第3話 箸が転げてもおかしい年頃の女学生さんが、いったい何を憂えていると言うのですか
祥彦と明生は喫茶店に落ち着いた。
「俺コーヒー」
「僕クリームソーダ」
「クリームソーダ!? お前そんな甘いもの飲むのか」
「ええやんおいしそうで」
「払えるのか五十銭」
「……」
「払えるのか五十銭!?」
何はともあれ一息である。
結局明生の勤め先は見つからなかった。収穫は小説一冊だけだ。おそらくこの小説代の分昼食代が削れていくのだろう。朝食と夕食は下宿で食べさせてもらえるので、それでしのぐ気に違いない。
「わるないなーアイスクリーム」
満足げにクリームソーダを飲んでいる明生を見ていると、祥彦は馬鹿らしくなってくる。明生の経済状況に気を揉んでこんなところにまでついてきてしまったが、当の本人がこんな調子では祥彦も真剣に考えなくてもよかったのではないか。
「で、これからどうする気なんだ」
柄の長いスプーンでソーダを掻き混ぜる。
「ひとまず明日大学の学生課の掲示板見てくる。誰もいいひんかったら祥彦誰か紹介して。大名の横のつながりがあるんやろ」
「あてにするなよ、親父のコネクシオンを使いたくねぇんだよ。お前こそ公卿貴族のつながりはねぇのかよ、武家に勤めるなんてことになったら京の貧乏公家がって馬鹿にされるぞ」
「あらへん」
そしてぽつりとこぼす。
「公卿のつながりでやっていけるんやったら僕今頃帝大は帝大でも京大生やわ」
そう言われてしまうと祥彦はそれ以上何も言えなかった。この上なく能天気に見える明生だが、彼も彼なりにいろいろある。
彼は京都にある第三高等学校の出身だ。何もなかったら京大こと京都帝国大学に進学していただろう。それができなかったという過去が何を意味しているのかわからないわけではない。
二人はしばらく沈黙した。喋る割合でいうと普段は祥彦と明生で一対三くらいなので明生が物思いにふけってしまうと静かだ。こういう沈黙は苦手だったが、かといって新しい話題を振れるほど祥彦は器用ではない。
黙っていると、隣の席の他の客が話す声がよく聞こえてくる。まして箸が転げても笑うような女学生が甲高い声で喋っていればなおさらだ。女学生とはかくも声が大きいものか。
「やだ、こわぁい! じゃあ寛子さんはそれ以来お帰りになっていないということ?」
「そうなのよ」
「またまた、そんなの都市伝説でしょ。どうせ駆け落ちだわ。だって最近何とかというお侍さんと婚約したという話だったじゃない? 旗本の嫁なんて苦労させられるんだから」
「そうよ、今時幕府のお役人だなんて。結婚するなら会社を持っている人がいいわ」
幕府のお役人の息子で跡継ぎの祥彦はますます何も言えなくなった。
ちらりと隣を盗み見る。揃いの海老茶袴を身につけた十代半ばの女の子が四人、背伸びをしてコーヒーを飲みながらぴーちくぱーちくしている。学校帰りに喫茶店に寄るとはとんだ不良娘たちである。
「寛子さんみたいな文学少女が、おとなしそうな顔をしてやるわね」
「だから、言っているじゃない。この辺に本を買いに来て行方不明になったのよ。本屋で誘拐されたのよ」
よくよく聞くと物騒な話だ。どうもこの神保町のどこかでさらわれたらしい。平和に見える本屋街も魔都東京ということか。
「なんでも、ある本屋さんで、本の中の世界に入らないか、と勧誘されることがあるのですって。入っていってしまったのかしら」
「ずいぶんファンタジイなことをおっしゃるのね」
「気持ちはわからなくもないわ。現実に帰ってこられなくなったとしても旗本の息子と結婚させられるより物語の中の金髪碧眼の王子様と恋愛するほうが幸せよ」
クリームソーダを飲み終えた明生が小声で「怖い話をしてはるな」とささやく。彼も聞いていたらしい。
「女三界に家無し。ファンタジイの美男との恋を夢見るのもむべなるかな」
水野家の女たちを思い出した祥彦は、そっと息を吐いた。
「飲み終わったなら出るぞ」
祥彦のその声掛けを聞いた明生が、神妙な顔をする。
「ところで、頼みがあるんやけど」
「聞かない」
「聞いて。ほんま。聞いて」
「断る」
「お金があらへんねん」
「わかってたことだろ」
