第六話
◇
安アパートの卓袱台に胡座をかき、よれよれのノートを広げた。デスクライトのスイッチを入れHBの鉛筆を握る。シャープペンシルはやたらと芯が折れるので使っていない——筆圧の問題でなく、ただ単によく落とすのだ。内部で細い芯が折れて何回も詰まった。最近のモノは折れたところで詰まりはしないし、元より折れない、とコウイチは鼻で笑ったが、今更買い替える理由もない。
まずは既知のネタに目を通す。事件の舞台になった屋敷は古くからある家の本家で、いくつか分家もあったようだ。よって家の一人娘の結婚相手は入婿同然だったが、なぜかその夫婦と息子の苗字は父の姓であり、学校でもそう名乗っていた。父は息子の将来を世間並みに案じていたのだろうが、しかし、いかにも血統に拘っていそうな宗教一家が、よくもまあそれを許したものだ。そう思い、近所を訪ね歩くと、理由はすぐに窺えた。
集団自殺を行った宗教一家は『ヨモチ』、あるいは『ヤモツ』と呼ばれ、そのどちらが正しいものかはっきり分かる人はいない。つまりこの一家は、もとより自分達について多くの部分を秘匿していたようだ。国の戸籍にすら痕跡を残すまいということなのか、家は娘に継がせ、必ず改姓していた。辿れる限り辿ってみたが『ヨモチ/ヤモツ』の名には行き着けなかった。しかし苗字はどうであれ実態は『ヨモチ/ヤモツ』の家であり、書類上の表記は飾り、言い方を変えれば、婿にとった男の苗字を間借りしていたと言えるかもしれない。
ヨモチ/ヤモツの音も含めて、一家についての情報は、ほとんどが一部の他家に保存されていた本からきている。本と言っても、素人目には何が書かれているやら分からないような古文書だ。だからその家の人間が「どうやらこう書いてあるらしい」と語るのを鵜呑みにするしかない。いくつかは写真を撮らせてもらい、専門家に解読してもらうことも考慮に入れている。それにしても古文書は鎌倉から江戸、明治まであり、ポッと出の新興宗教の暴走とは訳が違うようだ。
それらの書物は大抵、寺か神社の
生き残りの少年については、苦労して同級生を辿った。共通しているのは、非常に綺麗な子だったということ、黒髪にかなり浅い茶の瞳であったということ(茶というよりはヘーゼルで、ちょっと緑がかっていたと言う人もいた)。頭が悪いわけではないが勉強よりは体育が好きで、いつも若干偉そうだったが憎めないところがある、要するに「ガキ大将」的人格だったようだ。当然といえば当然だが、現在も彼とやり取りをしているという人はなく、誰も行方を知らないらしい。話に聞く性格と、ああも悲惨な事件の当事者というイメージとがうまく結びつかない。その分、かえって残酷さを覚える。
息を吐き、しばらく字面を見つめる。尻ポケットから取材用の手帳を抜き出し、今日のページを開いた。
じっと、自らの文字を睨む。線に繋がる点は、あるか。
◆
近頃の依頼主——タカミユウから直接電話がかかってきたのは先日だった。非通知番号の表示を見て、サワギリはいささかも逡巡することなく通話に出た。お互いに身元も素性も知らないままのやり取りが
〈どうも〉開口一番、電話の主は言った。〈こちら、《家事代行》さんの番号でお間違いない?〉
「そっすよ」サワギリは応じる。「ご用事は?」
〈ヒノさんの紹介でね。ここ最近いくつか仕事を頼んでたんだ。世話になったね〉
「ああ……」 特定できたわけではないが、何となく察する。「どうしたんすか。クレーム?」
〈いやいや! ちょっとね、また依頼なんだけど。今回は直接やりとりしたい〉
「はあ」
気の抜けた答えを返しつつ、サワギリは思いを巡らした。どうする?——カンが正しければ、おそらく相手はカルト組織、あるいはマルチ運営の幹部だ。正直、深入りしたくない。教祖の送迎をしてしまったのも今となっては悪手だった。仲介を通して適当に付き合うぐらいが、丁度いいんじゃないか?
