第5話 本を破るなアホンダラ

 夜の神保町は静かであった。

 神田のにぎやかさとも本郷の騒がしさとも上野の猥雑さとも違う夜の神保町はどこか不気味だ。特に表通りは本屋ばかりで大半は営業時間を終えている。


 祥彦と明生は神保町の裏路地、表通りから一本脇道に入ったところにある小さな本屋の前にいた。女学生たちの間で噂の例の書化堂である。数日前明生が本を買った店でもあるので二人とも場所をおぼえていた。


 一見何の変哲もない本屋だ。どこの本屋とも一緒に見える。


 軒の下の硝子戸がわずかに開いていてほのかに光が漏れていた。


 中から少女の声が聞こえる。小町だ。彼女もここまで辿り着いていたらしい。


 まだ間に合う。


「たのもう!」


 祥彦は声を大きく張り上げながら硝子戸を開けた。


 本棚の合間から見える勘定台の前に店主の男と小町が立っていた。


 店主の男は下卑た表情を浮かべて小町の手首をつかんでいた。明生には穏やかで誠実そうな態度で接していたのに、今は眼鏡の奥の目をぎらつかせて唇を唾液で濡らしている。興奮した様子はおぞましく、同じ男としても虫唾の走る様相であった。


 小町が振り返った。


「さっちゃ、明生ちゃ――」


 泣きそうな声で、泣きそうな顔で、何かを訴えようとしている。


 絶対に助けなければならない。


 祥彦は夢虎丸の柄に手をかけた。


 しかし今この場でこの刀を抜くべきか。


 祥彦は一時逡巡した。


 この男は斬るべきか。まだ本当に少女たちを誘拐したと決まったわけではない。小町に触れる変態親父だが夢虎丸の牙にかけるほどの巨悪か。


 加えて、この狭い本屋で刀を抜いて立ち回れる自信もなかった。本棚に食い込んでしまうのではないか。万が一本を傷つけたらどうしよう。本は守りたい。本に罪はない。


 祥彦が考えている隙に、本屋の店主が動いた。


 彼は右手で小町の手首をつかんだまま、勘定台の上に置いてあった本を左手だけで器用にめくった。

 左手で本を開いて小町のほうに見せた。

 右側のページには美しい少女の似姿が描かれており、左側の頁は白紙であった。


「善子ちゃん」


 少女の似姿を見て、小町が友人の名を口走った。


 次の時、本の空白の頁からまばゆい光が放たれた。


 小町の華奢な体が光に包まれた。


 光に目をやられて一度まぶたを下ろしてしまった。


 ふたたび目を開けた時、小町の姿はその場から消えていた。


 男のほうを見る。


 空白だった頁に、少女の絵が増えた。

 小町の似姿だ。


 男が本を閉じた。


「ああ……可愛い。なんて可愛いんだ。はあ、あ、本当に可愛い」


 表紙に頬擦りをする。


「可哀想な女の子たち。はあ。こんなに若いのに悲しい思いばかりさせられて。私が守ってあげるからね。みんなみんな私が守ってあげるからね……はあ……」


 粘着質な声色に反吐が出る。


「どうやらその本が魔法の本だというのは本当だったらしいな」


 表紙には幻想化け少女詞華集と書かれていた。


 本の中に若い娘を集めて愛でようとするたいへんな趣味嗜好、言語道断の性癖である。


 男が祥彦と明生をにらんだ。


「男はお呼びでないんだ。汗臭くて野蛮な男たち。ましてバンカラ気取りの学生なんぞこの街に寄生するゴミ虫以下だ」

「なんだお前、学生時代に何か嫌な思い出でもあるのか?」

「お前たちは僕のコレクシオンに加えてやらないぞ。僕の可愛いコレクシオンに指一本触れさせない」


 そこまで言うと、男はまた本を開いた。


 そして、頁を一枚千切り取った。


 祥彦の背後で明生が「あかん!」と怒鳴った。


「本屋の亭主のくせに本を破んなアホンダラ! どんな理由があろうとも本を破く奴は野蛮人未満の動物や!」

「聞いたか小児性愛者、お公家様が貴様をバンカラ気取りの学生未満の動物だと言ってるぞ」


 その言葉に対し男は反応しなかった。返事をすることなく破った頁を空に放った。


 さすがの祥彦も驚いた。


 紙に描かれた絵が動き、膨らみ、やがて形を取った。


 目の前に巨大な狼が現れた。


「やれ!」


 狼が食らいついてきた。


 祥彦はとっさに夢虎丸を抜いた。


 男が嗤った。


「何だその刀は!」


 癇に障る笑い方だ。


「刃が無いじゃないか!」


 だが男の言うとおりだ。


 夢虎丸には刃が無い。


 柄と鍔だけは立派なこしらえだが、本来刀身があるべき部位には長さ三寸程度の細長い鋼のかたまりしかない。


 それでも一応三寸の鋼の棒だ。化け物を殴るくらいには役に立つ。


