第30話 少し長めのティータイム

少し、時間を戻して、カオルのマンション。ピアノの前に座る歩の鼻に、ジャスミンティーの香りが漂ってくる。台所に立ち、お茶の支度をするカオルの姿。

「歩ちゃん、お茶にしましょ。」

ボロン!

そんなカオルの言葉を待っていた。鍵盤を叩く事をやめる。

<はい>

ジャスミンティーの香りに誘われるように、ソファーに座る歩。目の前で、ティーポットから、湯気が立つティーを、カップに注がれる。一緒に持ってきた焼きたてのクッキーの甘い香り。

<はい、召しあがれ>

カオルの、そんな言葉を待っていた。歩が静かに手を合わせて、クッキーに手を伸ばす。カオルがいる時は、必ず、手作りの洋菓子を出してくれる。歩は、そんなお茶の時間を楽しみにしていた。

「亨さんだったけ、どう、楽しんでいる。」

昨日までの三日間、昼間は、亨の知り合いのスタジオで、ギターを教わっていた。ギター以外にも、ベースやドラムの手ほどきも受けた。

「楽しんでいるって、大変ですよ。やった事のないものばかりやし…」

素っ気のない言葉を口にしていても、どこか楽しそうにしている歩。充実しているか、どうかは、雰囲気でわかる。カオルは笑みを浮かべて、歩を見つめている。

<そぉう>

カオルは、そんな相づちを入れている。歩が楽しそうに話す会話に、笑みを浮かべながら聞いていた。一か月前、突然、目の前に現れた歩の姿は、もうここにはない。何かに、怯えていた、苦しんでいた一人の青年の姿は、もう居なくなっていた。

<あっ、そうだ。蘭子の所はどうだった>

そんなカオルの言葉で、話しは蘭子の店の事に流れる。木・金曜日の二日間、蘭子の店のステージに立つことなった歩。カオルの店よりも、数段でっかい舞台。客数も三倍ほど違う。

<めっちゃ、緊張した>そんな言葉から、ありのままの感想を言葉にする歩。足が、手が震えていると、励ましてくれるオネぇさん達。緊張の中、十分間のワンステージを終えると、蘭子が、拍手をして、駆け寄ってきてくれた事。体験した全ての事が、新鮮で、充実感で満ち溢れていた事。歩は、時間を忘れて言葉にした。いつもであれば、本当のお茶の時間、十分程度であるのだが、今日に限っては、一時間以上も、おしゃべりをしている。カオルも、そんな歩に付き合ってやる。目の前にいる歩の表情が、何とも云えないいい顔をしていたから、そんな歩を眺めているだけで、うれしくなってきていた。

 「来週の月曜日と火曜日、お店休むけど、どうする歩ちゃん。」

 突然、そんな言葉を発したカオル。お盆の休暇と云う事になる。明美には話したが、一時帰京する事に決めていた歩。

 「私は、毎年、この時期に熱海に行くんだけど、良かったら一緒に行く。」

 「いいえ、一時、田舎に帰ろうかと思って…」

 <えっ!>

そんな歩の言葉に、驚きの声を上げる。

 「いや、父親と話しをしてこようと思っているんです。今の私の心境。生きていく目的も、見つかったし…」

 どことなく、落ち着いて、そんな言葉を続ける歩。

 「そう、びっくりした。私、田舎に帰っちゃうのかなぁと思った。」

 カオルは、改めて思う。考えてみれば、家出をしてきた歩なのである。そして、まだ学生。いつの間にか、歩という存在が、傍にいて当たり前という感覚を抱いていた。

 「一日だけですよ。私も、頑張らないけないし、今月いっぱいは、お世話になりますから…」

 そんな言葉を口にして、笑みを浮かべている。今、歩は、省吾の言葉を思い出している。

 <お前は、まだ、親の管理下にあるんよ>

 <親を説得してから、ここに帰ってくればいい>

 東京に来て二日目の夕卓。省吾が、言ってくれた言葉。正直、両親、特に父親は、納得などしないであろう。鼻で笑われるだけかもしれない。でも、はっきりと、両親の前で、言葉にしなければいけないと考えている。自分のありのままの姿を、曝け出さなくてはいけないと思っている。

 「そうね。そうした方がいいわ。歩ちゃんには、やりたい事があるんだもん。偉いよ。」

 カオルは、嬉しさが込み上げてくる。子供が自立しようとする時、親の心境とは、こんな感じなのだろうか。カオルは、身を乗り出し、歩の頭を撫ぜて出した。無意識に、そんな言動を取っていた。笑みを浮かべて、(いい子、いい子)をしている。される歩も、悪い気はしていない。そんな少し長いティータイム。西日が、二人の座るリビングに差し込んでいた。

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