崩落天国
初川遊離
第一話
蝉の鳴く夜だ。
店の灯りにたかる蛾を眺め、銀髪の男はため息を呑んだ。二十代の半ばと見える若い顔に苛立ちが滲む。じっとり肌を濡らすのは汗か外気の湿りけか、ただでさえ熱気にうんざりなのにテーブルには七輪がある。向かいの男は気にならないのか、暑がるそぶりも見せないが、別の理由で眉を寄せていた。さっきからずっと愚痴を言っている。もう四、五分は聞き流している。
銀髪は仕方なく、灯りから彼へ目を移した。短い黒髪、中高な顔。洒落っ気のない黒のタンクトップ。
「だからさあ、」
筋張った、だが滑らかな手に箸を持ち、彼は手羽先をつまんだ。他の料理にかすらないよう日焼けした腕を持ち上げて、取り皿へ移すと器用に箸を入れる。骨に沿い、肉がつるりと剥ける。
彼は銀髪にそれを示した。箸を宙にさげ、つんつんと突く。
「付いてる方向に沿って剥がせばきれいに取れるんだよ。何度も言ってるだろ」
「はいはい」
銀髪は頬杖を突いた。拍子に前髪が垂れたのを、鬱陶しげに吹く。
彼もまた無地の、こちらは白いタンクトップを着て、日焼けの気配もない肌は服と遜色なく見える。彼の着ているタンクトップは少し作りが凝っていて、首から下げた銀のチェーンがよく似合った。胸元で、小さな十字架が揺れる。
「分かったって。次はそうします」
「その次ってのはいつ来るわけ? お前と話してると暖簾に腕押し」
「暖簾に腕ついてもしょうがねえじゃん」
「だからそういう慣用句なんだよ。話が通じねえんだよなあ」
「それ、この世でお前にだけは言われたくねえんだけど?」
銀髪が片眉を上げると、小言をいっていた黒髪も鏡写しの表情をした。夜の路上に大きくはみ出た大衆食堂の外席は、ほとんどの客ができあがっていて大声が飛び交っている。その喧騒の合間を縫って、黒髪は言う。
「どういう意味? 俺が話通じないってこと?」
「だからそう言ってんだよ」銀髪は彼の口ぶりをまねた。「俺マジ、お前についてけねえし」
「少なくともお前よりまともなつもりなんだけど」
「それマジで言ってんだったら正気疑う」答えながらジョッキを傾け、中身が空であることに気づく。
「おばちゃーん、ビール!」
「あいよぉ」
奥から細身の女性が現れ、帳面を開いた。銀髪をちらと見て、すぐに向かいの彼へ目を移す。
「クラミくんも?」
「あ、お願いします」
黒髪は柔和に笑んだ。まだ少し残っているが、もう頼んでもいい頃だ。
すると銀髪が眉をしかめて、店主を仰いだ。店主が思わず息を呑むのに知らぬ顔で続ける。
「あのさあ、前から思ってたんだけど」
「なに?」
「なんで俺のことはショーゴで、クラミは『クラミくん』なわけ? 俺も『サワギリくん』じゃねえ?」
「なに。今さらそう呼ばれたい?」
「呼ばれたかねえけど」
「じゃあケチつけんな。つまみは?」
「適当に頼むわ」
「あいよ。アンタね、」
去り際、店主はわざとのように顔を近づけた。
「人に言う前に、自分を改めな」
踵を返して店へ戻る背を、サワギリは仏頂面で見つめる。向かいのクラミが苦笑していると、その背後の席で、女性が振り返った。
「ね、ね、ね、」
手にしたジョッキが傾き、中のビールがこぼれかける。ふらつく手元を二人とも、つい凝視した。
「あのさ、お兄さんたちさ。何者?」
「何者ってなに?」サワギリが笑う。
「え、だってさー」
白いブラウスに茶髪の女性は一旦テーブルへ目を戻し、友人たちに同意を求めた。ごちゃごちゃと料理の置かれた狭いテーブルには三脚、どれにも女性が座っている。栗色のボブヘア、黒のポニーテール。ワンピースとオールインワン。個々の違いはあるにせよ、酒量については似たり寄ったりらしい。
うんうんと頷く面々に満足したか、女性はまた振り返る。
「二人とも、目立つでしょ。どこでも」ジョッキに口をつけ、あ、とつぶやく。「あーこれ、セクハラ? あたし、セクハラしてる?」
クラミが一瞬固まると、サワギリが半顔で笑った。
「手遅れだから。俺らが美人ってコトっしょ」
「そう! え、モデルさん?」
「あ、そんな、」
クラミは遅れてはにかみ、照れ臭そうに手を振る。「違いますよ」
