花とスキャナー・その4

「あれを見ていて?」

 と好一は問い、ハルカナはゆっくりとひとつ頷く。


 ハルカナは、それを見ていた。夏の休日の昼下がり、橋の欄干を踏み切り跳躍する人影を見た。新市街から橋へと向かう坂の途中、その姿に気がついて、自転車を漕ぐ脚を止め、光景を目に焼きつけた。

 最初に見たのは、欄干の上に立つ人影で、そこがまるで平地であるように、揺れることなく安定していた。ハルカナはなんだかほっとして目を逸らしてから、やっぱりブレーキを引き直し、橋を見上げた。

 ハルカナが見守るうちに、その人影は両腕を振りはじめ、じょじょに振り幅を大きくしていった。腕の動きと膝の動きが連動し、ああこの人は跳ぶつもりなのだなとわかった。飛び込むとか、飛び降りるのではなく、跳ぶのだと見えた。そう思ううち、人影は両腕で勢いをつけて欄干を蹴り、空へと跳んだ。

 空を駆け抜けようとするように、大気に溺れもがくようにして脚を蹴り、激しく手で空気を掻いて、でもどうしようもなく放物線を描きつつ、水面へと落下していった。

 落下地点の流れは深く、ひとつふたつと数え、いつつまで増えたところで頭が水面を割って現れた。人影は切り立った対岸側へと泳いでいって、全身から水を滴らせながら、橋へつながる細道のとりかかりに上陸した。

 ここでようやくハルカナは息を吸い込み、その人物を城戸好一だと認識し、胸の高鳴りを発見したのだ。岸に上がった好一は犬のように二度身震いして水を払うと、とぼとぼと木々に隠れた細道を上っていって、やがて橋の上へと戻った。その場に置いてあったのだろう何かを拾って、やっぱりとぼとぼと歩いて向こうへ行ってしまった。

 ハルカナはそれからしばらく、城戸好一が突然現れ、すみやかに退場していったその現場に立ち尽くしていた。夢ではなかったかと疑い、多分夢ではなかったのだろうと結論した。

 その行為は絶対に飛び降り自殺なんてものではありえなかった。娯楽目的のものとも思えず、なにか決定的に私的な、ひとりきりのものなのだとハルカナの目には映った。何かを振り払ったり、振り切ったりするためのものとは見えなかったし、衝動的な行為とも思えなかった。

「哀しそうでも楽しそうでもなかった。『馬鹿なこと』を考えてるようにも見えなかった。死ぬとかそういう『馬鹿なこと』じゃなくて、もしかして飛べるのかもしれないとか、それによって何かが起こるかもしれないって期待するみたいな『馬鹿なこと』を考えているようにも見えなかった。すごく真面目で、それはやらなきゃいけないことで、なぜかあのときどうしても、そうしなきゃいけないことだったんだって、勝手に思った」

 一息置いて、「どうだろう」とハルカナは問う。

「あれを見ていた?」

 ハルカナの問いにはこたえず、城戸好一は多分、自分へ向けて問いかけている。柔軟でもするようにして、欄干に両手をかけて肩を下げる格好で俯いている。表情は流れる髪に隠れて見えない。

「君は正しい」と、ただ読み上げるように好一は言う。「で、君はそれを撮りたい」

「そう」と言う。そうなんだとハルカナは言う。好一は怒るのではないかと思う。秘密をのぞき見られたから、一回性を帯びていたはずのものの再現を迫られたから、ハルカナの頼みが何かの願掛けの邪魔をするから。ハルカナが現実を通じて好一の内面を垣間見たから。

 だがしかし、

「あれを見て、それを頼むの」

 と訊ねる好一の声に苛立ちはない。感心も歓心も寒心もなく、疑問でさえない。そんなことを言い出す人間がいたのかという発見はある。あらかじめ川の両岸に撮影用のカメラを並べて準備しておくようなやつがいたのかという驚きがある。自分が出来事を、現実のあり方を威圧しきれなかったことへの失望はある。壁を軽々と乗り越えられたことへの当惑がある。

 あの日以降も、学校でみかける好一に、それまでと変わったところはないようだった。友人たちとふざけあい、あそこにいたりそちらにいたりした。一部にファンもいるらしかったが、ハルカナは相変わらず城戸好一という人間には興味を抱けなかった。ただ自分の中で、あの光景が占める割合だけが日に日に大きくなり続けた。


