻す。

「ええ。なんて言うか、火元がおかしいって。消防士が言うには、焦げ具合とかいろんな様子から、どのへんから出火して燃え広がったか、だいたい分かるらしくて」

「ああ。コンセントが火種とか、そういう?」

「細かいことは調べないと分からないんだそうですけど、まあ。で、皀の事務所なんですが、どうも火元がど真ん中にある」

「ど真ん中?」

「遺体がいちばん燃えてたって言うんです」

 アズキヤは目で断ってタバコを抜き出し、火をつけた。

「事務所にいたのは皀と秘書の男だけだったらしくて、秘書も丸焦げでお陀仏すけど……そっちは逃げ遅れた人の一般的な遺体だと」

「つまり、皀の遺体が火元?」

「現場の様子ではね」

 アズキヤは顔を背けて、クラミを避けながら紫煙を吐いた。少し戻ってきた煙に咳き込んでから、クラミを見遣る。

「まるで皀の体から自然発火﹅﹅﹅﹅したみたいだと——おかしな話ですけど、これがね。金王組もそうなんですよ」


 実際、現場からポリタンクやライターの痕跡は見つかっていない。しかし人の体から突然火が出たりするわけがない。どういうカラクリがあったのかすっかり気になってしまった彼は、試しにサワギリを使ってみようと思いついた。要するに、現場に行って、何か視えやしないかと言うのだ。おそらくそんな死に方では、恨めしそうに立っている丸焦げのおっさんは視えるが、丸焦げのおっさんが明瞭に視えたところでなぜおっさんが丸焦げになったのか分かるわけじゃない。だいいち、丸焦げのおっさんなんて、別に見たくない。

 現場が近づくにつれ、視界を占める影が濃くなる。規制テープの周辺は取材陣がちらほら見えたので、いくらかの距離をとって止まった。

 仕方なく、意識を向ける。影のフォルムは瓢箪状で、メディア越しに知る皀吾郎の体型と一致していた。丸焦げなので顔は分からないが、たぶん、あれだろう。嫌気がさす。

「よし」クラミはそわそわ背伸びなどしてから、勢い込んでサワギリに言う。「ちょっと、本腰入れてみてよ」

「そう言われてもなー……」

 サワギリは深いため息をついた。渋々、目を凝らし、集中する。

 未練か恨みか知らないが、何かしらあって留まっている死の影などそこらじゅうにある。サワギリは別段それに悩まされてもなかったが、もちろん進んで視たいはずがない、普段はそうした影をつとめて気にしないようにしていた。そうすると影は印象が薄まり、在ることを意識せずにいられる。こんなふうに集中し、意識を凝らして視ようとしたことなど、今までに一度だってない。

 だからサワギリは——自分が実は思った以上に視える﹅﹅﹅というのを、今、知った。

「え」

 つい漏れ出た声を、クラミが聞き咎める。爛々と覗き込まれることに苛立ちながらサワギリは、ひどく混乱してもいた。自分の目に明らかに映る〝これ〟は、なんだ? 妥当な解釈としては、目の前の焼け焦げた死体が死んだ瞬間の光景だ。そうとしか考えられない。

 でも、そんなことある?

「急に……」

 サワギリはなんとか声を発した。掠れたことに気づき、唾を飲む。

「火が出た。ハゲのおっさんから」

「たるんだお腹の?」

「そう」

「前触れもなく?」

「急」

 たった今見たものを、どうにか整理しようとする。

「おっさんが秘書に説教垂れてて、急に。ほんと、その最中で。突然」

「ふぅん。どこから?」クラミが顎に手を置く。

「えーっとお、」サワギリは懸命に思い起こす。「たぶん、背中?」

「背中から延焼したの? それとも別のとこに移った?」

「や、背中。でももう一瞬で火だるまになって——」

 何かに、似てるような気がする。あの燃え方を、どこかで見た。

 クラミによればアズキヤは『自然発火』と言ったらしい。けれどもそれならあんな速度で燃え上がることはあり得ない。しかし例えばシンプルにガソリンを仕込んでいたとして、それでもああは燃えないだろうとサワギリは思った。燃料をぶっかけて人を燃やしたことは何度かある。それとは、炎の質が違う。

 たった今見えた死の場面では、ぽっと背に火が見えた瞬間それは一気に政治家を覆い、たとえどんなに水をかけても決して燃え尽きそうになかった。普通の火よりぬらぬらと、しつこく残り続ける火。空気まで熔解するように熱で景色を歪めながら、いつまでも、いつまでも、酸素を焼き尽くすまで消えない——

「——あ」

 映像が重なる。記憶のどこに、それがあったかも思い出せない。それでも、あれだ。

「ナパーム弾だ」

 サワギリの呟きに、クラミはそっと眉根を寄せた。サワギリは彼をほっといて、自分の記憶をもう少し、探った。

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