第二話
三本線が入ったシャツの袖口を覗かせて、金髪の男は腕時計を見た。暗い液晶に碧眼が映る。と、間もなく、画面がパッと灯り、彼は通知を確かめて満足げに頷いた。運転席に座った童顔の男が、金髪を向いて、声を掛ける。
「終わりすか?」
「みたいだね」
金髪は手首を返し、童顔を見遣った。
「すっかり遅くなったなあ。ご飯、どうする?」
童顔は視線を宙に上げ、しばし考えて告げる。
「ガッツリ行きたいっす」
「君ってガッツリ行きたくない日、年に一回でもある?」
「ありますよ。今パッと思いだせないけど」
「そお? いつ聞いてもガテン系を要求されている気がするな」言いながら彼は顎を撫ぜる。大きな手だ。「そうねえ、こっからだと……」
「ユウさんて味わかんないのに、謎に飯屋に詳しいすね」
「仕事柄ね。っていうか失礼じゃない?」
「あ、サーセン。気にしないかと思って」
「別に気にしちゃいないけど。君だって人にとやかく言える舌じゃないだろ」
ユウはからかい混じりの目を向けた。
「アズキヤくん?」
アズキヤは否定も肯定もせず、車のエンジンを入れる。
「どこ出ます?」
「
「へえ。
「牛客も十分おいしいし君にはぴったりだけどね。別のとこ」
「うす」ギアを変え、発進する。「渋谷すか?」
「三茶。まあ、そっち走って」
アズキヤは頷き、ハンドルを回す。思いのほかスムーズな運転で、外車は表通りへ出た。ガラ空きの夜道を走る。
「今日の仕事って、ウチすか?」
「うん? 担当?」
窓に頬杖をついていたユウは、視線を隣へ寄越した。
「そうだよ。でも、組の人じゃないみたい」
「ふぅん……」考える間のあと、口を開く。「《家事代行》とか言ってませんでした?」
「あ、よくわかったね。そう言ってたよ、ヒノさん」
「それ、なんつーか、外部スタッフみたいな人で。片方俺の先輩なんすよ」
「へえ」ユウはいささか興味深げな声を出した。「どんなひと?」
「どんな……」アズキヤは困った顔をする。「うーん」
「筆舌に尽くし難いのか」
「まあ、そうすね」
「冗談だったのに。なんか気になるなあ、会ってみたい」
「まあ、ユウさんならうまくやるかもしんないすけど」
車は信号で停まった。前を見たまま、呟く。
「ヤバいすよ」
ユウは思わず目を丸くする。大概ヤバいこの男がそうのたまうとは。どんな人材だ?
「ヒノさんもよく飼ってるね、そんなひと」
「なんつーか隠し球なんす。扱いにくいけどヤバいから、他に行かれても困りますし」
「それはそうかもね。制御できない?」
「まず無理っすね。予想もつかない」
「予想も?」
「はい」
青信号になり、アズキヤはアクセルを踏んだ。
「何考えてるか、マジで、分かりません」
なるほどな、——ユウは頷く。そういう人間はたまにいる。この界隈にいると、普通に生きているよりはよっぽど多く目にしているだろう。だがアズキヤがわざわざ自分にこんな話をする意味はなんだ。警告か、それとも誘導? アズキヤも大概何も考えていないところがあるが、かと言って間抜けなわけでもないのが、彼の厄介なところだ。
そこまで考えて、ふと思う。おそらく彼の〝先輩〟も、そういうタイプなんだろう。
「とりあえず頭に刻んでおくよ」ユウは言って、車窓へ目を移した。「なんてひと?」
「名前すか?」
「そ。後学のために」
「関わんねえほうがいいと思いますけど」そっけなく言って、答える。「クラミさん」
「ん?」
「クラミさんです。クラミコーイチ。相方はサワギリショーゴ」
「そう」
ユウは耳にした音を反芻した。アズキヤがちらりと彼を見る。
「会ったことあります?」
「僕はない。ないし、話聞く限り、できればお会いしたくない。でもねえ……」
頬杖を突き直し、息を漏らす。視界の先は今はトラックだ。窓越しの白い車体に彼の顔が映る。垂れ気味の碧眼。少し厚い唇。
「僕の思惑は関係ないし。シュンが、どう思うかだから」
ユウの口から出た名に、アズキヤは黙った。ややあって頷く。
「そうすね」
それからしばらく、車内は無言だった。四車線の広い道路の脇に、ラーメン店、自転車店、花屋、個人経営の学習塾、クリーニング店、住居、たまに車のディーラーやガソリンスタンドが見える。途中、何度かバス停を過ぎ越し、車は目的地へ向かう。カラオケ店の大きな店舗が目立つ交差点へきたときに、アズキヤは言った。
「どこ駐めます?」
返事はなかった。ユウは窓の外を見たままだ。
「ちょっと」舌打ちしそうに促す。「ユウさん」
ユウはまだ外を見ていた。アズキヤはそこでようやく気づく。これ——茫然としてる?
