第21話 修・羅・場
中野五丁目にある十階建てのマンション。最上階の角部屋。省吾の、歩の鍵でもない合い鍵で、玄関の扉が開いた。
ガチャ!
灯りのついていない薄暗い廊下に、そんな音が響く。時計の短い針は、数字の十二を指している。カーテンの隙間から、陽の光が射していると云う事は、深夜ではなく、正午。寝室のベッドの上では、早朝まで、働いていた歩が、深くタオルケットを被って、夢の世界にいる。
髪を前に垂らして、顔を隠すように、明らかに女性であろう人物が、ゆっくりと、廊下を歩いていた。
そぉぉと…
リビングの扉が、ゆったりと開く。影を帯びた女性の姿が、カーテンが閉まってあるリビングに視線を向けている。敏感に、空気の違いに気づくと、そろりそろりと、歩幅を進ませていく。指先で、テーブルを触り、不気味なほど、静かに部屋の隅々までに、視線を届かせていた。女性の視線が、寝室の扉に向けられる。迷いもなく、ドアノブの一点だけを睨みつけて、ゆったりと、足を進めていく。
寝室の歩は、女性が漂わせている殺気に、敏感に感じとったのか、うめき声をあげていた。そんな中、ドアノブを回して部屋に入ると、歩がベッドで寝ている姿が視界に入った途端、肩を震わし出した女性の後ろ身。声を荒げるわけでもなく、拳を強く握りしめ、怒りが今にも、爆発しそうであった。
わぁっ!
女性の怒りにほだされ、気迫に押されたのか、そんな声を出して、飛び起きる。
「えぇっ!」
歩が飛び起きると、視界の中に、長い髪で、顔を覆っている見知らぬ女性の姿が映っている。
『貞子!』
ホラー映画の怨霊の名を叫ぶ。タオルケットを身に絡まして、壁に身体を預けて、身構える歩。今にも、襲われそうな予感に、身を震わしていた。
「おーい、歩、鍵空いているでぇ。不用心、不用心。」
そんな省吾の遠い声が、歩の耳に入ってくと、目の前にいる女性の視線が、一瞬、逸れたように思えた歩は、全身の力を、フルに使い、女性の横を勢いよく、通り過ぎ部屋を出る。丁度、鉢合わせになった省吾に抱きついた。
「省吾さん、誰かがいる。誰かが…」
強い力で、抱きつかれた省吾は、咄嗟に、歩の身体を、自分の背に持っていく。自分の身体を盾にして、守るように、寝室の入り口に視線を向ける。確かに、人の後ろ身が瞳に映る。
<誰や!>そんな言葉をあげるが、何か、見覚えのある後ろ身。目を細めて、重心を前にかけて見つめていると、女性が振り向き、省吾と目を合わせる。
「あけみ、明美やんな。」
そんな言葉を、静かに口にする。長い髪の毛が、前の方にかかり、不気味な雰囲気をかもし出しているが、間違いなく、知り合いの女性である。省吾の後ろにいた歩は、タダならぬ雰囲気に、瞑っていた目を開く。
「省ちゃん、どういう事なの。誰よ。誰なのよ、そこの女。私と、少し、距離を置こうって、こういう事だったのね。」
その場で、泣き崩れていく明美と云う女性。省吾は、歩み寄り、女性の肩を抱く。一人残された歩は、キョトンとしている。
「何、やってんのよ、放して、近寄らないでよ。何なのよ。私は、何なのよ。」
肩を優しく抱く省吾に対して、両腕を振り回し、拒否をそんな態度で表す。
「何やってんねん。お前は…」
振り回す腕の手首をもって、そんな言葉を叫ぶ。
「黙って、部屋に入って、下手したら、警察もんやろ。」
明美と云う女性に向って、そんな言葉を続けた。俯いて、腕を振り回そうとする動きが止まる。
「何よ。電話をしても留守電で、メールしても、返ってこない。新しい女が出来たんなら、言いなさいよ。別れたいなら、ちゃんと、言いなさいよ。あっ、そうか、私とは、もう別れていると思っていたんだ。ああ、そうか、そうなんだ。」
その場で座り込み、自分の腕を掴んでいる省吾を、睨みつけて、そんな言葉を叫んている。
「何、ワケのわからん事を言うてんねん。とにかく、ソファーに座ろうや。」
片膝をついて、明美に、そんな言葉を投げかけるが、聞こうとしない。一人残された歩は、距離を取って、そんな二人の状況を見つめていた。
【修羅場】そんな言葉が、歩の頭に浮かんできた。省吾にとっては、【修羅場】であるのは間違いない。そんな状況なのに、ワクワクとした感情が芽生えてきた。
「あの、いいですか。」
しばらくして、そろりそろりと、言い争っている二人の間に、そんな言葉を入れる。
キリ!
