第3話 たらいまわし

九月から始まった、知的障害児との四ヶ月間にわたる格闘の日々も想像以上のものであった。

 メインで担当することになったのは男児生徒だった。

 彼はおちんちんをいじりすぎて、ばい菌が入ってしまい、膿がたまり、手術になり針と糸で縫った生徒だった。彼はトイレの最中に気に入らないことがあると、便器の中に手を突っ込み、楓に大便を投げつけてくることもあった。楓は彼と格闘するようになってから、必ずジャージと着替えの予備を毎日持参するようになった。

 彼の扱いにも慣れてきた十月の半ば、彼は親と一緒に歯科に行った。そして子どもが治療中に絶対に暴れないようにと、歯科医師は彼に全身麻酔を打った。彼は治療後、麻酔が充分に切れてない時に親の目を盗んで、口周りを激しくいじくり回し、ちぎって食べてしまい、唇の下に大きな穴を開けてしまった。

痛みに鈍感なのか、彼は翌日、けろっとした表情で登校してきた。そして給食の時間には本来の口の場所と穴が開いてしまった場所を間違え、大きく開いた唇の下の穴から、器用にうどんを啜るという芸当を見せてくれた。 

給食補助をしなくても自分で食べることができる子だったので、楓は彼の正面に座りながら、その芸を眺めた。そして、もうあまり驚かなくなってきている自分に、改めて驚いた。

冬休みに入る直前、先輩教師が子供からもらったインフルエンザで倒れ、小学六年のクラスに一日だけヘルプで行ったことになった。その日に任されたのは、生理中の女子生徒だった。トイレは一人でできると他の先輩から聞いていたので、トイレに行きたいというサインを出した時、一人で行かせた。すると彼女はパンツを履くのを忘れてトイレから出てきてしまったのだ。

「ちょっと先生がパンツを取ってくるから、そこで待っとるんやよ。」

と彼女に指示を出し、急いでトイレに取りに行き、彼女の元に戻ってきたときに目にした光景は、今でも忘れられない。

彼女は廊下で大量の血を漏らしていた。それだけではない。その血を手ですくい、

「トマトジューチュー!」

と叫びながら飲んでいたのである。


知的障害児との日々は、自分のキャパシティを大幅超える出来事も多かっので、自宅に戻ったら思わず愚痴をこぼす瞬間もあった。それを聞いた母親はいつも、

「動物園で働いているみたい。」

「大学まで出て、あほの相手しとって恥ずかしくないがん?」

「三Kか?」

ねぎらいの言葉ではなく毒を含んだヤジを飛ばしてきた。大学名に不釣り合いの仕事をしている、世間体が悪い、などと頻繁に唇に乗せる彼女からは、障害者がらみの仕事に対して全くの理解を窺えなかった。

昔、東京の私立大学に進学した娘は、さぞかし自慢の子だったのであろう。都落ちしてきて、特別支援学校に勤務している娘の直面している現実は、明らかに面白みのかけらもなく、ただただ母親を苛つかせる因子でしかなかった。楓は意識して母親の前では愚痴をこぼさないようにしていった。そしていつしか必要な会話以外はしなくなっていった。

十二月末、楓は再度、校長室に呼ばれた。

「森川さーん、悪いけど三月まで、中学部の肢体不自由部門の方に行ってくれんけ?女の子で大変な子が転校してきていね、人手が足らんのやわ。このままやったら、いつ事故が起こるか分からん。頑張ってくれとるし、今後はボーナスが出る臨時的任用講師契約にするよう、教育委員会にお願いしておいたわ。もうちょっと頑張ってや。頼むわ。」

とまたも校長に懇願され、勤務の続行が決まった。なんか、こちらの意思確認と言うよりも、既に決まっていたような、ざらざらとした落ち着かない感触を受けた。

 そして三月も下旬になり、次はどこに辞令が下るのかという話題で、仲良くなった同僚の知ちゃんとロッカールームで盛り上がっていたら、

「楓ちゃんさー、難しいと思うよ。空きができたら森川回すか、って管理職が事務室でさ、もぞもぞ話しているところ聞いたもん。なんだかんだ言って、辞令をホイホイ受けているうちに、知的と肢体不自由の臨時免許も所持しちゃったじゃん。あれさー、三年は有効なんだよね。だから四月からもここだと思うよ。」

 横から口を挟んできた、邦ちゃんの予想は的中した。一週間後、教育事務所を通して辞令が下ったのは、同じ特別支援学校で、知的部門中等部での一年契約勤務だった。


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