「しまった」
「は?」
「僕としたことが。すっかり忘れてた。ああ……」
ユウは大きな手を広げ、自らのこめかみを押さえた。そのまま深く沈み込む。と言っても彼のべらぼうな長身では限界があり、いくら広い外車でもそうそう脚は伸ばせない。
「どうしたんすか?」
アズキヤはひとまず、左方に見える大きなビルへ向かうことにしてウインカーを出した。ボスに言われて彼——タカミユウの用心棒に派遣されてから、アズキヤは彼の仕事ぶりを嫌というほど見てきた。こんなことは珍しい。
「このへんにきて思い出したよ。頼まれてたの忘れてた」
「なにを?」
「知ってる? このへんって、バカみたいにベーカリーがあるんだ」
話が読めない。「ベーカリーですか?」
「そう。パン屋さん」
ユウは眉根を寄せた。身を起こし、シートに座り直す。
「ここと松陰神社、あと自由が丘のあたりっていうのは、パン屋激戦区なんだ。犬も歩けばパン屋に当たるという具合だ。でもどこも売りが違うから、お客さんがそれぞれの店をハシゴして買うんで、みんな潰れない。街の人も舌が肥えちゃってもうスーパーのパンは買えない。それに遠隔地のパン好きは当然食べ比べにやってくる。すると需要がまだまだあるからまたもパン屋が増える。無限パン屋だ。そのうちにここら一帯はすべてパン屋になるに違いない」
「それはいいんすけど。何を忘れたんすか」
「その無限パン屋の一つに、おいしいバゲットサンドを売ってるお店があってね……」
「はあ」
「そこのサンド、シュンが好きなんだ。朝食に買ってきてほしいって、ずいぶん前に言われてたのに……」
そうして、深々とため息をつく。アズキヤは彼がふざけているのか、案外本当に少し落ち込んでいるのか、判断できなかった。おそらく前者が正解であろうが、彼はシュン——自らの雇い主であるミアオシュンのこととなると、どうもバランスをおかしくする。崩すというのも少し違って、自分で比重を変えている感じだ。
「今から買えないんすか?」
「開いてるわけないだろ? 明日の朝は僕、動けないしなあ」
「ってことは俺も無理っすね」
「どうするか。楽しみにしてるかも」
させときゃいいだろと思ったが、アズキヤは言った。「頼んでみます?」
「んえ。おつかい?」
「そう。誰かに」
「んー……」
膝に手を置き、指でトントンと叩く。アズキヤはこの数ヶ月で彼の仕草に少し慣れた。彼の言動は全てがサイン、無意味な癖は殆どない。つまりはこれも発信内容を伴う信号のはずなのだ。考え中、ということか。あるいはもう少しマシな提案をしろということかもしれない。
「シュンのいる場所がバレちゃ困るな。かと言って、シュンと一緒にいるやつを〝下界〟に降ろすのもまずい。こんな用事のために」
アズキヤはしばし考え、また提案する。
「付き添いは?」
「付き添い?」
「ミアオさんが買いに行くのを、ガードしてもらうってのはどうです」
ユウはこの上なく渋面になった。「ええ?」
「大丈夫っすよ。《家事代行》の二人に、そのまま頼んじゃえばいい」
「ちょっと待ってよ。ヤバいやつなんだろ? そんなのシュンに近づけるの?」
「パン買いに行くだけなんだから。それにたぶん、ミアオさん、クラミさんの好きなタイプだし」
「へえ……」何を思ったかユウは言った。「面食いなの?」
「面食いです」
「なるほど」
なるほどて。
「ヤバいだけあってバリ強いんで。ヒグマが襲ってきても平気です」
ユウは片眉を上げた。そうして肩をすくめかけ、途中でやれやれと首を振る。どういう仕草かと思っていると、口が開く。
「ま、ヒグマに限らずね。心配はさほどしていない……普通の服を着ていると、とても、『そう』とは思えないし」
アズキヤは〝そう〟とは何を指すか考え、候補がありすぎるのでやめた。
「ですね」
「あ、ごめん。さっきの質問だけど」
急に話を切り替えてユウは前方を指差した。
「そこのふざけた名前のビルの地下に駐車場がある。多分空いてると思う」
「ふざけた名前? なんて言うんすか」
「キャロットタワー」
「バカみてえ」
「だろう。そこ、回ってくれ」
聞こえてたのかよ、のひと言は呑み込み、アズキヤはカーナビを見つめた。溢れる記号に思わず眉が寄る。
ビルの周りは
