第18話 初ステージ

固定のスポットライトの中に、歩の姿が見える。小さなステージの上に、白いワンピースに、真っ赤なヒール姿の歩。今にも、口から心臓が飛び出そうなぐらいの緊張の中、ピアノの椅子に座り、固定マイクを、いい位置に動かし、調整している。店の中には、省吾の姿はない。完璧な遅刻。

パシッ!

カオルは、腕を頭の上にやり、思い切り、手のひらを重ね叩き、大きな音を鳴らす。

「歩ちゃん、落ち着くのよ。」

そんな大きな声を掛ける。ステージ上の歩の姿を見ていて、いたたまれなくなり、そんな言動をとっていた。

「すいません、みなさん…今日が、初めてなもので、緊張しています。」

マイクに向かって、そんな言葉を発した。カオルが用意してくれたステージ、カオルに恥をかかせるわけにはいかない。度胸が座った。

ワッハハハ…!

軽くそんな笑い声が、店内に響いている。歩のそんな言葉が、店内に数人いる客の目を、ステージに向かせていた。

「さっきまで、カウンター内にいた私が、このステージに立っているという事は、わかりますね。お客さん…」

そんな言葉を続ける。カオルの言葉が、お客の笑い声が、歩の緊張をほぐしていく。

「歌を、歌います。余興と云うか、箸休めて云うか、とにかく、歌います。」

歩は、そんな言葉を口にする事で、自分のやり方で、テンションを上げようとしていた。そんな時、店の扉が、静かに開いていく。歌を歌う事に、目の前のお客に集中していた歩は、そんな事に気付かないでいた。

省吾は、背を沈めて、カウンターに小走りに近づいていく。店内にいる数人が、ステージの歩を見ていた。唯一、カオルだけが、省吾の姿に気づく。ステージから、一番離れたカウンターの端の席に、省吾は座る。遅れてきた負い目があるのか、そんな行動をとってしまう。

カオルは、そんな省吾に、冷たいおしぼりと、大きめのグラスに、氷の入った水を差し出した。その一瞬に、目を合わす二人。

<遅い!>

<ごめん。>

そんな会話が、聞こえてきそうであった。

「失敗したら、ごめんなさい。一生懸命やります。」

そんな言葉を発すると、目を閉じる。目を閉じたまま、深い深呼吸をする歩。目を見開き、ピアノの鍵盤に、指を近づけると、なめらかに、指が横の動きを始める。優しい、ゆったりとしたメロディーが、流れ始めた。鍵盤を叩くごとに、全身を揺らしている。初めの曲は、昨日と同じの(ショパン ワルツ第一番 華麗なる大円舞曲)。突然のクラッシック。ステージを見ていたお客は、調子抜けをしている。まさか、クラッシックなんて、思っていなかったのだろう。鍵盤の上を、横の動きで、なめらかに動かしていた歩の指が、突然、力強く、鍵盤を叩いた。

バァーン!

店内に、響く音。すぐさま、歩の指の動きが、縦の動きに変化する。弾むようなリズムになり、歩が、固定マイクに口を近づけた。

「Wait Oh Yes. Wait a Minute Mr. Postman…」

固定マイクを通して、歩の声が、店内に流れると、一気に、ステージの前のお客が、歓声を上げる。カオルの店に来ていたお客が、観客に変わっていく。歩が、考えた演出。あえて、クラシックの静かで、重みのある旋律から始めて、曲の途中で、突然、ポップで、乗りやすい旋律に、変化させる。

歩は、その曲に、ビートルズナンバーから(プリーズ・ミスター・ポリスマン)を選んだ。歩の弾むような声色が、観客を包んでいく。(ヘルプ)(アイル・ゲット・ユー)の二曲を、続けて歌う。ビートルズナンバーの乗りやすい曲を選んでいた。

歩の鍵盤を叩く動きが、ゆったりとした、縦の動きに変化をしたかと思うと、歩の声色が、シックで、しっとりしてきた。マイクに口を近づけて、観客の方を見つめる。色っぽい目つきで、(タイム アフタータイム)を、歌い出す。ビートルズの次は、ジャズ。選曲も、ゆったりとした、静かな曲を選んでいた。(アイキャント スタンド サイレン)(恋は盲目)を、艶っぽく、歌いあげていた。

鍵盤を叩く指が、ゆったりと盛り上がっていく。歩は、指を鍵盤から離し、膝の上に置いた。

パチ、パチ、パチ…!

観客が、歩の演奏に、拍手で応える。もちろん、その中には、カオルも省吾もいる。数人の観客の前で、一つのステージを務めあげた。初めてにしたら、上出来であろう。

歩は立ち上がり、目の前の観客の前にして、深々と頭を下げると、ステージの袖に、姿を消した。固定のスポットライトが消える。スイッチを切ったのは、カオルである。

「どうしたの。飲んできたの。」

カオルは、省吾の正面に立ち、そんな言葉を掛ける。

「あぉ、ごめん。どうにか間に合ったな。」

「ぎりぎりって、ところね。何か、飲む。」

「悪いけど、冷たい水、もう一杯、もらえるか。」

省吾は、亨との飲みが、思いのほか、楽しかったのか、時間を忘れてしまう。気がついた時も、もう深夜零時を回っていた。

ゴク、ゴク、ゴク…!