「えーじゃあ、役者! 俳優? とにかくさ、」しゃっくりをひとつ挟み、続ける。
「一般人じゃないっしょ。分かるんだわ。オーラで」
女性の言葉を聞いてから、二人はそっと目を見交わした。同じような温度をしている——生温く、表面の冷えた、——放っておかれた風呂のよう。
クラミが口を開いた。
「うーん、まあ。一般人じゃないかも」
「ほらあ! え、え、駆け出し? でも、すぐ売れるよね?」また同意を求める。「ぜったい!」
「先は長いって。俺ら下っ端なんで」とサワギリ。
「あー、舞台とか? やっぱ食えない?」
「全っ然」
「そぉんなにきれいなのにねえ。いや、二人ともすごいけど。特に!」ジョッキの女性がクラミ越しにサワギリを指した。「マジでゾッとしちゃった。酔いが醒めるかと思った」
「安心してよ」しらけた顔で彼は言う。「カケラも醒めてねーから」
「それなー!」
突然音量の跳ね上がった声に、二人は思わずぎょっとした。周りの席の数人もちらりと視線を投げて寄越す。そうしてひそひそ囁かれる会話のタネがなんなのか、経験から容易に察せる。クラミも、ひと口ビールを飲んだ。
「二人、よく来るの?」
「ええ、たまに。安いから」答えたのはクラミだ。「安いんだけど、美味いし」
「ねー! ここ、初めて来たけど、いいわあ。二人に会えるならまた来るかなあ」
クラミは一瞬ヒヤリとした。顔を戻し向かいを窺うと、サワギリは女性を見据えている。
「なにそれ」覚えのある語調。「俺ら、見世物じゃねんだけど」
きゅっと、身が縮こまる。おずおず、サンチュへ手を伸ばす。
サンチュを皿に広げると、クラミは七輪の肉を取った。程よく焼けた三枚肉にコチュジャンを塗り、キムチを載せて、韓国海苔とともに巻く。ひと口で頬張れば、葉が瑞々しい音を立てた。我知らず微笑む。炭の香り。じゅっと滲み出る豚の旨み。相棒の、たまに見る、本気でムカついているときの顔もあんまり気にならない——いや、やっぱり超気になる——流し込むようにビールを呷る。
「下積み時代、かあ」
女性はほとんど目を閉じていた。なにやら深く頷いている。ややあってまぶたを上げると、二人を眺め、感慨深そうに言った。
「えらいねえ。まじめにがんばって」
サワギリがナムルを飲み込んで、また、笑う。
「ヤクザな商売ですよ」
数時間前。
Y県××山の中腹で二人は言い争っていた。というよりクラミがくどくどぼやき、サワギリが拗ねた顔で聞いていた。二人の足元には、それぞれ四隅を留められたブルーシートが広がっている。ドラム缶が二つ載ったものと、部位のままの四肢を載せたもの、肉の削がれた骨が積まれたもの、肉や臓器をよけてあるもの。クラミは骨の載ったシートから大腿骨を手に取ると、不満げに振った。もう片方の手に、鉈がある。
「どうしてお前の処理する骨はこんな汚くなっちゃうわけ? もっときれいに削げると思うけど」
「出来なんかどうでもよくね? どうせ全部溶かすんじゃん」
「そうだけど……でも反応起こすだろ。せっかく溶液分けてるのに」
「くっせー煙が出るってだけじゃん。気にしなくてよくね?」
「でも嗅ぎたくはないじゃん」
「内臓出しといて今さらすぎね。悪臭なら今も嗅いでるんですけど」
「いや、血肉には慣れてるけど、」クラミは歯切れ悪く言い返した。
「あの化学臭ヤなんだよ。なんか、鼻に残るっていうか。そのあとのご飯が不味くなる」
しつこく口を尖らせる彼に、ああ、だからか、とサワギリは思う。クラミは食にうるさくて、とにかく美味しくものを食べることを人生の第一義としている。そんな彼からよく馬鹿舌と罵られるサワギリは、彼のこだわりがいまいち分からない。そもそもそんなこと言っている場合なのかと思う。死体を溶かすってときに。
「じゃーもっかいこそぐから。貸して」
「いいよ、俺がやる。お前にもっかいやらせたところであんま変わんない気がするし」
サワギリはますます不貞腐れた。クラミはその顔を見ておらず、鉈を捨て、肉切り包丁を拾う。境目を丁寧に見ると、繊細に刃を入れてあっけなく肉を削いでいく。サワギリは不思議でならなかった。どうして彼がやると、つるりと剥けるのだろう?