◆
澄み切った朝。
早朝の、
「——おや」
そこで青年は止まった。首をわずかに傾け、少し考える仕草をする。それからふと思いついたように右手を左の袖へ差し込むと、中をもぞもぞと動かして探るようにし、何か抜き取った。スマートフォンだ。
青年が画面を見た途端、パッと灯る。同時に、短く振動した。
「ああ、待って」
青年は独り言をいうとFace IDでロックを解除し、淀みない速さでフリック入力した。また振動がし、それに対しても素早く返す。メッセージをいくつかやりとりすると、分かりましたと呟いて青年はスマートフォンをしまった(と言っても複雑な作りの服のどこに収納したか判然としない。本人も出し方をよく忘れる)。
「そうですか。そう——」
弾んだ声でつぶやきを漏らす。青年はさっさと立ち上がると、薄水色の帯を解きはじめた。衣擦れがする。
「街へ出るのは久しぶり」
笑みがこぼれる。それに、あのパン。
ここのとこずっと食べたかった。実になめらかなバター。ハムの塩気と食感。そこにチーズが濃厚さを加え、バゲットは香ばしく、ぱりりと焼けながら、しっとりふくらんでいる。あれこれと忙しくしている親友にこんなおつかいを頼んで、悪いことをしたと思っていたのだ。彼には他に頼んでいることがたくさんあるから、遅くなるのもやむなしと思ったが、そりゃあ早く食べられるなら早いほうが嬉しい——青年は口笛で讃美歌21-261番を吹く。神を信じなくなって久しいが、やはり心の浮き立つときにこの旋律はちょうどいい。
「お出かけですか?」
髪を短く刈った女性が声を掛けた。障子の外に正座している。青年の着ているものとよく似た、しかし簡素な造りの、青竹色の衣を着ていた。普段は邪魔をせぬようにしているのだろうが、鼻歌が聞こえてきたので部屋の様子を窺ったらしい。枯山水をのぞむ廊下からちらりと顔を覗かせた彼女に、青年は微笑む。
「ええ、気分がよくて。でも時季外れかな」
「そんなこともありません。南半球ではクリスマスは夏にあるんでしょう」
「ああ、そうですね」
「ならばこちらが夏に聖夜をうたっても構わない」
「そう? どうでしょう。でも、そう考えましょう」
青年は彼女を向いた。微笑みのまま、ただ見つめる。
「僕に都合がいい」
青い瞳が陽の光を呑む——思わず覗き込み、のめり込み、底まで落ちそうになる、深さ。
女性は彼の瞳に、吸い寄せられるように身を乗り出し、そして体勢を崩した。左に倒れ込み、肘まで畳につけ、ああ、と零す。そのまま畳に伏すと、自分の額を
「すみません。すみません」
「謝らなくていい」青年は穏やかに諭した。「面をお上げなさい」
「賤しい、賤しい——」
女性は口の中でぶつぶつと自らを詰りながら、ゆっくり、体を動かしつづける。皮膚の畳に擦れる音が、次第に大きくなる。ざり。ざり。
青年は一言いったきり彼女の様を見下ろしていた。これ以上やれば血が滲むだろう。だが、止まる気配はない。今の彼女に自分の声は実は聞こえていないこと、彼女は本当は自分の言葉を聞く気がそもそもないということを、青年はこの稼業を始めてしばらくしてから知った。彼女に限った話ではない。彼女のような人々みなが同じだった。自分の内側しか見えていない。外のことなど、見る気もない。
マスを掻くのと変わらないな。
前後に面を擦る彼女を残し、青年は廊下へと出た。限られた者しか立ち入らぬ離れの、さらに許された者しか通されない奥の部屋。廊下のある地点から先は、青年の許可なしに踏み越えられない聖域だ。そこには印は存在せず、かろうじて「庭の桐の木から先」と示されているのみであるが、見えない結界でも生まれるのか、立ち入ろうとした信徒はいない。青年はそこを悠々と過ぎて、二、三、角を曲がる。そうして内廊下へ入り大広間に続く障子を開ける。
真っ先に、巨大なスクリーンが見えた。
なんのことはない。そこには現代人としての青年の生活が広がり、ただ実情を知る者ならば中に入れるというだけだ。信仰は関係ない。献金の額も、外での権力も。不思議なことに〝下界〟で権力を誇示する者ほど、こちらの世界において見下げられることに悦ぶようで、そういった調整はいつも、かの親友がうまくやる。
