④
「どうするの?」と杏里は言った。
「別にどうするって言われてもね……」
私はストローを咥えてアイスコーヒーを吸い上げた。エグみのない苦味がまず口の中で広がったのちに少量加えたスティックシュガーのほのかな甘みが舌の上に残る。こんな風に最終的に甘い部分が少しでも残ってくれるような人生が送れたならどんなに幸せだろうかと私は想像した。大抵の場合、人生は後味が悪くなるようにできている。ハッピーエンドで終わるのはドラマや漫画の世界だけだといつか誰かが言っていた。
「心配じゃないの? あのルシファー山下だよ?」
杏里は眉をひそめてそう言った。
「ルシファー山下って」
高校三年生のある時から誰かが付けたそのあだ名を聞いた途端、ぽんっと栓が抜かれたみたいに頭の中に過去の記憶がどくどくと流れ出した。それは確か世界史か何かの授業中、先生がキリスト教の話をしていた流れで堕天使ルシファーについて触れると、それを聞いた女子の一人が「それってまるで山下みたいじゃんっ。これからは皆で『ルシファー山下』って呼んであげようよ」と言い出したのだ。教室内にいた男子生徒は皆ぽかんと口を開けたまま「何言ってんだアイツ」みたいな目でその言い出しっぺの彼女のことを見ていたが、女子生徒のほとんどは「確かに」と男子に隠れてほくそ笑んでいた。クラスの男子は山下小春が陰でいじめられていたことを知らなかったのだ。状況を何ひとつ把握していない男子の一人が「なんだそのプロレスラーみたいな名前」とツッコんだおかげでその場の雰囲気はどことなく柔らかいまま終わったが、女子の間ではその日のうちから『ルシファー山下』というあだ名が浸透していた。
山下小春が陰でいじめられるようになったきっかけは私と全くの無関係ではなかった。私と付き合っていた
そんな噂は瞬く間にクラスの女子の間でも広まり、いつからか彼女には『人の恋人を平気な顔で強奪しようとするような汚らわしい奴』という風なレッテルが貼られるようになった。
さらに、それより以前から山下小春が頻繁に哲平に対して色目を使っていたという目撃情報が女子の間で出回ってその輪のうちの誰かが「ただのビッチじゃん」と言い出すようになると、それからはその話に尾ひれ背びれがついていつの間にか山下小春はヤリマンだの売春行為をしているだの、好き勝手に噂されるようになっていた。それを知った時、ようやく私は彼女が元々女子の間で嫌われていたのかもしれないということに気付いた。おそらくいじめるきっかけはなんでもよかったのだ。
山下小春は天使のように可愛らしいそのルックスと女子高生にしては発達した豊満な胸がチャームポイントで、本人もそれを自覚していたかのように日頃から男子との距離感が異様に近かった。それがきっと嫌われていた原因なんだろう。女子がこの世で最も嫌う生物はカエルでもなくゴキブリでもなく、彼女のような異性に色目を使う女子なのだ。何かそれっぽい理由さえあれば平気で共食いすることも厭わないし、そのことを全く悪びれる素振りも見せない。だってあいつがムカつくんだから仕方ないじゃん、でその大半は処理されてしまう。
元々は大天使だったルシファーが力を持ちすぎたが故に己を過信し、神の意に背いて反逆した果てに堕天使へと成り下がってしまったのと同じように、ルシファー山下もまたその恵まれた容姿を存分に生かして男子人気を獲得しようとしたことで女子の反感を買い、結果的にはいじめられるようになった。
当時の私はその様子を輪の外からじっと眺めていた。皆に混ざって山下小春の悪口を言うわけでもなく、かといってその悪口を止めるようなこともなく、ただ面倒ごとには関わらないようにその陰湿ないじめと一定の距離を保っていた。
杏里はそんなルシファー山下がつい先日、哲平と二人きりでどこかへ向かっていたのを見たのだと教えてくれた。彼女も偶然彼らと同じ電車に乗り合わせたらしいのだが、そこでこっそり彼らのやりとりを監視していると今度は私のことが心配になったらしい。
「哲平くんのこと心配じゃないの?」と杏里はさっきと同じことをまた言った。
「別に心配するようなことじゃないって」
あまりにしつこいから私は思わず苦笑いをしてしまった。
「それはつまり哲平くんのことを信用してるってこと?」
「うーん、信用してるっていうか……その、なんだろう」と私は言い、ストローでアイスコーヒーが半分残ったグラスの中をかき混ぜた。「その二人、どうせ廃墟に向かってたでしょう?」
「えっ、うん」と杏里は目を丸くして肯いた。「私も別用があったから最後まで二人の後をつけてたわけじゃないんだけどさ、二人は三橋駅で降りたのね。それでその近くには
「まあそうでしょうね」
「え、どういうこと? みーちゃんは二人が会ってること知ってたの?」
「まあね」と私は肯いた。「といっても、そのことを知ったのはつい最近のことなんだけど」
「もしかしてみーちゃんも二人とばったり会っちゃったとか?」
私はそれにううんとかぶりを振った。
「会ってないよ。ただ、彼のスマホに山下さんと一緒にいる時の楽しそうな動画が入ってたの。で、ああ、そういうことか……って」
「浮気ってこと?」と杏里は食い気味に聞いてきた。
またしても私はそれに首を振る。
「それはないと思う。彼が言うには山下さんとはどうやら高校の頃からずっと一緒に廃墟を巡ってたみたいだし」