「ああもう、二度手間」クラミはつぶやく。「他のは? お前がやった骨」
サワギリは手にした骨をずいと突き出した。右の前腕だ。
サワギリにだって言いたいことはある。そもそもこんな面倒な作業は、クラミが殺したりしなければ起きないはずのものだった。話の流れで殺すことになるかもなとは思っていたが、それを避ける方法はまだまだあったはずなのだ。だってのに被害者の何が癇に障ったか、話をしている最中にクラミが鉈を振ってしまった。一刀目で首の半ばまで行き、二刀目でほぼ切れ、三刀目で落ちた。止める隙などもちろんなかった。最初の一撃に啞然としていたらいつの間にか全て終わっていた。血をだらだらと噴き出す胴体を見つめてサワギリはうんざりした——この暑いのに、解体作業? 車から道具を出すのもダルい。
だが彼は文句を言わなかった。クラミは本当に話が通じない。特に何かが気に入らないときのクラミの意固地さはどうかしていて、絶対にやめたほうがいいことをやると言っては譲らない。もちろん逆のパターンもある。どういう具合に説得しても彼が納得することはないと、サワギリは骨身に染みている。
だが今回は自分でも思うところがあるのだろう。クラミはきれいに肉をこそいだ骨を投げると、言い訳がましくいった。
「確かにちょっと早かったけど、どうせ殺すことになったよ、この人」
「そーいうことはできる努力を全部してから言ってくんない?」
「でもあの調子でホントに黙ってくれたと思う? 信用できないじゃん」
ひとつ頷く。まあ、それはそうだ。その場しのぎの繰り返しでやっていけると思っていそうだった。先の展望が読めないやつを放っておくのは、リスクでしかない。
議員秘書だという男の素性を、二人はよく知らなかった。ただ口止めを頼まれただけで、仕事に関係のあること以外に興味も湧かない。男は議員の何かしらの秘密を週刊誌に売り込もうとして察知をされたようだった。拉致して運び、連れてきたのだが、縛られたまま土に座らされても男は事態を甘く見ていた。おそらく、二人が若いので、ちょっと乱暴なくらいのチンピラに過ぎないとでも思ったのだろう。
苛ついたのは否定しない。だがいくらなんでも判断が早い。彼のいう通り遅かれ早かれこうなっていたと思っていても、サワギリはつい、不満を抱く。
クラミは処理が終わって嬉しいのか、鼻歌をしながらポリタンクを開けていた。刺激臭がうっすらと漂い、これはいいのかよ、とサワギリは思う。
「あ、ねえ、」クラミが振り返った。「薄黄色のが骨用だよね?」
「そ」サワギリは議員秘書のバッグを足でつつく。「なあ、これどうする」
「燃やすだろ? あ、スマホとか売る?」
「あーね。13だし。メルカリで捌くわ」
「任せた。俺そういうの分かんないからなあ」
ドラム缶それぞれに違う中身を注ぎ入れ、ふとつぶやく。
「今日、なに食べる?」
サワギリは足を止め、腕を組んだ。宙を見上げる。
「思いつかねーわ」
「そう? じゃ、決めていい?」
「好きにしてよ。なんでもいー」答えてかがみ込み、バッグを漁る。「マルジェラの財布なんだけど。ウケる」
「まるじぇら?」新種のポケモンを言うような調子で復唱すると、クラミも宙を見つめた。「なにがいいかな……」
「
「え?」
「や、コイツの名前」サワギリは財布から取り出した免許証を見ていた。それを放ると、今度は名刺入れを開く。「こっちはディーゼルかよ。どういうセンス?」
クラミは車のある方向をちらと見たが、どうやら違うと悟った。「クニキダさんっていうの?」
「らしーよ。国木田
「ああ。朗読の朗ね」頷いて、クラミは首を傾げた。「だれの秘書?」
「んっと……読めねえわ。むずい」
「むずい字の議員? 何人もいるな」
「なにこれ? 一文字。白……」
「
「は? これサイカチって読むの? ウザ」
「俺見てねえから分かんねえよ。ウザいってなに?」
「いやこれでサイカチとか読むのウザくね」
「よく分かんないけど」
サワギリは興味を失くしたようで名刺をつかむと、まとめて放り捨てた。名刺入れだけはポケットにしまい、立ち上がる。
「もらっとこ」
「燃やすもんと取っとくの、分けた?」
「分けた分けた。もう溶かす?」
「うん。あのさ」クラミは空のポリタンクの蓋を閉めて言った。
「焼肉は?」