しかし相手は迷う隙を与えない。
〈どうしても君たちに頼みたいんだよ。シュンの希望なんだ。どうもシュンは君たちのことをいたく気に入っているようで、直接なんて迷惑じゃないかとやんわり言ってみたものの聞く耳持たない。頼めないか? 金の問題ならイロはつけるよ。こっちのワガママだしね〉
「依頼はいいんすけど。何で直接なんです?」
〈それが——〉
ようやく、ユウは口籠った。とはいえそれもうそ寒い。〝口籠るために口籠った〟感じだ。
〈なんというのかな。他の人には聞かれたくない話なんだ。だから、一対一……二対二か。対面で頼みたいんだと〉
「なるほど」サワギリは一旦答え、そして言う。「すんません、相方いるんで。相談さしてもらっていいすか」
了承を得、通話を保留する。実のところそれは嘘だった。いま事務所にはサワギリ一人で、クラミは依頼を受けに出ている。
滑稽なことに、二人の営む《家事代行》は本当の家事代行もしていた。たまに民家に投げ込むチラシはほとんどがゴミ箱行きだろうが、中には興味本位でか連絡してくる者もいる。チラシに記載の番号はクラミの電話のものだから、違法ではない仕事なら、クラミのほうに連絡がくる。
クラミは料理が得意だし、掃除洗濯も苦ではない。まめまめしく片付けて部屋をきれいにすることに一種の快感を覚えるらしい。サワギリにそのケは全くないが、クラミでは対応できない機械周りの依頼などには出張っていくこともある。配線だのWi-Fiの設定だのそのあたりのことだ。人に頼むほどのことか、と得意なサワギリには不思議だが、できない人はまるでできないようだ。
家具の組み立てを頼まれたりもする。近頃は安価でデザインのよい家具製品が多く出回っているが、これらは大抵組み立ての手間を省くことでコストカットしている。注文したはいいものの、女手一つで組み立て切るのはなかなか難しい代物もある。引っ越したてで知り合いもおらず、実家が遠くにあるとなると、見知らぬ人間を頼る人もいるのだ。
それにしても、知らない男を二人も家にあげて、嫌じゃないのかと思うが。とはいえ同席したくはないのか、大抵は家主不在で、事前に鍵を置いて行ってもらい二人で作業することが多い。何か物を盗られるだとか想像しないのだろうか。盗聴器やカメラを仕込まれるだとか。今日という日は何もしなくても、後で留守を狙うかもしれないし、あるいは密かに盗撮映像を変態に売ることもできる。依頼を受けながら、つくづく不思議に思う。
警戒心がない人は、本当にないのだな、と思う。あるいは警戒云々というより、自分の身は常に安全と信じ切っているのかもしれない。
サワギリら二人が表の仕事で不法を働くことはない。リスクに対してメリットが薄いし、稼ぎの本筋は裏のほうだ。だが、情報は控えている。「警戒心がない人」のリストは、欲しがる人がたくさんいる。
嫌な世の中だわ。
他人事のようにサワギリは思い、保留を解除した。「あのー……」
〈はいはい。どうかな、決まった?〉
「受けられるかは分かりませんが、聞くだけ聞きます。どこ行きゃいいです?」
〈そうねえ——〉
ユウは呟き、少し考えて言った。
〈タダで出向かせるのも悪いし、ついでに、軽い仕事をどう? ちょうど人手が必要なんだ。割がいいようにしておくからさ〉