「あのとき、一体なにがあったのか」と好一は言う。

「訊く気はないよ」とハルカナが即応する。

「言う気もないさ」と好一が笑う。

 そうだろうとハルカナは思う。そうであるに決まっていた。そうでなければあんな跳び方ができるはずなど、ありえないのだ。

「いいさ」と好一は言う。欄干に立て掛けられたコウモリ傘の傍らに通学鞄をおろす。ポケットから携帯端末を取り出し、鞄にしまう。

「いいの?」とハルカナは問う。「あの時、あの瞬間にだけ可能なジャンプだったとかそういうことは」

「そういう種類のものじゃない」と好一。「と思うよ。自分の思うとおりにできるものじゃないっていうのは確かだ。でも、まだできると思う。来年じゃ無理で、明日でも駄目だったかも。そういう意味では」と、右肩を左腕で抱え込むようにストレッチをしながら好一が言う。頬に当たったノイズキャンセリングイヤホンのコードに気づき、首から外してハルカナに放る。「今日言ってくれてよかったのかも」

「よかった」とハルカナは言う。

「よくはないけどな」と好一。コウモリ傘に目をやって、「こいつを使ってみるっていうのは?」

「できるの?」とハルカナ。

「できない」と好一。

「なあ、ハルカナは」と好一が問う。「城戸好一のことが好きなわけ」

「そうなのかもしれないと思ったけど」とハルカナはこたえ、「でも、ここまでくる間に、違うってわかった」

「だよな」と好一。「あれ」と首をわずかに傾げる。「今、告白される前にフラれなかった?」

「告白される前にフッたんじゃない?」とハルカナ。

「それがわかっただけでも上出来だな」と好一は言う。

 好一はその場で体を左右にねじりながら跳ね、力を抜いた腕を揺らす。腕が右回りに、左回りに好一の体をめぐる。

「タイミングは好きにさせてもらう」と告げる。顔からすっと笑みが消え、うっすらと緊張が乗る。ハルカナは慌てて自分の携帯端末を取り出し、画面を確認して頷く。両岸に設置されたカメラのステータスは全て正常値を示している。

「いつでもいいよ」とハルカナは言う。

 好一は息を吸って、吐く。また息を吸って吐く。目を閉じて、顔をわずかに仰のけにする。時間の流れに耳を澄ませる。右脚と左脚でリズムを取り、その時がやってくるのを待つ。

 その瞬間はやってこない。

 その瞬間がやってくる。

 唐突に好一の体が前傾し、腕が体を持ち上げて欄干を踏む。脚が強く欄干を蹴る。好一が跳び、好一が飛ぶ。空を蹴り、腕が大気を掻きとっていく。滑らかな筋肉が張りつめ、四肢が伸びる。次々とハードルを越えるようにして、好一は宙を蹴っていく。そうした一切の振る舞いと関係なしに、重力が好一の体を捉えている。

 その姿は、夏の大気を泳ぐ花びらのようでも虫のようでも魚のようでもある。

 ハルカナの指示に従い、岸辺のカメラが一斉に作動。パルス状に放たれるレーザー光が地から天へと、水面と橋の間の空間をくまなく走査しながら駆け登る。好一の体表面で跳ね返された電磁波がカメラへ戻り、周囲一帯を数値化して一息にマッピングする。好一の体表に目には見えない走査線が幾本も繰り返し走る。

 好一は抗いようもなく水面へ呑み込まれていく。

 波紋が広がり、水しぶきがあがる。

 ハルカナは息を止めたまま、水しぶきの一粒一粒を観察している。ハルカナが息を詰める間、水滴の動きは止まったままだ。携帯端末から電子音が響く。両岸のカメラ群が無事撮影に成功し、この数秒間の出来事を三次元データとして構築し終えたことを通知してくる。

「ハルカナー!」と川面から頭を出した好一が手を大きく振っている。「これでいいか」と笑って叫ぶ。ハルカナも手を振り返し、好一は体にまとわりつく制服を邪魔にしながら、岸へと平泳ぎで近づいていく。

 ハルカナはこのスキャンデータをプリントアウトすることはない。ビューアーで確認することさえもないだろう。自分がそうはしないことをハルカナは知る。

 自分はただ一度きりのものだったはずの感動を、こうして記録することに成功した。それを数値に置き換えることが叶った。それだけでもう奇跡と呼ぶには充分だった。

 その恋は、誰かに観測されたなら、それが起こったという事実もろとも、消え果ててしまうものに違いなかった。

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