 祥彦は夢虎丸の刃に当たる部分で狼の化け物の頭を思い切り殴った。狼は左に吹っ飛んで本棚にぶつかった。

 本がばらばらと落ちてきて床に広がった。真の本好きの明生が「ああ」と悲痛な叫びを上げた。


 狼の頭蓋骨の硬さを感じた。


「明生! 援護しろ!」

「あかん!」


 祥彦は舌打ちをした。


「本がだめになってまう!」

「うまくけろよ! 京の古刹こさつで十年修行を積んだんじゃねぇのかよ!」

「そやかて──」


 男がまた頁を破った。今度は一度に複数枚だ。

 空に放つと、すべての頁が鋭い牙を持つ小猿に変わった。


 明生のほうを見た。明生が半泣きで両手の指を組み、印を結んだ。


あられ!」


 明生の体の周りに無数の小さな明るい球体が浮かんだ。


 炎のかたまりだ。


 彼が手を上から下へ振り下ろすと、炎の球体はその手の動きに合わせて頭上から小猿たちのほうへ向かって降り注いだ。

 小猿たちが悲鳴を上げた。ややして実体を失ってただの紙に戻り、最後は燃え尽きた。


 万事順調とはいかなかった。

 すぐさま明生が心配していた事態が起きた。

 明生の異能で生まれた炎が本棚の本に燃え移って広がり始めたのだ。


「あっつ」

「あかん、本を焼くなんてほんまの野蛮人になってもうた」

「いいから火を消せ! お前が無駄口叩いてる間に店が全焼するぞ!」

「わかっとるわボケ」


 指を組み替え直し、ふたたび呪を唱える。


「慈雨!」


 炎が少しずつ消えていく。だがそれを上回る速度で小猿たちが襲ってくる。今度は祥彦が明生の消火活動を支援するために戦わなければならなくなる。小猿の一匹を蹴り飛ばし、またもう一匹を殴り倒す。きりがない。


 そうこうしているうちに体勢を立て直した狼がこちらに向かってくる。


 夢虎丸を納刀し、脇差を抜く。


 脇差を狼に向ける。

 喉元に突き刺さる。

 硬い。斬れない。


 一歩引く。


 狼の背後から小猿たちが飛びかかってくる。


 まずい。


 脇差を構えたその瞬間、予想外の展開が起こった。


 本棚と本棚の間の狭いところで一斉に攻撃してきた紙の魔物たちが空中でぶつかり合い、あたかも詰まったかのように絡まり合って床に落ちたのだ。


「間抜けめ!」


 そのうち明生がもう一度印を結んだ。一拍置いたのはこの場でも使える呪を脳内で探したからだろうか。


 祥彦も次の一手を考えた。


 けれど最初に行動に出たのは本屋の男だった。


「ちくしょう!」


 彼はそう叫びながら本を開いた。


 真っ白な頁から光が放たれた。


 光は店舗の天井を覆い尽くすとどろりとした紫色の粘液に変わって壁を伝い落ちてきた。


 粘液が剥がれ落ちた。


 壁が溶け、あるはずのないぽっかりとした空間、闇よりもなお暗い闇が出現した。


 本棚が消えた。勘定台も消えた。壁も消えた。床も消えた。


 真っ暗な空間に動くものだけが立っている。


「何だここ!?」


 男が答えた。


「本の新しい頁だ」


 どうやら亜空間に連れてこられたらしい。


 男が引きつった笑みを見せた。


「貴様らをここに置いていってやる」

「なんだって?」

「朽ち果てるまで本の中で暮らせ。短小と妖術師の二人で仲良く暮らせ」


 祥彦は眉間にしわを寄せた。


「ではね。私は現実世界に帰――」

「てめえ今何て言った」

「は?」

「てめえ、今俺のこと何て言った」


 よほど祥彦が怖い顔をしているのか、男が血の気の引いた顔で後ずさった。


「誰が短小だと?」

「だ、だって貴様の刀は刃が無く――」

「これはな」


 祥彦は脇差を鞘にしまうと、夢虎丸の柄に手をかけた。


 夢虎丸を、ゆっくり抜刀した。


 鞘から出てきた時こそ男の言うとおり短小の鋼の棒だったが――


 夢虎丸が蒼白い光を放ち始めた。


 柄を一度両手で握って構える。


 左手だけで柄尻を支えるように持ち、右手を鍔から刃先に向かって本来刃があるべきところに沿うようにゆっくり宙を撫でる。


 はばきから、光の洪水が発生した。


 万物を照らす聖なる光は、蒼く輝く刃に変わった。


 夢虎丸を改めて両手で構える。


 夢虎丸は長大な太刀に変わっていた。


 正確には、本来の姿を取り戻した。


 水野家の嫡男にしか抜けない、伝説の宝刀、破魔の剣、夢虎丸。


 その、真の姿があらわになった。


「な……、な、なに……!?」

「てめぇは殺す」


 祥彦は男をにらんだ。


「夢虎丸の刃の錆になってもらうからな」




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