サクラのバイトはよくあるが、さほどの手間も危険もない、だいぶ気楽な仕事だ。素人相手はよほど暇ならやるが、多くはワケアリの案件である。街頭ヘイトスピーチの嵩増し、極右政治家の演説、陰謀論のデモ。どちらもネットを覗いてみるとずいぶん支持者がいるように思うが、実際に足を運ぶほど熱心なやつは少ないのだろう。家から一歩も出ないまま指先で同調しておけば、とりあえず平穏は得られる。転嫁した危機に対処して、自分は排除する側に回れる。
しかし今回の会場は、一段、熱気が違った。その熱気ゆえにサワギリは後悔する——〝マジ〟のヤツばっかじゃねえか。これだけのマジモンがいるなら、たった二人サクラを混ぜ込む意味などほとんどないんじゃないか?——念のため周囲を観察しても、自分達と同じようなスタンスの者は見られない。ユウの口ぶりを思うにこれは駄賃をやる口実だろう。それならこっちも観光気分でいればいい。
「すごい人出」
会場に並べられたパイプ椅子の上で身動ぎをして、クラミが囁く。「定期集会だっけ?」
「らしいよ」小声で返す。「まあ、新規勧誘も兼ねてるって聞いたけど。マルチとか通販とかから招いたクチも混じってんじゃない? 講演会とか銘打って付き合いで参加させて、本筋に誘導してんだろ」
「ふぅん」
クラミは興味がないようで気の抜けた相槌を打った。サワギリとて彼らのやり口にさほど詳しいわけではない。だいたいこんなところだろう、と想像をしているだけだ。改めて見回すと、青い布でできた腕章を付けている者がちらほらいる。そうした中には男女問わず若者、それから主婦層が多く見られた。密かに腕章の文字を読み取り、スマートフォンで検索する。
「うおっ……」
「え、なに?」
「ああ……いやあ……」
サワギリは一瞬戸惑って、それから黙って画面を向けた。クラミが覗き込む。
「『NPO法人ブルーレイン』?」
「独居老人の見守り支援、炊き出しボランティア、ペット殺処分回避プロジェクト、募金活動……なるほどねー」
「きれいなサイトだね。お金かかってそう」
「間口は限りなく美しいわけね」サワギリはページをスクロールした。「だから学生が目立つのか。大学に窓口あるんだな」
「そういうの、前から聞くよね。昔テロ起こした……」
「有名だよな」浅く頷く。「俺らが生まれた頃?」
「じゃない? なんかすごかったんだってね、通勤中の電車でさ。俺、親いないから、詳しく聞いたことないけど」
サワギリも似たようなものだ。だが自分の生まれ年の事件として、やはり印象には残っている。折しもあの年は、阪神淡路大震災もあった。なかなか凄まじい年だ。
「何する気なのかね、シュンさん」
知らず、サワギリはつぶやいていた。
「こんだけの組織作ってさ。なんか目的が見えねえっつーか」
「どうだろ……態度からすると、テロとかは起こしそうにないけど」
「単なる金稼ぎなのかねえ? それもしっくりこねえなあ。金欲しそうじゃなかったし」
「そうだね。別の目的?」クラミは首をひねる。「政治に関わりたいのかな。ほら、皀と繋がってたっぽいし」
なるほど。それは、あるかもしれない。
過激な勧誘はしない、強い締め付けも洗脳もない。信仰や忠誠は自然発生するに任せて、ただ浅く緩やかにコミュニティを広げていく手法——単に献金やねずみ講で利ざやを得るのとは違う目的がある、そう考えたほうがしっくり来る。例えば——投票は?
