三橋駅の改札を抜けて線路沿いを5分ほど北に向かって歩いた先に、赤青白のラインが延々とぐるぐる回っているサインポールが目印の理容室があった。黄ばんだガラス扉から店内を覗いてみると、腰高の鏡の前に置かれた白いバーバーチェアが四脚とその奥には洗髪台が二つ見えた。手前側の待合スペースは本棚で仕切られ、そこには数種類のヘアカタログの他に『あしたのジョー』や『ゴルゴ13』が並べられていた。

「もうやってないのかな?」と哲平くんは人の姿がない店内を見て言った。

「営業中の看板は出てるんだけどね」

 小春がそう言って入口のすぐ横に立てかけられていた看板を指差すと、隣で哲平くんが「あ、ほんとだ」と独り言のように呟いた。

 やがて二人は理容室を離れてそのまま道なりを歩き、瓦屋根の家が立ち並ぶ閑静な住宅街に入った。すると小春は道の途中で明らかに周りとは馴染んでいない古い建物を右手に見つけた。建物の上部には『城北商店街』と記されている。そこはまるで使わない肉の部位を真空パックで冷凍保存するかのように、その場所に流れている時間だけが切り取られてしまったかのような雰囲気があった。正面からその佇まいを眺めているだけでも昭和レトロな匂いが鼻先をかすめた。

「ここ?」と小春は聞いた。

 哲平くんは隣でうんと肯き、先を進む。

 城北商店街は古びた建物の丸い垂れ壁の先に続いていたようで、その奥はまるでこの世との交流を一切遮断しているかのように暗い影に覆われていた。左右には喫茶店やらスナックやら八百屋やらの看板が並んでいるが、店自体はどこもかしこもシャッターが下ろされ、営業している店は一軒も見当たらない。さらに店の前には見るからに不法投棄された模様の自転車が何台もそのまま放置され、天井には明かりを灯す気配のない裸電球がいくつも吊るされていた。継ぎ接ぎのトタン屋根越しに差し込んでくる柔らかい光は全長50メートルにも満たない商店街の真ん中あたりをぼんやりと照らし、辛うじて外の世界と繋がっていることを教えてくれる。時折見かける二階建て家屋の窓の奥でカーテンが閉め切られていると、昔そこにも誰かが住んでいたのだろうと思わせてくれた。

 どうやら城北商店街はとっくの昔に本来の役目を終えてしまっていたのだろう。買い物客はおろか人っ子一人見かけなかった。

「なんだかタイムスリップしてきたみたいだね」

 小春は前を歩く彼にそう声をかけた。

「実はこの中に山下に案内したい場所があるんだよ」と哲平くんはこちらを振り返って言った。「この前ここを訪れた時に見つけたんだ」

 平坦な道で躓くみたいに何気ないその一言で傷ついている自分が嫌いだ。この前っていつ? それは誰かと一緒に? 男? 女? もしかして三島楓?

 だが、結局詳しいことは何一つとして聞けなかった。ただでさえ平静を装ってそれに「ふうん」と相槌をうつだけでも精一杯だったのに、それを焼き餅だと思わせずに奥深いところまで聞き出そうなんて芸当は彼女にとってはほとんど不可能に近かった。どうしたって感情が言葉の端々に滲み出てしまうに決まっていた。

「きっと山下も気に入ってくれると思うんだよなあ」

 哲平くんはそう言って待ち遠しそうに微笑んでいた。

「そっか。楽しみだなあ」と小春は言った。

「山下はさ──」

 そういえば彼は一度たりとも小春と呼んでくれたことがなかったっけ、と彼女はまた余計なことを考えてしまった。その後に彼が何を言っていたのかはほとんど聞いていなかった。きっとその場を繋ぐためだけのとりとめのないことだ。彼女はそれっぽく「あーね」と答えた。

 それからしばらく歩いて城北商店街のおおよそ八分目まで進んだ頃、前を歩いていた哲平くんは唐突に道の真ん中で立ち止まり、右手に建ち並んでいた二階建て家屋の一つを指差した。どうやら当時そこで暮らしていた住人は一階で精肉店を営んでいたようで、下ろされたシャッターには『田中精肉店』と記されていた。

「この店がどうかしたの?」と小春は聞いた。

「まあ見てて」

 哲平くんはそう言って店に近付くと、辺りに誰もいないことを確認するかのように左右を見渡した。その後彼はおもむろに店の前でしゃがみ込み、閉め切られたシャッターの前に置かれていた植木鉢を持ち上げて底の下に挟まっていた何かに手を伸ばしていた。

「じゃーんっ」

 こちらに戻ってきた彼は得意げな顔で手に掴んでいたものを見せた。

「鍵?」

 彼はうんと肯く。「たぶん、昔この家に住んでた人は日頃から植木鉢の下に鍵を隠す癖があったんだと思う。それが偶然そのまま残ってたんだろうね」

「もしかしてこの建物が私に案内したかったっていう場所?」

「いい感じでしょ」

 哲平くんはそう言ってニカッと笑った。小春は目の前の家屋がいい感じなのかどうかはさておき、とりあえずはそれにうんと肯く。そんなことよりも哲平くんの笑顔がとにかく可愛い。