障子を開けた正面にある80インチのスクリーンは青年が映画を観るためのもので、気が向いた時にはゲーム機も繋ぐ。両脇にサイドテーブルくらいの大きさのあるウーファーが置かれ、スクリーン下のテレビ台にはサウンドバーがあった。左方には、二つ並んだデスクと三つ並んだモニター。右方には間仕切りが立てられ、その向こうにタンスやクローゼットが並べられてある。衣装部屋を別に用意したいのが本音だが、屋敷の造り上致し方ない。部屋の一角を区切っているのが不恰好なだけで、広さは申し分ない。
青年はドア付きのパーテーションへ向かい、開いて中へ入る。解いていた帯を衣紋かけへ放り、紐もほどいて衣を脱ぐ。さて、今日は何を着よう。初対面の人に会うのだし、あまり目立つ格好も違う。
夏だし、マリンスタイルはどうかな。
◆
焼肉の後、組の事務所に立ち寄ると、所内は構成員たちが思い思いの凶器を持って空気を張り詰めさせていた。サワギリが戸を開けた瞬間、すわ敵襲か、と皆立ち上がりかけたが、サワギリの顔を見てがっかりしたように腰を下ろす。中には舌打ちする者もいた。サワギリは気まずさとちょっとの苛立ちを抑え、チースと挨拶し、奥へ向かう。
一応ドアをコンコンと叩き、返事を聞いてから開いた。
「ども」
「ショウゴか」
デスクの向こうで立派な椅子に腰掛けていた男が振り向く。
「どうかしたかね」
見たところ、さほどの歳でない。いくらか色の浅い茶髪は地毛だろう。男は目顔でソファを指し、サワギリはそこへ腰を下ろす。落ち着くと、顎でドアを示した。「何事?」
「ちょっとな。大したことじゃない」
釈然としないが深く問わない。「あの、ヒノさんに聞きたいことあって」
「珍しいな。今日の仕事の件か」
「ええ、まあ。聞かせたくないことだったら別にいんすけど。オッケーだったら」
「お前らしい言い方だ」ヒノは肩をすくめた。「クラミは?」
やっぱりそっちが気になるか。サワギリは、ヒノをちらりと窺う。
ヒノの仕事がなんなのか、正直なところよく分からない。ほとんどヤクザだが、伝統的なヤクザとは一線を画すのも確かだ。こういうのをインテリヤクザと言ったりするのかもしれないが、それも言葉が足りない気がする。世に言うインテリヤクザはせいぜい、教養や専門知識を使い、昔ながらのシノギをそこそこ理知的にこなすという程度だろうが、彼のしていることは、もっと根が深い。
その彼はクラミを気にかけている。詳しいことは知らないが、何か因縁があるようだった。クラミに聞けば教えてくれそうだが、わざわざ聞くほど関心があるというわけでもない。こうした折に、そもそもどういう仲なんだろうと疑問に思う程度だ——ひと呼吸おいて答える。
「帰りました。寝てると思います。なんか興味ないっぽいんで」
「つまりお前は強い興味があるってことか?」
「いや、強いってほどでも。でもなんとなーく……」首筋を掻く。「気になって」
「言ってみろ。お前の言う通り、聞かせられることなら教えてやる」
サワギリは頷き、言葉を練る間をとって、口を開いた。
「今日の仕事って、あれ、マルチ絡みすかね? たまたま知り合いの知り合いが引っかかってるっぽくて、気づいちゃったんすけど」
「そうだな」
男は視線を落とした。手元の書類をめくる。
「知る必要があるか?」
あ、ダメっぽい。
「いや、別に」
「それだけか?」
「それだけっす。なんか、アレなときに来ちゃって」
「構わない。無駄足踏ませて悪いな」
「いえ」元々家への帰りに立ち寄っただけだ。「お邪魔しました」
サワギリが腰を上げかけたとき、ちょうど、ヒノのスマートフォンが震えた。ヒノはサワギリを制して座らせ、画面を見る。しばし内容を確かめるとサワギリを向いた。
「事情が変わった」
「はい?」
「今から少し説明する。明日の仕事の件だ」
「はあ」
気の抜けた応答に、ヒノはため息を噛み殺すような顔をしていた。思わず気の毒がっていると、ジロリと睨んでくる。慌てて背を正した。
「よく聞け」生徒に言い聞かせるように、続ける。
「半日、護衛をやってほしい。大した用じゃないんだが、少々、複雑な立場の人で——」
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