現代の日本では、きちんと投票に行く人のほうが少ない。行く人にしても都度政策を吟味し、実行能力や振る舞いを精査して投票先を決めているのはごく少数だろう。大抵は地元のしがらみか、長年の慣習、あるいは身近な人間や属するコミュニティに影響されて、なんとなく投票先を決めている。
実際、宗教的な動員は今も野放しで規制の気配もないが、何も危ない橋を渡らずとも、容易に発覚しないやり方で特定候補者への投票を促すことは可能なはずだ。出来上がったコミュニティのそこここで、政党や候補者の宣伝・ネガキャンをすればいい——予め何かが書き込まれた紙の中身を換える必要はない。ただ、白紙に書き込むだけ。
だとすれば、影響圏を広げまくるメリットはある。なにせ投票権は、資産や社会的影響力に乏しい者でも行使できる。シュンが献金にこだわらないのは、投票権を思惑通りに行使してくれれば元が取れるからか。極度な先鋭化を避けるのも影響範囲を広くするため。全財産を貢がせるには強い破壊が必要だが、投票してもらう程度なら、そこまで手間をかけることもない。
政治に食い込んだ果てに彼らが何を望んでいるのかは謎だ。あくまでドライな票田ビジネスなのか、それとも「信念」があってのことか。どちらにせよ、目先の金は主目的ではないだろう。
やがて会場が暗くなった。あ、と声を上げたクラミが、楽しげに言う。
「いよいよかな?」
「いや、」サワギリは呆れ顔を向ける。「なにワクついてんの?」
「そんな日本語ないんだけど。でもワクワクしない?」
「分かんならいいじゃん」
「なんか始まるぞー、って感じで。シュンさん、ついに出てくるかな?」
クラミの素朴な感想のおかげで、こうした演出に効果があることは分かった。言葉を返す気になれず壇上を向く。不意に、スポットライトが現れ、脇からしずしずと見知ったシルエットが出てきた。相対したときと打って変わって豪華な和装だが、間違いなくシュンだ。柄のことは遠目でわからないが、白地に青の刺繍がある。
顔を伏せて静かに現れた彼は、壇上でそのまま一礼し、長く間を取った。そして、その顔をゆっくり上げる。
ああ、なるほどな。
サワギリは感心すると同時、うっすら危機感を覚えた。微かにではあれ、胸を衝かれた——艶やかな黒髪、真っ青な瞳。笑みをほのかに湛えた面差しは上品で、自然と目が惹きつけられる。これだけで、心理的な不信感はずいぶん軽減されてしまう。普段サワギリは人の美醜に心が動くことはないから、単なる造形の話でもあるまい。
「わー、きれい」
クラミは実にフラットだ。変に構えてもいなければ、特別思い入れる気配もない。
「高そうな服だね。いくらするんだろ?」
「知らねえけど、和服って高えっしょ」
「ねー。シュンさんは似合うからいいけど、似合わない人に着せるんじゃあ、ちょっと勿体無いね」
サワギリは、まさしく絶句した。なんてナチュラルなルッキズム。
クラミのほうも返事は別に必要としていないようだ。一瞬の沈黙のあと、シュンの声が会場に響いた。
「皆さん、こんにちは。お待たせしちゃって。せっかく集まってくださったんだもの、あんまり恥ずかしいカッコできないでしょ? それで念入りに着付けたら、時間過ぎてたの。本末転倒ね」
ささやかな笑い声がさざめく。シュンは一転してニコリと笑った。神秘的な印象が薄れ、人形めいた愛らしさが見える。
「はい。あのね、私が誰なのか、知らない方も多いと思うの。私なんて別になんでもない人なんだけど、ちょっとね、できることを、コツコツしています。哲学者っていうの? 古い言い方だとね。今そんなこと言うと、なんだか学者然とするけれど、昔は何か考える人はみんな哲学者だったんですよ。思想家、とか言うと胡散臭いわね? あらもう充分胡散臭い? 否定できないわ、よく言われるの」
柔らかな声は不思議と通る。心地のよい声質で、いつの間にか耳を傾けている。サワギリはこのあとの会合に向けて心構えをした——喋らせちゃダメなんだ、基本——このひとに喋られたら、たぶん、思わず聴いてしまう。
「それでね、皆様。悪いんだけど、今しばらくお付き合いしてね。私が普段どんなことを考えているか、何を求めているか。キュウドウとか言うと分かりやすいわね。キュウの字は、『求める』でもあり『究める』でもある。あらでも、究めるってちょっと大袈裟ね。求めるくらいがいいわ。それじゃ、話させてもらいます——」
まず名乗らなくちゃならないわね。私は、ミアオシュン、といいます。字はね、あのね、三つの青と書く。シュンの字は人偏のほうよ、俊。三青俊。浮かびます? 不思議な苗字でしょ、私も思うわ。でもきれいだと思わない? 青色って好きなの。どうしてかお話ししましょう。
皆さま、想像してくださる? 例えばまーっくらな夜。雲ひとつない夜ね。その夜に、ポッカリ月が浮かんでいる。白銀の光を放って、なんだか眩しく見えるくらい。その、月の周辺て、どんな色をしている?……あるいは、深海。真っ暗な海。ドボンと深く落ちちゃって、水面を見上げる。乞うように。すると月の光が海を照らしている。その光の近く、頭上の色は?
