第2話 金食い虫のまだ見ぬ給料に思いを馳せる
翌日、祥彦と明生は神保町にいた。
神保町は言わずと知れた本屋街だ。祥彦もたまに訪れている。だが、本とは一人でじっくり自分と向き合いながら探すものだ。今の今まで友人知人と連れ立ってきたことはなかった。それが今になってあさぎりで一番騒々しく声が大きい明生と、と思うとなんだか汚された気分だ。
一軒の本屋に入る。三坪あるかどうかの狭い空間に六列の本棚が並んでいて、本棚には本がみっちりと詰まっている。本屋とは往々としてそういうもので、ひとつ前に入った隣の店舗もよく似たつくりだったが、大きな地震が来て倒れでもしたら死にそうだ。武術なら向かうところ敵無しの祥彦もさすがに地震は怖い。
明生はしばらく本棚を物色していた。
棚から一冊を抜き取る。表紙に竹久夢二の少女の装画が施されている。なんとも浪漫主義的な本だ。さすが明生、臆面もなくこうして女性向けの本を手に取る。硬派な祥彦には考えられないことである。
「可愛い! これ欲しいなあ。いくらやろ」
「買うのかよ」
「本は一期一会やで。ここで
こうなることはうすうす察していたが、あまりにも予想そのままの展開に祥彦は呆れた。
「それ何の本だ?」
「小説」
「小説っていうのはお前の少ないお小遣いを削ってまで買う分類の本かよ」
「これからの時代は小説が来るで。僕も小説家になろうかな。目指せ第二の夏目漱石」
「書いたことあるのか?」
明生が笑顔で言った。
「ない」
夢のまた夢。
それにしても、どうして祥彦がこういう明生に付き合って神保町まで来るはめになってしまったのか。
多喜が、明生の職探しに付き合ってやってくれ、と言ってきたからである。
明生は平日講義の後に毎日短時間働ける場所で働きたいのだそうだ。
多喜は下宿経営者の
仕方なく聞き取りをしたところ、明生は本屋で働きたいと言い出した。彼は国文学専攻で本の虫だ。本が好きでも本屋が務まるかといったらそんな甘い世界ではないと思うが、本屋は本を読める人間が来るところだ、客は最低限読み書きができる程度の教育を受けた相手だろう。
明生は京都府京都市出身の公家
見栄っ張りな京都人は自らの窮乏を認めない。一に教養、二に教養、三四がなくて五に教養と公家の風雅を守らんとする明生の両親は、借金をしてまで明生の教育に手間をかけた。結果、明生は学があって世間は知らない金食い虫に育った。
本屋に毎日出入りをしたら、明生は際限なく本を購入するのではないか。
さようなら明生の給料。
まだ見ぬ金の末路に涙を禁じ得ない。けれどそれは明生の人生で祥彦とは関係ない。神保町で目をきらきらと輝かせている明生を見ていると、多喜の人脈で雇われ人になって下宿代を給与天引きにしてもらうべきだと思うが、そこまで助言してやる筋合いもなかった。
明生が勘定台に向かった。
勘定台には中年の小太りの男がいた。眼鏡をかけており、額が少し広い。本を熱心に読んでいる。表紙は祥彦の知らない絵師が描いた美人画で、幻想化け
「すみません、これ一冊」
男が顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべて「はい」と言いながらそろばんを弾いた。明生がふところから財布を取り出した。
「お兄さんが読んではるその本も売ってはります?」
「ああ、これはちょっと、私が読み終えるまでは売れませんな」
「そうなんや。ほんなら僕予約させてもらえませんやろか」
祥彦は明生の頭を叩いた。
「当初の目的」
「はい」
明生が頭をさすりながらやっと本題を切り出した。
「このお店、店員募集してはったりしません? 僕、働き口を探しておりまして、店番させてもろたら嬉しいんですけど」
男が困った顔をする。
「すみません、そういうのは。ご覧のとおりこんな小さな店じゃあ私が一人で見れますからね」
「そうやろなあ」
祥彦はふたたび明生の頭を叩いた。今度はどうして叩かれたのかわからないらしい、明生が「何すんのや」とにらんできた。
「学生さんなら家庭教師をしたらいいんじゃないですかね? この辺学校も多いしゆとりのあるお武家さんが多く住んでるから需要はありそうですけど」
「家庭教師かあ」
そう言われて、明生はころっと方針を転換した。
「それもええなあ。大学で斡旋してもらえへんかな。明日学生課の掲示板見てこよう」
祥彦は大きな溜息をついた。
「ここまで来て小説一冊買っただけとか……俺はいったい何をしに来たんだ……」
「えー、僕のお供?」
「サイアク」
本屋の店主がからっと笑った。
「仲がよろしいんですね。学校のお友達ですか」
ぎょっとして否定する。
「冗談じゃない、俺はこんな奴の友達になった覚えはないし、ましてや供回りなんて」
しかし明生は能天気だ。
「照れんなや。言うて自分僕のこと大好きやろ」
みたび明生の頭を叩いた。今までで一番強い力で叩いたので、明生が「いったあ!」と悲鳴を上げた。
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