杏里はその説明では納得いってないという風にしかめ面のままオレンジジュースを一気に飲み干し、その後もしばらくは頭の中で状況を整理するようにテーブルの一点を見つめながら黙っていた。私もその間に残っていたアイスコーヒーを飲み干し、通りかかった男性店員を呼び止めた。その人は最初に注文を取ってくれた杏里イチオシのイケメン男性店員ではなかったが、彼も彼でなかなか二枚目な顔立ちをしていた。
しかし、杏里は全くといっていいほどその男性店員には食いつかなかった。私は彼にオレンジジュースとアイスウーロンを一つずつ頼み、空いたグラスを持って席を離れていく彼の背中をぼんやりと眺めた。その後ろ姿がどことなく哲平に似ていたのだ。
「ごめん」と杏里は言った。「それってやっぱり普通に浮気なんじゃないの?」
「まあ、それが普通の反応だよね」と私は言った。「でもきっと違うのよ。彼の場合はちょっと変わった──というかものすごく変わった趣味の持ち主だから、その価値観を受け入れてくれる仲間を純粋に欲していたんだと思うの」
「共通の趣味を持ってる人ってこと?」と杏里は険しい顔をした。「ってか、そもそもルシファー山下がそんな趣味持ってたなんて私聞いたことないんだけど」
「うーん、それとはまた少しだけニュアンスが違うかもしれないんだけどね」と私は小首を傾げる。「正確に言うなら、たぶん彼の趣味を受け入れてくれる人っていうのかな。彼はそういう人をずっと欲してたんだと思うの」
「それってみーちゃんじゃ駄目なの?」
「私も過去に一度だけ誘われたことがあったんだけどね──」
やがて二人の会話を遮るように男性店員がオレンジジュースとアイスウーロンを持ってきた。今度やってきたのは最初に注文をとった杏里イチオシのイケメン店員だったこともあり、一時的に彼女の注意力は散漫になってその視線が彼と私との間で行ったり来たりしていた。私はそれを察してグラスを渡された直後にアイスウーロンにストローを挿し、それを咥えて口を塞ぐ。その間は杏里も心置きなくイケメンの顔を拝めている様子だった。
店員が立ち去った後も杏里の表情から完全に彼の余韻が消えてしまうまでは二人とも言葉を交わさず、しばらく経って彼女が「で、何の話してたっけ?」と会話を再開し始めたことをきっかけに私もさっきの続きを喋り始めた。
「ああ、彼の趣味の話よ。私も一度だけ高校の時に誘われたことがあったんだけどね、それがあまりに最悪すぎて彼に怒鳴っちゃったの。『こんな趣味は今すぐやめろ』って。で、その時にね──私このことまだ誰にも言ったことなかったんだけど、初めて彼に手を出しちゃったのよ」
「えっ?」と杏里は目を丸めた。「手を出しったってみーちゃん、それはもしや哲平くんのことを殴ったってこと?」
私は苦笑いしてそれに小さく肯いた。
「まあ、もちろんそれはグーじゃないわよ?」
「いやいや、そんなことはどっちでもいいんだけど……」
杏里は唖然とした顔でこちらを見ていた。その視線になんとなく私に対する軽蔑の意が込められているような気がして私はつい俯き、彼女から目を逸らしてしまった。当然といえば当然の反応だった。きっと高校生の頃の私はクラスの中でも割と真面目で成績も優秀な方だったから暴力とは決して混じり合うはずのない存在だと思われていたに違いなかった。ただ、それと全く同じことを私も思っていたのだ。
彼に手を出してしまったその日のことを思い出すと今でも眠れなくなる夜があった。その出来事にいくら茶目っ気をたっぷり含ませて披露したとしても、きっとこの先その話が笑い話になることはないだろうという予感はした。今振り返るとそれは私にとって人生最大の黒歴史であるようにも思えた。
「みーちゃんはさ、趣味が合わなかったから哲平くんのことを殴ったってことなの?」
杏里は私の顔を下から覗き込み、上目遣いにそう言った。
「……まあ、そういうことになるのかもしれないけど」と私は答えた。それ以外に適切な言葉が見つけられなかった。
「それで哲平くんはみーちゃんに隠れてルシファー山下と一緒に廃墟巡りをするようになったってわけね?」
私はそれに肯いた。「多分そうだと思う」
「別にルシファー山下の味方するわけじゃないんだけどさ」と杏里は言った。「もう少しみーちゃんもあの子みたいに哲平くんのこと受け入れてあげてもよかったんじゃないかな? っていうか、人それぞれに好みは違うわけだからさ、それを受け入れてあげるのって当たり前のことだと思うんだけど」
その口調はどこか私に対して呆れているようにも聞こえた。他人の趣味を受け付けなかった私のことをまるで器の小さい人間だとでも言っているみたいに。
杏里は手元でオレンジジュースをかき混ぜながらその目線はもうすでに私に興味がなくなってしまったかのようにイケメン店員を探していた。私はそんな彼女を見つめながら膝の上で作っていた拳を握りしめ、作り笑いをその顔に貼り付けて出来るだけ角が立たないように気を付けながらこう言った。
「受け入れられないことを拒否して何が悪いの?」
「えっ?」
杏里は見るからに驚いていた。まさか私が反論してくるとは思ってなかったんだろう。別に私も反論したつもりはないのだが、何も言い返さずにこのまま私だけが否定されていくのが少しだけ癪に障った。
「山下さんってさ、きっと受け入れるってことの優しさを履き違えてると思うんだよね」
「……みーちゃん、なに言ってんの?」
そう言って眉をひそめた杏里の表情は今度こそ確実に私のことを軽蔑し、ルシファー山下の味方をしているようにも見えた。
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