「今日はどこに連れて行ってくれるの?」と小春は言った。

 休日の割に電車の中は空いていて、窓を背にして座るロングシートの端に哲平くんは腰を下ろした。そんな彼のことを仕切り板と挟むようにして小春は座る。今だけは彼の隣を存分に独占することができた。

「この前また雰囲気の良い場所を見つけたんだよ」

 哲平くんはこちらを振り向いてそう言った。ほんの十数センチしか離れていない距離で二人の視線がかち合う。小春の胸の中で何かがとくんと跳ねた。

 鼻筋が通っていて肌が綺麗でくっきりとした二重瞼の目は大きくて眉毛はきりっと整えられていて目尻にあるホクロがどことなく色気があって唇が薄くて──と、哲平くんの良いところを挙げていったらキリがない。小春はそんな彼が少しだけ口角を上げて優しく微笑みかけてくるその表情がたまらなく好きだった。だからつい彼の顔をいつも食い入るように見てしまう。

「何か顔についてる?」と彼は心配そうに頬を手で触りながら聞いてきた。

「ううん。ついてないよ」と小春は首を振ってほんの少しだけ彼との距離を縮めた。不意に右手の甲が彼の太ももに触るとまた胸のあたりでとくんと音がした。そのことにきっと彼は気付いていない。顔に何もついていなかったことに安堵したように彼は「よかった」と隣で小さく息を吐き、今度は向かいの席の窓の外を眺め始めた。彼女はそんな彼の横顔にまた見とれてしまう。

「これから行くところなんだけどさ、たぶん山下も気に入ってくれると思うんだよな」と哲平くんは言った。

 きっとさっきの会話の続きだろう。小春は今二人が向かっている場所がどこかの廃墟であることはあらかじめ予想できていた。小春が彼と二人きりで外を出歩くといえばその行き先には必ず廃墟があったのだ。

 哲平くんの趣味が廃墟巡りであることは高校の頃から有名だったし、画家とピアニストの親を持つ彼がそんな特殊な趣味を持っていてもあまり違和感はなかった。きっかけは小学生の頃に長崎県の軍艦島を訪れたことだったらしい。一昔前には世間でも廃墟ブームが巻き起こっていたらしいが、小春にはまだ正直その魅力が理解できていない。というか、きっと同世代の中で廃墟を芸術的側面から捉えられる人なんて彼以外にいないだろう。彼女はあくまで世間一般的な女子高校生と同じ感覚の持ち主であり、理想のデートスポットといえばやはり真っ先に夢の国を挙げたし、映画館でポップコーンをシェアしたり観覧車の頂上でキスしたりお化け屋敷で彼の腕にしがみついたり──といった普通のデートに憧れていた。でも彼は毎回廃墟にしか連れて行ってくれない。だから彼女は手を繋いで街中を歩けたらとか、公衆の面前で堂々と彼にキスできたらとか、いつも勝手な妄想に浸るしかなかった。

 哲平くんが今の関係性を発展させようとする気がないことくらいは小春も嫌でも察していた。彼の方から「好き」とか「愛してる」とか言ってくれることはこれまで一度たりともない。

 それでも小春がこれまで何一つ文句を言わずして夢の国でもなく映画館でもなく遊園地でもない荒廃こうはいした建物の数々を一緒に巡るだけの関係性──いわば廃墟フレンド──をこうしてずっと続けていられるのは、結局のところ今も昔も小春はずっと彼に猛烈に恋をしていて、どんな理由であれ彼のことを独り占め出来るこの時間にこそ存在意義を見出していたからかもしれない。

 そんな二人の関係性が出来上がったのは高校三年生の頃、小春がある日の放課後に哲平くんに告白したことがきっかけだった。

 だが、当時の小春はその恋が決して実らないということをすでに知っていた。哲平くんにはすでに「みーちゃん」という愛称で呼ばれている同じクラスで人気者の三島楓みしまかえでという恋人がいたのだ。彼ら二人は校内の誰もが認めるほどお似合いのカップルで、その仲睦まじいやりとりは普段から小春も嫌という程見せつけられていた。

 当然、彼女の告白はその場で断られた。

 しかし、哲平くんはそれだけでは終わらせずに「もしよかったら山下も一緒に廃墟巡らない?」と誘ってくれたのだ。

 その一言にどんな意図があったのかは未だにわからない。もしかすると目の前でフラれた女の姿があまりに可哀想に見えたのかもしれないし、ただただ一緒に廃墟巡りをしてくれる仲間が欲しかったのかもしれない。ただ、当時の小春はそんな彼の優しさには全く気付いていないフリをしてその誘いを純粋な自分への興味だと都合のいいように解釈し、迷わず肯いたのだ。彼はその反応に少しだけ意外そうな顔をして「えっと、じゃあこのことはとりあえず二人だけの秘密にしておこう」と言った。本当ならばみんなにすぐにでも言いふらして自慢したかったのだが、秘密の共有は最高の恋愛のスパイスになる、といつか読んだファッション誌に書いてあったことを思い出し、彼の言うことに従った。ただし、誌面に書いてあることが実生活で役に立つほどこの世の中が単純に出来ていないことくらいはまだ高校生だった彼女も肌感でなんとなく理解していた。

 どうやら小春が彼に告白していた現場をクラスメイトに目撃されていたらしく、それをきっかけにある時からクラスの女子ほとんどを敵に回してしまったのだ。恋愛のスパイスがどうこうとか言っている場合ではなかった。

 それ以来、小春は周りの女子から「けがらわしい」だ「気持ち悪い」だなんだかんだと忌み嫌われ始め、失恋の傷が言える暇もないままクラスの男子が見ていないところで陰湿ないじめを受けるようになった。

 ただ、哲平くんと付き合っていた三島楓はというとそのいじめには全くといって介入しようとはせず、かといって助けようともせず、ただ小春がいじめられている姿を傍観しているだけだった。まるで私のことが眼中にも入っていないようなその態度が小春はどうしても気に入らなかった。

「次の駅で降りるよ」

 不意に隣から声が聞こえて小春は我に返った。

 車内案内表示装置には三橋駅みつばしえきの文字が記されていた。

 やがて車内アナウンスが聞こえ始め、程なくして二人が乗っていた電車は駅のホームに到着する。

 小春はブレーキがかかった瞬間を見計らってわざと彼の肩にもたれかかった。互いの頬はほんの数センチで触れる距離にまで近づく。

「あっ、もしかしてそれってバニラの香水?」と哲平くんは言った。「いい匂いだね。ほんのり甘くて上品な香りは山下っぽくてすごくいいよ」

 その言葉に小春の胸はとくんと鳴った。

「……うん。ありがと」

 さりげないボディタッチで彼を動揺させるはずだったのにまんまと返り討ちに遭ってしまった。相容れないはずの嬉しいと悲しいの感情が心の中で同居し、そこに仕切り板のようなものはない二つの感情は時折互いに干渉し合う。これだから私はいつまで経っても彼に依存する立場であって哲平くんを私に依存させることはできないのかもしれない、と小春は今更どうしようもないことを考えていた。一度くらい追いかけられてみたい──

 そう思いながらも結局彼女は哲平くんの背中を追いかけるようにして電車から降りていた。

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