「結局、話したかったことって山下さんのことだったの?」と私は言った。

 杏里はそれにうんと肯く。

「でもまあ、みーちゃんが全部知ってたなら私が心配するようなことじゃなかったのかも。ごめんね、わざわざ来てもらって」

「いや、うん。別にそれはいいんだけど……」

 私は顔の前で手を合わせる杏里の作り笑いを見て、きっと本音では私のことを軽蔑されてるんだろうなと察した。数分前まで山下小春のことを悪者のように扱っていた彼女が最終的には山下小春の側から援護射撃を何発か打つようになっていたのだ。おそらく、このあと私のいない高校仲間とのグループラインで好き勝手に悪口を言われてしまうに違いない。その誤解を解こうにも、すでに遅いような気がした。

 つい先日別れたばかりだと彼女に教えてあげれば事態は好転するだろうか──とも考えてみたが、それだとまるで私が山下小春に哲平のことを奪われたみたいになってしまうような気がして、結局はそれを口にすることはなかった。

「実はこの後バイトがあるんだよね」と杏里は唐突に言った。

「何時から?」

 私がそう聞くと彼女は手元でスマホの電源を入れて画面に目を落とした。

「えっとね……まあ、もうそろそろだね」

 たぶん嘘だ、と私は思った。杏里は用が済んだからさっさとこの場から退散しようとしているに違いない。それは目の前でグラスに半分以上残っていたオレンジジュースを一気に飲み干した彼女の様子を見ていればすぐにわかった。

 ほどなくして杏里はおもむろにバッグから財布を取り出し、千円札を抜いてテーブルの上に置いた。「ごめんだけどさ、これ私の分。一緒に払っておいてくれる?」

「あ、うん。もちろん大丈夫だよ」

「ありがとっ。じゃあよろしくね」と杏里は言った。

 彼女はまるで一刻を争っているかのように急いで席を立ち、「じゃあねっ」とこちらに手を振った。本当に帰っちゃうんだ、と思いながらも私は彼女に手を振り返し、そして思い出したように私は彼女に「杏里は行動力もあるし要領も良いからベンチャー企業向いてると思うよ。頑張ってねっ」と言った。

 何の脈絡もないその言葉に彼女は「……ああ、うん。ありがと」と苦笑いを浮かべて困惑していたが、それ以上何も言わない私の顔をしばらく見つめると、やがて逃げるように店を出て行った。

 私としてはちょっとでも彼女の誤解が解ければそれでよかったのだが、少し後になって思い返すとそれはあまりに見え透いたお世辞に聞こえてしまっただろうかと不安になり、わざわざ言わなくてもよかったかなと反省した。

 私は残っていたアイスウーロンをストローを使わずに飲み干し、ジーンズのポケットに入れていたワイヤレスイヤホンをスマホとブルートゥースで繋いだ。それらを両耳に入れて今度は世界との繋がりを遮断する。シリコン製のイヤーピースは耳の穴を極限まで密閉して音漏れを防いでくれるが、それだけでは心許ない私はあらかじめスマホの音量を下げることにした。

 写真フォルダを開き、哲平と別れる直前に彼のスマホからこっそり抜き取っていた動画を再生する。私はそれを彼がシャワーを浴びている最中に偶然見つけてしまった。きっと彼は今もそれを知らないはずだった。

 どうして今その動画を見たくなってしまったのかは自分でもよくわからない。でも私はスマホをテーブルの下に隠すようにしてそれをじっと見ていた。

 おそらく私は杏里と喋っているうちに自分のことを疑うようになっていたのかもしれない。彼のことを受け入れなかった私がおかしかったのかな──と。

 私は動画を見ている途中で不意に足首の辺りが濡れているような気がした。顔を上げてみると何やらテーブルのすぐ横で杏里が推していたイケメンの男性店員があたふたしている。どうやらどこかの席へ運んでいたドリンクを落としてしまったらしい。床には割れたグラスの破片が散らばり、アイスコーヒーかアイスウーロンか見分けのつかない黒っぽい液体が私が座っていたテーブルの下まで広がっていた。

「大丈夫ですか?」

 私は片方のイヤホンを外し、グラスの破片を拾っているイケメンの男性店員に声をかけた。

「大変申し訳ございませんでしたっ。お怪我はありませんでしょうか?」と彼はその場で土下座するかのような勢いで謝ってきた。

「このくらい全然平気ですよ」

 私は出来るだけ相手が安心できるような笑顔を心がけてそう答えた。実際怪我はしていなかったし、濡れてしまったのもジーンズの裾が若干湿った程度で別に気にならなかった。

 そういえば私はいつからパンツしか穿かなくなったんだっけな、とふと思う。振り返ってみると最後にスカートを穿いたのは高校の卒業式の日だった。哲平がパンツスタイルよりもスカート派だったことはもちろん知っていたが、私はあれ以来全くスカートを穿かなくなった。勝手がいいとかなんとか確か彼は言ってたっけ。とにかく私はスカートが大嫌いだった。

「──お客様っ」

 その声で私は我に返った。「はいっ。なんでしょう?」

「クリーニング代をお支払いしますので、もしよろしければご連絡先をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 イケメンの男性店員は申し訳なさそうな顔でそう言った。

 もしやこれは恋が始まる展開なのではないのだろうか──と私は内心期待していた。が、その直後にその期待は打ち砕かれた。彼の視線が私の手元に移り、ほんの一瞬だったがその顔に明らかな拒否反応を映していたのだ。それを見て、しまったと思ってももう遅かった。彼はさっきの発言をなかったことにするかのように「では、お会計の際にクリーニング代をお渡ししますので」と言い直し、わざとらしくこちらから視線を外すようにしてまた足元のグラスの破片を拾い始めていた。

 どうやらドラマチックな恋は始まらずして終わってしまったらしい。私は少しがっかりしたが、同時に彼の反応を見て安堵している自分もいた。やっぱり私はおかしくない。

 停止し忘れていた動画の音はさっきから私の片耳にだけ流れている。野獣のような荒々しい息遣いと欲情に狂ったような淫らな声は互いを蝕むようにして呼応していた。その音がようやく耳障りに思えてきた私は動画を一時停止する。進行具合でいえばドラマでいう8話か9話くらいのところだろう。画面に映る彼らもきっと今が一番悶々としているに違いなかった。

 私は画面に映る女の方に向かってこの阿婆擦れ女が──と口に出そうとして寸前でやめた。もうこれ以上誰かにおかしな人間だと誤解されたくはない。普通の人間は一人きりの時にカフェでいきなり暴言なんか吐いたりしないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

堕天(No.1) ユザ @yuza____desu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