〈青〉、ではないかしら?
そう。暗闇の向こうから、光を仰ぐと、青く見える。青は〈闇の中から光を見るいろ〉——ね。ロマンチックでしょう。ゲーテが言ったことなんだそうね。私、この話、とっても好き。
私が普段していることは、この青色に基づいています。世界ってつらいことだらけ、悲しいことも苦しいことも溢れかえって、ほんと、しんどいわよね。今こうしてる間にも、誰にも省みられない心地で、絶望に苛まれている人がたくさんたくさんいらっしゃる。あんまりでしょう。だから、救いをね。一条でもね、縋れる救い。見上げたときに救いになるいろ。それを、この世に生み出そうと。
苦痛ってどうして生まれるんでしょう。
神様って、いらっしゃると思う? 私ね、よくわかりません。だってお会いしたこともないし——あら意外? あたし宗教家じゃないのよ。いえ、そうとも言えますけれど、何も神様だ天使だ悪魔だ、天罰だ功徳だってえ話がしたいんじゃないのよ。ひとりのひととして、どう生きるべきかということなの。どうしたら「よりよく」なる? もっと多くの人が、心を救われる?
私、いろいろ考えました。それでね、思いました。この世には、善も悪も、闇も光も、どうしても、必要なのだって。光で塗りつぶすような真似は、人を救うようで、実はぜんぜん、よくないんだって。
だって悪人も傷ついているのよ。罪悪感、劣等感、害意。恨み、つらみ、妬み、嫉み。抱えるの、とっても苦しいわよね。分かるわ。その感情の醜さを、突きつけられるたび軋むでしょう。痛いわね。つらいわ。いいのよ。あなたがそうで在ることは、決して罪悪じゃないのです。世界がね、「そう在れかし」とあなたに望んだの。すべてはこの世の天秤なの。善も悪も必要で、互いにこの世を吊り合わせて、倒れちゃわないようにしてるのよ。そうなんだ、ってあるとき、ピンと来た。だって必要のないものが生まれてくるはずないでしょう。この世にあるものはすべて必要よ。どんな悪も、どんな善も。どんな中途半端も。みんな。
善人も、悪人も、どちらにもなりきれないみんなも、そう在ることが望まれている。そのままでいいの。
みんな、自己嫌悪に陥ったこと、少なからずあるでしょう。どうして優しくなれないんだろう。どうして素直になれないんだろう。人の成功を喜べず、人の評価を憎んだり。気がつかないまま酷いことをして、後でどんなに酷かったか悟る。醜いことばかり考えて、自分が嫌いになってしまう——それか、こんなふうに思う? どうして自分が追いやられて、とやかく言われなくちゃならない? 聞こえのいい「正しさ」ばっかり蔓延って、それに納得できない自分はまるで罪人だ、……って。ね? 思ったこと、あるでしょう?