目の前に置かれた氷水を、一気に、飲み干した省吾は、ふと、ステージの袖の方に目が行く。スニーカーに履き替えた歩の姿が瞳に映る。

歩の方も、カウンターの奥の方にいる省吾の姿を見つけ、手を振る。小走りに、カウンター内に入り省吾に駆け寄ろうとした時、カウンター越しに、身を乗り出すお客の姿。

「歩ちゃん、今度、俺と、いいトコ行こうよ。ねぇ、歩ちゃん…」

そんな言葉を発して、歩の腕を掴まんばかりの勢いであった。省吾が、腰を浮かして、前身姿勢になった瞬間、カオルが、その客と歩の間に、身体を入れる。

<…>何も言わず、冷やかに、その客の事を見つめるカオル。カオルの眼力で、周りの空気を重たくする。

「…何、何よママ、冗談だよ。歩ちゃんが、素晴らしかったからさぁ、ねぇ、そんなに、怒らないでよ。」

身体を小さくしながら、自分の席に戻っていく客。省吾は、そんな状況を、目にして、ホッとする。浮いていた腰を、椅子に降ろした。歩は何もなかった様に、目の前に現れた。

「省吾さん、居たんですか。聞いてくれました。いつまで、待っても、なかなか来てくれへんし、緊張しましたよ。」

「何、ゆうてんねん、堂々としたもんやったぞ。」

「そうですか。ありがとうございます。」

少し照れた歩の表情が、生き生きとしていた。

「楽しかったか。歩。」

思わず、そんな言葉を口にしてしまう。

『はい!』

気持ちのいい返事に、省吾の表情もほころぶ。カオルの店で、働く事に、いい顔をしていなかった省吾。生き生きとした歩の顔を見ていたら、<まぁ、いいか。>と思ってしまう。

「あの選曲、お前が、考えたんか。」

「うん、面白いでしょ。クラッシックからの、ビートルズ。ジャズで締める。」

まだ、興奮しているのか、タメ語になっている。省吾は、少し気になる事がある。何か、しっくりといかない。とても、物足りないような気がしていた。

「あの曲、歌わんかったな。」

そんな事を考えていたら、自然と、こんな言葉を口にしていた。

<えっ!>そうだ、昨日のあの歌!オリジナルの歌を歌っていない。

「昨日のオリジナルの曲。てっきり、歌うと思っていた。」

そんな言葉を続ける。確かに、いい演奏ではあった。譜面どおり、綺麗な演奏である。この物足りなさは、そこにあるような気がする。歩は、プロではない。譜面通り、オリジナルに近づけようと演奏をする。当たり前の事ではあるのだが、それでは、自分と云うものが表現できない。

「あれは、適当に…詩っていえるものではないし…」

「それが、ええねん。でも、まだ、歌いたくなければ、それでもいいんやけど…煮詰めていけよ。完成させろ。わかったか。」

省吾は、確信した。歩に、【本物】を見たのは、あの曲を歌っている歩である事に、気がついた。

「省吾さんが、そういうなら、譜面を書いて、詩もきちんと、書かないと…」

そんな言葉を口にした時、カオルの言葉が、耳に届く。

「歩ちゃん、例のカマンベールが、オーダーに入ったわよ。」

省吾との会話の途中。もじもじと、どうしていいのか、わからなくなる。

「歩、仕事、仕事…」

そんな言葉を口にして、ニカッと笑ってみせる。歩は、軽く、会釈をして、省吾に背を向ける。

省吾は、煙草を一本口に銜え、火をつける。カウンターの端から、歩の仕事ぶりを見つめている。手を動かし、調理を始める歩。カオルは、テーブル席に出向き、お客に話しかけ、お酒を勧める。ワイワイガヤガヤ、賑わう店内に、色んな人間が、同じ空気を吸っていた。


しばらくして、カオルが、省吾の隣に来る。ある程度注文が、捌けたのか、省吾の煙草を一本取り、一服をしだす。

「あら、何も出てないわね。どうする。まだ、飲むの。」

そんな言葉を掛けながらも、視線の先には、歩の姿がある。

「今日は、飲みすぎたから、もうええわ。ところで、どうや、歩の奴。」

「初日から、この人数を捌いているんだもん。向いているかもね。この仕事…」

省吾の視界にも、歩がいる。手を動かしながら、カウンターに座るお客と、笑みを浮かべ、言葉を交わしている。

「そうやな。初めてとは、思えんぐらいやな。」

そんな言葉を口にして、はにかんでみせる。まるで、二人は、我が子を見るような雰囲気である。

「あっそうや。これ、歩に渡しといてくれや。」

省吾は、そんな言葉を発して、あるものを、カウンターの上に置いた。

「あら、自分で渡しなさいよ。」

「忙しそうやし、これがないと、何やらと不便やろうし、自分で渡すのって、ちょっと、照れるやろ。」

<何よ。それ…>男女間であれば、合い鍵を渡すという事には、それなりの意味があるだろう。この場合は、歩の事を、信用しているからである。【絆】と云う言葉が、省吾に、合い鍵を作らせた。直接、渡すのに、少しの照れてしまうのか、省吾らしい。

「カオル、今日は、歩の事は飲みすぎたわぁ。歩の事は、頼むな。」

ここにも、【絆】がある。さっきとったカオルの行動で、正直、安心をした。酔っぱらいから、咄嗟に、かばったカオルの行動。いつも、歩から、目を離していない事の証明であろう。心配事が、一つ減ったからだろうか、急に、気を張っていたものが緩んでいく。おもむろに立ち上がる。

<わかったわ>カオルのそんな言葉で、笑みを浮かべる省吾。カオルに背を見せながら、右手を軽く上げて、店を出ていく。店の外で、大きい深呼吸をして、自転車に跨った。耳に届く、店内のざわめき声。少し成長をした歩の姿を見られた事が、省吾にとって、うれしかった。ネオンで、輝いている道を、ペダルを漕ぎなから、家路に着く。深夜のヒンヤリとした空気が、省吾の身体を包んでいる。色んな思いを胸に抱き、笑みを浮かべていた。



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