明美に、思い切り、睨みつけられてしまう。恐怖を感じるが、そのままでは仕方がない。
「そんな怖い顔しないでください。初めまして、私、宮本歩といいます。」
そんな言葉を続けて、深く頭を下げる。
「余計な事ですけど、ソファーに座って、ゆっくりと、話をしませんか。このままじゃ、どうしようもないでしょ。」
明美は、歩の事を、省吾の浮気相手だと、思い込んでいる。どう見ても、年下。年下の相手に、そんな事を言われたら、取り乱している自分が、馬鹿みたいに思えてくる。
…
何も言わず、立ち上がる明美、省吾が、あれだけ言っても、言う事を聞こうとしなかったのに、これが、女性の意地なのか。
背筋のピンと伸ばして、ソファーに座り込む明美。その真正面に、省吾が腰を下ろした。
「よかったら、これ、飲んでください。」
明美が立ち上がり、ソファーに足を向けた時、歩は、素早く、麦茶を二人分用意して、二人の前に置いた。
「あのな、明美。お前の勘違いやねん。歩とは、そんな関係とちゃうねん。ちょっと、事情があって、預かっているだけやねん。現に、歩は、寝室。俺は、布団ひいて和室で寝ている。」
明美の座っている場所から、和室の中が見える。視線を和室に向けると、省吾の言う通り、布団が引かれている。
…やろ…
明美の視線を和室に向けた事を確認して、そんな言葉を口にした。
「そんな事、たまたまじゃないの。」
「明美、いい加減せいや。」
省吾から目を逸らして、ふてぶてしい態度に、いい加減、頭にくる。そんな言葉を口にして、立ち上がる省吾。
「ちょっと、省吾さん、待って!」
慌てて、そんな二人の間に入る歩。
「あのですね。明美さん、私は、省吾さんのご厚意で、ここに居させてもらっているんです。私が、口を挟むと、ややこしい事になると思ったんで、何も言いませんでしたが、私達が、そんな関係になるわけがないんです。私、【男】です。」
歩は、正直に言葉を並べる。省吾が気を使い、その事を口にしなかったのを、わかっていたから、自分の口から言葉にした。
「何、言ってんのよ。この泥棒猫は、すぐ、わかる嘘なんて、言わないでよ。あなた、どう見ても、【女】じゃないの。」
「明美、お前な。」
歩は、省吾に向って、片手を上げ、手のひらを見せる。
「省吾さん!明美さん、私、男なんです。これを見てください。」
歩は、パジャマ代わりに着ていた、省吾のワイシャツを、大きく捲り上げ、自分の胸を明美に見せる。
「明美さん、男の胸と、女の胸の見分けぐらいできるでしょ。それとも、パンツも脱ぎましょうか。」
ボクサーパンツを着ている歩の股間に、膨らみが視界に入る。明美は、自分の目を疑ってしまう。目の前にいる歩を、女性として見ていた。外見、顔立ち、体のシルエット、どう見ても、女性の容姿であった。
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