 小春は路地を通って店の裏側に回る哲平くんの後ろについていき、彼が慣れた手つきで勝手口の扉を解錠すると二人して「お邪魔します」と言って家屋の中に入る。長年湿気を閉じ込めていたその建物はずっと誰かが来るのを待ちわびていたかのようにカビ臭い匂いで二人を歓迎してくれた。

「すごいでしょ」

 哲平くんは笑いながらそう言った。

「すごいね」と小春も笑いながらそれに返す。

 精肉店ともあって勝手口すぐそばの厨房は思っていたよりも広い造りになっていた。壁は全てクリーム色のタイル張りで白の目地が埋められており、所々で表面が剥げ落ちていたモルタル仕上げの床は側溝に向かって若干の傾斜がついていた。ステンレスで統一された作業台やシンクに業務用の冷凍庫もそのまま残されている。天井に付けられた蛍光灯はスイッチを押しても反応しなかった。

「ここで唐揚げとか揚げてたのかな?」

 小春は二口仕様のガスコンロの前に立ってそう言った。しかし哲平くんはそれに対して何も答えてくれず、黙って辺りを見渡しながらテーブルの上を指でなぞっていた。彼女もそれを真似してコンロの縁を指でなぞってみる。すると、たちまち粘着質な汚れと埃が一緒になって指紋の溝に入り込んだ。彼女は慌ててそれを洗い流そうと水道の蛇口を捻ってみるが、全く水は出てこない。その代わりになにをやっているんだろうという溜息がついつい漏れてしまった。やる前からそうなることくらいわかっていたくせに──

「私って馬鹿なのかな……」

 だがきっとその声は哲平くんの耳には届いていなかったのだろう。何も言わずに厨房を抜けて二階へと向かおうとしていた彼の背中を小春は慌てて追いかけた。

 階段を上った先は住居仕様の小さなキッチンが完備されたダイニングスペースが設けられており、木製のダイニングテーブルが部屋の真ん中に置かれていた。トイレと風呂は別々で、四畳半の和室と六畳の和室が一つずつあった。

 六畳の和室の方は居間として使われていたのか卓袱台が一つとそれを囲うように座布団が三枚敷かれており、窓際の隅には畳の上に直でブラウン管テレビが置かれていた。卓袱台の上には当時のものと思われるチラシが数枚残っていた。

 閉め切られた窓の外からはほとんど光が入ってくることなく部屋全体が影に覆われていた。天井に紐で吊るされていた四角い電気傘はもちろん光らない。空調管理はきっと壁際に置かれた扇風機一台でまかなわれていたに違いなかった。部屋の湿度が異常に高いせいかどこにいても生乾きの匂いがする。

 小春は卓袱台の上のチラシを一枚手に取ってそれに目を落とした。どうやらさっき三橋駅の近くで見つけた理容室がオープンしたというお知らせらしい。そこには『6月17日オープン』とだけ記されていたため、結局それが何年前の6月17日なのかはわからなかった。

「この建物っていつの時代のものなんだろうね」と小春は言った。

「どうだろ。80年代とかになるのかな」

 哲平くんは襖を開けて押入れの中を物色していた。小春はその背中に向かって問いかける。「ところでさ、こういうところって三島さんともよく来るの?」

「楓と?」と彼は意外そうな顔でこちらを振り返った。

 小春はそれに肯きながら、やっぱり彼女のことは下の名前で呼び捨てなんだ、と余計なところで少しだけ胸が痛んだ。

「ううん。来ないよ」と哲平くんはかぶりを振った。「楓は絶対にこういうの受け入れてくれないんだよね」

「……そうなんだね」と小春は言った。

 苦笑いする彼の前で私はどんな顔をしていたのだろう。素直に喜べなかったのは、少しだけ、ほんの少しだけ、三島楓のことが羨ましく思ったからかもしれない。彼の全てを受け入れている私が選ばれなくて、受け入れることもできていない彼女が選ばれているのは一体どうして──と、そんな素直な気持ちを彼にぶつけられたならどんなに楽だっただろうか。そうできないのがわかっていて、最終的にはいつも私は過去の私を恨んでいる。そんな自分が嫌だった。

「山下ってさ、何か悩んでるの?」

 彼は小春の心を察していたかのように真っ直ぐな目でそう聞いてきた。

「どうして?」と小春は聞き返す。どうしてそんなこと聞くの?