「助けて! 何でもするから! 僕何でもするし奢って! 払って! 何でもするしおたのもうします!」
立ち上がり去ろうとした祥彦に明生が縋りついた。床に膝をつき祥彦の腰に腕を回して「お願い! お願い!」と叫ぶ。先ほどの女学生たちのみならず店内にいたすべての客の注目を集めた。恥ずかしい。祥彦も叫んでのたうち回りたかったが大のおとなの男がするべきことではない。
祥彦は泣く泣くクリームソーダ代も払った。この貸しは何で返してもらおうか。
下宿に帰ってきて夕飯の支度をする多喜と小町の手伝いを始めた。これは本来明生の日課だが、母娘に世話になっているので祥彦も何かをしたい。これから先の人生で料理をする機会は何回あるかわからないけれどできないよりはできたほうがいいだろう。
小町が「まったくもう」と大袈裟に肩をすくめてみせた。
「明生ちゃん、無職続行かあ」
「一応学生なんやけど……」
「まあ、うすうすわかってたよ、あんたにそんな根性はないって」
「お多喜さんまで……」
明生はかまどの前で溜息をついているが、溜息をつきたいのは明生から賃料を取れない多喜ではないか。
「年貢の納め時だよ。皿洗いしな。いい料亭紹介してやるよ」
「ううう……」
いたたまれなくなったらしい、彼はそこでぱっと笑顔を作って話題を切り替えた。
「そういえば小町ちゃん、神保町の本屋で女学生さんが誘拐される事件があったらしいで。気ぃつけや」
すると意外にも小町はこんな反応をした。
「あら、明生ちゃんもその話聞いてたの」
「もう知ってるんか」
「
結構な大事件である。祥彦の耳にも入っていてもいいはずだが、と思ったが、先ほどの女学生たちも駆け落ちではないかと噂していた、貴族の娘ならいざ知らず庶民の娘が消えるくらいはよくあるもの――なのだろうか。
「しょかどうのかい? 何やそれ」
「書化堂という本屋さんに行くと、本の中の世界に連れていってもらえるんですって。でも行ったきり帰ってこられないのよ。本の中の世界に閉じ込められてしまうのだとか」
「信憑性がないな、誰も帰ってこないんじゃ誰が本に閉じ込められると証言したんだか」
「いいえ、誘われて断った子がいるの。で、現実が嫌になったらまたいつでもおいで、と言われて帰されるらしい」
「わりと親切だな」
どんぶりに煮物を盛りながら小町が唇を尖らせる。
「生きていくのってつらいことばかりだもの。最悪本の中に逃げられると思ったらそれに縋りたくなるものなんじゃないの」
お椀に味噌汁を入れている多喜が「なに言ってんだい」と呆れとも怒りともつかない声を出した。
「十代やそこらの小娘に人生の何がわかるって言うのさ」
祥彦としては女手ひとつで娘を育てている多喜の四十年を思うとなかなか重い言葉だと思うが、当の小娘である小町はおもしろくなさそうだ。
「わたしだっていろいろあるわよ。お母さんはおばさんで鈍感になってるの」
「おっ、言ってくれるじゃないかい」
普段は仲の良い親子なのに今のはちょっとだけ不穏な雰囲気だ。明生は余計な話をした。
「まあまあ、十代の女の子は繊細すぎて神経質にならはんのやろ。先のことを悲観したくなる年頃や。温かい目で見たってください」
明生がそう言うと小町は明るい表情を見せた。
「明生ちゃんはわかってくれるのね! 嬉しい! 頼りになるわ」
「そうやろ。揺れ動く乙女心はよう学習してんねん」
「どこで?」
祥彦は茶碗に米をよそった。
「ともかく、小町、お前はその書化堂とかいう店に近づくなよ。真偽はともかく子供に変なこと吹き込むような店員のいる店なんてろくなもんじゃねぇ」
「子供じゃないもん!」
そして彼女は朗らかな声でこんなことを付け足した。
「それにわたしに何があってもさっちゃんと明生ちゃんが助けに来てくれるって信じてるもの。二人は特別なんだからね」
祥彦と明生は顔を見合わせてしまった。なんだか妙な期待を抱かれているようだ。
「俺たちの能力はそんな便利なものじゃねぇぞ」
「またまた! 頼りにしてるからね」
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