いいのよ。苦しまなくていい。あなたがそうで在ることに、罪などないんですから。いい? どうぞお聴きになって。
世の中にある正義とか悪とか、倫理とか道徳とかいうのは、一種のルールなの。約束。決まりごと。人っていう生き物が群れて一箇所で過ごすために、どうしても必要だったもの。だからね、どんなルールにも、
私の思う「よりよい」生き方は、私たちが己の役割にもっと忠実になることです。例えばそれが世の中で悪とされることでも、いいのよ、やって。あなたの本性なら。善である人も、どんどんやって。きっとイイコチャンとか綺麗事とか、夢見がちとかお花畑とか、理想を追求するだけで散々なこと言ってきて、馬鹿にするやつ、たくさんいるでしょう。でもそれを目指すのがあなたの本性。なら、おやりなさい。私は支える。絶対に正しいと言うわ。あなたの本性は、あなたが世界にそう在れと認められたこと。存分に発揮し、邁進なさい。そうすれば世界はよりよくなります。影が深まり、光は強まる。互いが引き立て合い、よりよくなる。
忘れないでね。善も、悪も、在って然るべき。だから在る。お互いに馬鹿にしないでちょうだい。リスペクトするのよ。ね。分かるでしょ。
善と悪がぶつかる境には、苦しみが生まれます。例えば正直で優しい人が、狡猾な詐欺師に騙される。これはどちらも正しいの。正直で優しいってことはなんら間違っていないわね。自分の知恵を使って、効率よく利益を得ることも間違いだとは言えません。それぞれが己の良く為し得ることをした結果、苦痛が生まれるのね。悲しいこと。でも思い出して。私たちはそもそも、私たちが全てを把握し得るところには生きていないのよ。手の届かないところで多くが起こる。これを根っこから変えるなんて人間には不可能です。善も悪も、どうしようもなく生まれ、そしてどうしようもなくぶつかる。お互いを責めてもキリがない。お互い、同じ運命の、奴隷ですの。認め合わなくちゃいけない。
悪に交われば、善にも悪は生ずる。悪を恨み、憎むという悪。逆も然り。善を害した自分を、恥じ入り、悔やむ善。それは本性と違うの。だからどちらも苦しい。ぶつかって、そうなってしまうのは仕方がないけれど、でも楽になろうとしていい。お互いによ。お互い、逃げていい。
そして、ね。つらいことばっかりじゃない。先に話したでしょう——美しい青色、救いの青は、闇と光の間にしか生まれないのよ。闇の中から、光を見る。闇と光が交わるとき、お互いがお互いにその色を見ることができます。混ざり込んできた闇のなか、届いてきた光のなかに。真っ暗闇には青はない。真っ白な光の中にもない。二つが出会ってやっとなの。そして、出会わないことなど、ない。
どうしようもなく、起きて、生じてしまうなら、せめて美しい青を見ましょう。このときにしか生まれない、人の救いのいろを。受け入れられない、痛み、苦しみ、不条理への怒り、抱えていられない絶望は、きっとその青が溶かしてくれる。あなたにしか、見えないから。あなたが、それを探せるよう。
「——ああ、やだ。すぅごい長話。ご退屈でした? ごめんあそばせ。それじゃあ、話を終わります」
シュンが頭を下げる。会場から、一拍置いて、大きな拍手が湧いた。
サワギリは最初のひとことに、ずっと引っかかっていた。おかげでシュンが話したことを三割も聞いていなかった。途中で飽きてしまったのか爪を見ているクラミを振り向き、拍手の中で口を開く。
「あのさあ……」
「なに?」
「最初にあの人、名乗ったじゃん?」
「? うん」
「『三つの青』っつったよな」
「うん」
「ミアオって、それの訓読みだろ? でもさ——これ、音読みにしたら」
クラミは数秒固まり、やがて、サワギリを指差した。
「ああ!」
「だよな。ハアー、今さら気づいた」
サワギリは息をつく。事の始まり、焼肉屋の店主。彼女が持っていた、あの化粧水。
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