「いや、なんか浮かない顔してたから。もしかしたら今日ほんとは無理してついて来てくれてたのかなって思って……」

 哲平くんは少しだけ悲しそうな顔をした。

 小春はそれに思い切りかぶりを振った。「それは違うよっ」

 今日の日のためにこのワンピースだって新調したし、少しでもスタイルが良く見えるようにジムにも通ったのだ。無理なんかしてるわけがない。出来ることなら毎日でも哲平くんと会いたいし、隣で顔を拝みたい。でも──

「私もわかんないの」と小春は言った。「わかんないけど、でもたぶん、今の私は昔の私が思い描いていたような私じゃないから。ふと、思っちゃうのよ。こんなはずじゃなかったのにって、あの時ああしていればよかったんじゃないかって、気付いた時にはいつも後悔してる自分がいるの。それをどうにかしたいんだけど、どうすればいいのかもよくわかんなくて……」

 哲平くんは押入れの前からこちらに向かって歩み寄り、右手を小春の頭の上に置いた。その手のひらは温かく、頼もしく、そして大きかった。

「俺さ、こういう古い建物とか廃墟とかを見てるとたまに思うんだよ。きっとこの建物も元々はこんな風になりたいと思ってなかっただろうなって。いつまでも新築みたいに綺麗な状態を保っていたかっただろうし、いつまでも誰かに必要とされたかったんだろうなって」と哲平くんは言って部屋の中を見渡し始めた。そして彼は指を差しながら続ける。「カビが繁殖した畳。あちこちで表面にひびが入った砂壁。部屋の隅に張り付いた蜘蛛の巣──とか、きっとこういうのはこの建物にとってもやっぱり不本意な姿なんだよ。でもさ、この建物はきっと幸せだった気がするんだ」

「どうして?」と小春は聞いた。

「ちゃんと誰かに必要とされる瞬間があったからだよ」と彼は言った。「昔はこの建物の中にも座布団に座って笑いながらテレビを眺めていた人たちがいて、ダイニングテーブルを囲んで楽しく食事をしていた人たちがいて、この精肉店を営んで感謝されていた人たちがいた。今はこんな姿になってしまったかもしれないけど、この建物にも確実に誰かが住んでいた過去があって、誰かの帰ってくる場所だったんだよ。人生を幸せと思えるかどうかなんてきっと拠り所になる記憶が一つあればいいんだ。この座布団が、そのダイニングテーブルが、厨房がきっとその瞬間を覚えてる。だからこの建物も胸を張って幸せと言っていい。それにさ、そもそも幸せかどうかなんてことはその時にはわからないんだ。幸せは結局過去の中にしかないんだよ」

 小春は上目遣いに哲平くんを見る。目と鼻の先にいる彼はいつもより少し背が高く見えた。すると彼はこちらの視線に応えるように軽く頭を撫で、珍しく照れたように笑っていた。

「どうかした?」と彼女は言った。

 哲平くんはそれにううんとかぶりを振る。そして彼はこう続けた。

「山下はどう思ってるのかわかんないけど、少なくとも俺は山下のことを必要としてるうちの一人なんだよね。山下と一緒にいるとなんだか落ち着くし、楽しいし、そして何より幸せな気持ちになれるんだよ。もちろん、山下にとって自分の姿は思い描いていたものとはかけ離れてるのかもしれないけど、俺はそんな山下のことを受け入れたいと思ってる。昔、山下が俺のことを受け入れてくれたみたいにね。だからさ、必要としてくれる誰かがいるうちはまだ後先のことなんて何も考えないでいいんじゃないかな。そうすれば、きっといつかはこの瞬間が幸せだったと思えるような日がくるに決まってるんだから」

 他には誰もいない廃墟の中で哲平くんの声は小春の耳にだけ届く。きっと私は単純な人間なんだろう、と彼女はつくづく思ってしまった。彼がそう言えばそう思うし、彼に必要とされていると言われればそれだけで満足してしまっている自分がいたのだから。別に悩むようなことじゃなかったのかもしれない。これからどうすればいいかなんてきっと重要じゃなかった──

 少し動いただけでも軋む床に彼がとぼけた顔で「壊れちゃうかな?」と冗談を口にするたび、カビ臭い部屋の中でほのかに漂うバニラの香水に彼が「やっぱりいい匂いだね」と褒めてくれるたび、時折重なる二人の声が朽ちた建物の中でこだまするたび、そして彼がたまに見せる優しい笑みに我を忘れて見とれてしまうたび、小春は何もかも間違っていなかったんだと自分自身のことを肯定することができた。

 たとえないとわかっていても彼の「好き」を期待してしまう自分も、嘘だとわかっていても一度でいいから「愛してる」と言って欲しいと思っている自分も、彼が必要としてくれているのならばとその全てを受け入れることができた。

 冷静になってみればどう考えても私はイタくてバカな女だ、と小春は思う。廃墟にしか連れて行ってくれない彼にこんなにも依存している女なんてきっとそういない。でもそれでいい。明日のことなんて、明後日のことなんて、一ヶ月後のことなんて、一年後のことなんて、どうでもよくなるくらいに彼のことが好きなのだから。

「そろそろいく?」と小春は聞いた。

「うん、そうだね」と彼は答えた。

 物事はいつも終わりに向かって進んでいる。この建物がそうであったように、彼と二人きりでいられるこの時間も、この関係性も、きっといつかは終わってしまうんだろう。でもいつか、この瞬間を幸せだったと思える未来がきてくれればいいなと小春は祈っていた。

 そしてやがて、彼女の頬には熱いものが流れていた。

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