第4話 助けて、さっちゃん、明生ちゃん

 学生の本分は勉強だ。最近賃労働の話ばかりしているが、祥彦も明生も昼間は一応大学で講義を受けている。外国語の授業もあって、二人とも独逸ドイツ語をとっている。級は別でも講師が一緒でどちらも同じくらい課題が多い。


 夕食のあと、祥彦と明生は下宿の居間の卓袱台ちゃぶだいで独逸語の課題に取り組んでいた。


 悔しいことに、明生は学問だけはできる。彼は独逸語と仏蘭西フランス語をやっていて両方優良可の優だ。祥彦の成績も悪くはないが、作文に苦手意識があって今夜は明生に文法を教わりながら辞書を引いていた。


「遅いなあ小町ちゃん」


 唇を尖らせ、鼻の下に鉛筆を挟んだ顔で明生が言う。


「いつも夕飯までには帰ってきはるのにな。今日はどこまで遊びに行かはったんやろ」


 どうやら授業が終わったあと一度帰宅して多喜に友人の家へ遊びに行ってくると言い残してから出掛けていったらしい。一応どこに何の用事で出掛けたのはわかっている。しかし夕飯の時間になっても戻らないのは心配だ。先ほど多喜が迎えに行ったが、なかなか帰ってこない。無事に合流できていることを祈る。


 やはり小町はあさぎりの看板娘だ。彼女がいないあさぎりは静かで不安になる。他の下宿生たちもなんとなくそわそわしていて、廊下や便所で顔を合わせるたび小町は帰ったかと訊ね合う有様だ。


「物騒な事件もあるしな」


 先日の書化堂の怪なる噂話のことを思い出した。神保町の話ではあるが、半径一里以内で若い娘が何人も消えているのは間違いない。腐っても侍の自分が迎えに行ってやるべきだったか。


「僕も行ったらよかった」


 明生も同じことを考えていたらしい。ついつい顔を見合わせて溜息をつき合ってしまった。


「今からでも行くか?」

「自分どこに行ったか聞いてる?」

「知らん」

「僕もや。どうせえっていうんや」


 またひとつ、重ね合わせるように溜息をついた。


 その時だった。


 廊下を駆けてくる、体重の軽そうな足音が聞こえてきた。

 祥彦も明生も顔を上げてふすまのほうを見た。

 襖が開いた。

 開けたのは息急き切った小町だった。


「お、帰ったか」

「おかえり! 心配したで」

「さっちゃん、明生ちゃん!」


 小町が卓袱台のすぐそばに膝をつき、卓袱台の上に手を置く。祥彦と明生の顔を順番に見る。


「助けて」

「え?」

「助けて! 善子ちゃんが本の中に入っていってしまったの!」


 祥彦は眉根を寄せた。


「ヨシコというのは友達か?」

「そう。今日会ってきた友達」

「そのヨシコというのがどうしたと?」

「お父様が借金を作って失踪してしまったんですって。それで学校を辞めて働かないといけなくなってしまって。女工にはなりたくない、誰もわたしを知らない世界に行きたい、って言って」


 たかだか十四だかそこらの少女になんと過酷な運命か。

 自分の父親を思う。

 親の都合に子供が振り回されるなどあってはならない。


「話をしているうちに興奮して家を飛び出していってしまって。その場にいた友達と三人で探したんだけど、神保町で見た人がいると聞いて、それでわたし、きっと書化堂に行ったんだわって」

「落ち着け」


 小町が今にも泣きそうなので、祥彦はぶっきらぼうな自分にできる最大限の穏やかな声で小町に話しかけた。


「神保町は神保町でも書化堂とは限らないだろ。本の中に入るなんて馬鹿げたことがあるわけがない」

「でも神保町にいたのは確かなのよ」

「そうか、それはそうなんだろう。心配だから警察に通報しよう」

「通報はもうお母様がしたと聞いてるわ。でもおまわりさんが妖術と戦えるのかしら。そういうのってさっちゃんや明生ちゃんの領分なんじゃないの」


 思わず鼻から息を吐いてしまった。


「妖術ねえ」


 その単語に引っかかったのは明生もだったようだ。明生もそう呟いて生真面目な顔をしていた。そんな二人の様子を見て我に返ったらしい、小町がうつむく。


「ごめんなさい……、わたし、そんなつもりじゃ……」

「いやいいんだ、使えない人間からしたら区別はつかないんだろうからな」

「ごめんなさい……」


 しかし小町は気が強い。ちょっと考えたらすぐまた顔を上げた。


「さっちゃん、明生ちゃん。やっぱり二人の力でなんとかしてほしいわ」

「んん」

「二人の特別な力があれば人を閉じ込める本の謎が解けるんじゃないかしら。何の力もないおまわりさんより二人のほうがこういう不思議な現象に対応できるんじゃないの」

「無茶言うな。俺たちだって何でもできるわけじゃない」

「お願いさっちゃん、明生ちゃん! そんな意地悪言わないで! 善子ちゃんを助けて!」


 小町の華奢な手が伸び、右手で明生の手首を、左手で祥彦の手首をつかんだ。母に倣って水仕事をする彼女の手は柔らかいが荒れていた。


「小町ちゃん……」


 胸は痛む。けれど自分の力は本当に何でもできるわけではない。自分にできるのはただ戦うことだけだ。それこそ得体の知れない妖術に対抗できるとは思えない。


「あのな、小町。申し訳ないが――」

「助けてくれないの!?」


 小町が泣きながら手を離した。


「二人とも見損なったわ! もう嫌い!」


 そう叫ぶとまた玄関のほうへ向かって駆けていってしまった。


「わたしが善子ちゃんを迎えに行く!」


 明生が慌てて立ち上がった。


「いくらなんでもこの時間から一人で東京の街を歩くのはあかんやろ」


 彼の言うとおりだ。妖術の話は置いておいても魔都東京は治安が悪い。それこそ少女がひとり消えたくらいでは世間は変わらない。小町を追いかけて捕まえておく必要はある。


「しょうがねぇな」


 祥彦も立ち上がった。


 おとなの男である二人の足なら彼女が神保町に辿り着く前に追いつくことは可能だろう。けれどおおもとを解決しない限り小町は納得しないに違いない。何度も連れ戻すことになるのを考えたら、結局、彼女の行き先を撃滅するのが一番なのだ。


「お前、書化堂ってどこか知ってるか」


 意外なことに、明生は即答した。


「僕らが仕事探しをした時に最後に寄った店や。僕が竹久夢二の表紙の小説をうた、親父さんが怪しげな詞華集読んではった店やで」

「……気づかなかった」

「自分案外鈍いな」


 祥彦は夢虎丸を腰に差し直した。


「行くか」




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