サワギリは顔をしかめた。ややあって返す。「正気?」
「え。食べたくない?」
「なくはないけど」
「なんか肉見てたら思い出して。新大久保のさ」
「えっこれ見ての提案?」
「え? うん。お肉……豚もいいな。豚かな」
サワギリは何か言おうと口をぱくぱくさせたが、結局やめた。ポケットから箱を取り出して、マッチを擦ると火をつける。土に積まれた白い名刺がゆっくりと燃えはじめる。その明かりを見てサワギリは思う。
確かにな。食いてえかも、焼肉。
新大久保の駅からだいぶ表通りを歩いていくと、個人経営の飲食店がちらほらと路地に見えてくる。そうした路地の一角に、二人が行きつけの食堂があった。食堂とはいうものの酒を出すのが前提で、夜は飲兵衛しか来ない。一般の客の多くがすでに出来上がっている午後九時ごろ、二人は食堂を訪れて、七輪を頼んだ。豚肉や牛肉やホルモンやを好き好き頼んで焼く。付け合わせのキムチやナムルは無論店主のお手製で、他の店とは少し風味が違う。
そうして閉店後の路上、客のいなくなった外席を囲み、店主と二人は話し込んでいた。三人の前にはチャミスルの瓶が並んでいて何本か飲み干してあったが、呂律の怪しくなった者は一人もいない。店主がチキンを頬張り、飲み込んでから口を開いた。
「絡まれてたねえ、ショーゴ」
「マジ、あの手のやつどうにかしてよ。女だったら男にセクハラしていいとでも?」しかめ面で吐き捨てる。「逆に考えろっての」
「俺は悪い気しなかったけどなあ」クラミはキムチへ箸を伸ばした。「っていうか、お前こそ人のこと言えるの? それこそ女性に失礼じゃん、いつも」
「俺、女嫌いだから」サワギリは悪びれもしない。
「まあ気持ちはわかるけどね」店主がいくらか同情的に言った。「どこに行っても顔のこと囃し立てられちゃ、うんざりもするでしょ」
クラミはあいまいに頷いた。正直、顔を褒められてなぜ嫌なのか、感覚が分からない。だがサワギリが昔からその手の言及を不快がることも、サワギリにとって触れられたくないことの一つなのも知っている。クラミ自身は初対面を除き、彼の顔のことを言ったことはなかった。言うまでもない、とも思う。火を見るよりも明らかだ。
「だいいち」
サワギリは空けた酒瓶を持ったまま、クラミを指差した。
「お前も人のこと言える?」
「え。俺?」
「クラミくんはマトモじゃん」
「マジ目が節穴。ありえねんだけど」
「でもあたし、クラミくんにはヤなこと言われたことないよお」
店主は目を丸くすると、一転してサワギリをにらんだ。
「あんたからはいろいろあるけど。この前もチークがあってないだの……」
「だってやべえくらい浮いてたじゃん。自分でも分かるだろ、あんなん」
「鏡見て思ったけど、使ってみたかったの! そういうことは言わないもんでしょ」
「えーだって……似合ってないし。使うにしても入れ方がさあ」
唐突な声が遮る。
「俺、何か悪いことしてる?」
クラミだった。店主が微笑む横で、サワギリは口をあんぐりと開ける。流れた話題をまだ考えていたのか? それ以前に——どの口で?
「そんなことないよお。クラミくんはいい子」
「うーん。いい子ってほどじゃないけど、不用意に傷つけることは言わないように、って思ってるんだけど」
「でもナチュラルに面食いじゃん」やっとのことでサワギリは言った。「お前の顔のジャッジ、超容赦ないし」
「え、いや、別に……」しどろもどろになる。「ひどいこと言ったりしないだろ? きれいなものが好きなだけで……」
「言わなきゃいいって問題かよ? 美人に露骨に甘いくせに」
「ええー、そうなの?」
店主が身を引いた。「ちょっとショック」
「少しはそうかもしれないけど」傷ついたような顔をして、クラミは店主を見つめた。
「でも、俺、好きな人にも甘いよ」
サワギリが目を細め、気が知れないという顔をする。それが見えない店主は、ころりと笑った。
「そうよねえ。こんなおばちゃんにも優しいし」
サワギリは口をひん曲げたまま黙っていた——別にクラミが店主のことを好きだというのは否定しない。だけどそれって美人とは認めてないってことじゃない? 化粧が変だと気付かないのも、相手の顔に興味がないのだ。つまりは、どんな格好をしても、結果は同じと思っている——コイツのが、よっぽど失礼じゃない?
「そいえば」
と、そこでサワギリは言おうとしていたことを思い出した。
「おばちゃん、今日なんかツヤツヤじゃね」
店主はやはり、じとりと彼を見る。「え、なに。点数稼ぎ?」
「は? 違うし。今さらやんねえわ。言って損した」
「ごめんごめん。あらそう、分かる?」
「まあ、なんとなく。いつもと違くね?」
「案外気づくのねえ」店主は頬に手を当てた。「ここだけの話ね……」
そうして前置きをすると、誰もいない路地の左右をわざわざ見てから、身を乗り出す。必要はないと分かっていても同じく身を乗り出したクラミは、まったく動こうとしないサワギリを軽く睨んだ。
「いい化粧品使ってるのよ。でも、なんていうか、やばいやつで」
「やばい?」
「そう。ほら、なんていうの。いわゆる……」また周囲を窺い、小声で言う。「マルチ」
クラミは思わず身を起こした。店主が慌てて手を振る。
「違うのよ」
「違うってなにが。マルチはマルチじゃん」
「おっきい声で言わないでよ!」
相変わらず声をひそめたままで店主はサワギリを向いた。
「あたしが買ってんじゃないのよ。知り合いがちょっとね……」
「そっか」少しだけほっとした声でクラミは言う。「店主さんは会員じゃないよね?」
「ちがう、ちがう。どうしてもって言うから、その子が買っちゃったやつちょっとだけ買い取ってあげたのよ。困ったわねえと思ったんだけど、使ってみたら存外よくてね。リピっちゃおうかな」
「モノはいいもんな、大抵」サワギリは呆れ顔だ。「なんてとこ?」
「なんて言ったっけね。ちょっと待って」
店主は席を立って店内へ消えた。二人が顔を見合わせていると、住居スペースからドタドタと降りてきて、また席に戻る。手には化粧水の瓶があった。恐らくはライン使いで、他の商品も出ているだろう。
「『サンセイ化粧品』?」
「それはメーカーっしょ」サワギリが店主の手から瓶を抜き取る。「売ってんのは?」
「なんだったっけねえ。『ブルーライン』だか『ブルーレイン』だか、なんかそんなところ。マルチはマルチだけど、そんなやばくなくて、会員商法なだけだってその子は言ってた」
クラミはサワギリの手の中の瓶をまじまじ見つめた。流行りのシンプルなデザイン。すっきりとしたフォントのロゴ。白い蓋には三本の青い線が入っている。知らなければ、これがドレッサーにあってもマルチの商品とは思うまい。
「どうなのかなあ。まともなマルチなんて、俺は聞いたことないんだけど」
「やべーところは見えねえようにしてるだけっしょ」サワギリは言った。「一般層はほどほどに騙して、マジにエグいのは別でやってんだよ」
「なに、詳しいね。経験でもある?」
「ねーって。こんなめんどくせえことやる気もねえ」瓶を投げ返す。「あんま深入りすんなよ」
「あらあ、心配? 優しいね」
「言って損した。茶化すなっつーの」
「ごめんって。はい、わかりました。君子危うきに近寄らず」
買ってる時点でそれを言う資格はねえぞとサワギリは思い、だが賢明にも口にしなかった。クラミは先ほどから何か考えているらしく、首を右に、左に傾け、唸っている。こうした仕草を、知り合った当初サワギリは無言のアピールと思っていたが、どうやら素でやっているのだと後から悟って、引いた。わざとのほうがマシだ。意図がないということは、対処のしようもないということだ。仕方なく尋ねる。
「なに。どしたの?」
「うーん……」
クラミはゆっくり揺れる頭を、右で止めた。
「それ。どっかで見たような気がして」
クラミの目の先にはボトルがある。すっきりとしたパッケージ。何の変哲もない、白い蓋。
「あ」
声を上げたのはサワギリだった。
「え?」
「それ。見た。あれだ」
サワギリは尻ポケットから名刺入れを取り出した。ディーゼルの、黒のジッパータイプ。中身を捨てたメインポケットではなく、サブのポケットをいくつか覗く。かろうじて一枚、入っていたのを引き出す。
「これ」
クラミに突きつけると、店主が覗き込み、サワギリはそのままテーブルに置いた。そこには角ばった書体で、代議士の名前が印字されている。やっぱりサイカチだ、とつぶやいたクラミに、サワギリは、人差し指で示した。
その指の先を二人が見つめる。あ、と小さく、声が漏れる。
「な?」
名刺の左上。一見、ただのデザインだが、クラミは思わず瓶の蓋を見やった。まったく同じ細さと間隔で、引かれている。
青い三本の線。
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