第14話 もしかして、前世は夫婦

薄暗くなった夕刻。省吾は、カオルの店の前にいた。ドアノブに手をやる仕草が、少し緊張をしている様に見える。昨夜、歩は、カオルのマンションに泊まっていた。店を手伝う事になった歩に、細かい話をしたかったのだろう。(歩ちゃん、今日は、泊まっていきなさい)そんなカオルの言葉で、三日振りに、一人の夜を過ごす事になった。

歩自身が、店を手伝いたいと口にした。後は、カオルが生きる世界の事。カオルに任せる事しか出来ない省吾は、夕方には、カオルのマンションを、後にしていた。

自分の家に戻った省吾は、ガラーンとした部屋の中で、言葉に出来ない寂しさを覚える。三日前まで、当たり前だった空間。一人でいる事に、何も感じていなかったのに、歩がいない事に、侘しさを感じていた。

“ギャラン、ギャラン…”扉が開き、鳴り物の音が響く中、カウンターに座り、煙草を吹かしているカオルの姿が視界に入る。

「あら、いらっしゃい…」

カオルは、そんな言葉を口にすると、立ち上がり、当たり前のように、カウンター内に向かう。

「おお…、あれ、歩は…表に、自転車あったぞ。」

カオルの瞳に、視線をキョロキョロさせている省吾の姿が映る。

「買い物、買い物に行ってもらっているのよ。」

そんな言葉を発しながら、省吾の言動に、視線を向けるカオル。省吾は、ソワソワしながら、椅子に座っていた。

「ビール、飲むでしょ。省吾。」

<ああ、頼むわ>省吾は、一気に気が抜けていく。結構、気合いを入れてきた。歩に逢うのに、気合いを入れるというのも、おかしな話である。

「昨日、寂しかったんでしょ。」

ビールを、グラスに注ぎながら、そんな言葉を口にするカオル。

「何、言ってんねん、お前…」

気付かれてほしくない事。咄嗟に、カオルとの視線を、逸らしてしまう。

わかりやすい省吾の言動に、おかしくなってしまい、クスクス笑ってしまう。省吾は、そんなカオルを前にして、ビールが注がれたグラスに手をやり、一気に口に運ぶ。その時、逸らした視線の先、小さなステージの上に、見慣れないピアノが映る。

「カオル、あれ、買ったんか。」

思わず、そんな言葉を発していた。気まずい雰囲気、気恥かしい話の流れを変えるものが、瞳に入ってきた。

(お店で、弾いてもらおうかしら…)そんなカオルの言葉を思い出す。

「本気だったんやな。あの話…」

続け様に、そんな言葉を口にする省吾の視線は、ピアノに向いていた。

「省吾も、昨日の歩ちゃんの演奏に、感動したでしょ。あんたが帰った後、歩ちゃんと話して、弾いてもらう事にしたのよ。で、あれは、レンタル。高いものだから、そう、簡単にはねぇ。」

「ほぉ、ピアノのレンタルなんて、あるんやな。」

カウンター内で、ちょっとしたお通しを、拵えているカオル。

「まだ、仕込み前だから、こんなものしかないけど…」

沢庵を千切りにしたものに、黒ゴマを混ぜたものが出される。

「十分、十分、ありがと。」

省吾は、そんな言葉を発しながら、箸をつけた。

カオルは、自分の煙草に手を伸ばす。一本の煙草を銜えて、火をつける。腕を組むように構え、体重を後ろの棚に預けた。

「さっきまで、すごかったのよ。」

一服した煙草を二本指で挟み、省吾に、こんな言葉を掛ける。

「ハシャいじゃぁって、ハシャいじゃぁって、まるで、玩具をもらった子供のようだったわよ、歩ちゃん…あのピアノが運ばれて、しばらく、弾いていたわ。昨日も、あんたが、帰ってからも、ピアノの前から、離れなかった。」

省吾は、そんなカオルの言葉を、ビールを飲みながら聞いていた。胸の内だけに思っていた事。昨日、歩に向って、言葉に出来なかった事、思い浮かべていた。

「カオル、お前も、飲むか。」

そんな言葉で、ビールを勧める。

「ありがと…」

グラスを手に取り、省吾の酌を受けるカオル。

「省吾、変な事を、言うけどいい…」

ビールが、注がれる間、カオルは、そんな言葉を口にする。

<なんや…>次は、カオルがビール瓶を手に取り、酌をする間、そんな言葉を発した。

「私、歩ちゃんに、才能があると思うの。素人の私が言っても、説得力ないと思うけど、プロになれるんじゃないかな。」

グラスを、口に運ぶ省吾の事を見つめている。昨日、省吾は、演奏をしている歩の姿に、【本物】を見ていた。そんなカオルの言葉を、どう思っているのだろう。

「どう思う、省吾は…」

省吾の言葉を待っていた。言葉を発しようとしない省吾に、たまりかねている。

「どうって、言われてもな。本人が、やる気があるのかやろ。こっちサイドが、騒いでも、仕方がないと、思うで…」

あくまでも、冷静でいようとする。正直に言うと、カオルと同じ気持ちでいる。歩には、才能があると思っている。言葉通り、歩の気持ちも、聞いていないのに、勝手な事は言えない。

「それは、そうだけど、私は、歩ちゃんには、表の道を歩んでもらいたいのよね。昨日の事とか、さっきの歩ちゃんの姿を見ていたら、歌を歌う事が、音を奏でている事が、好きだと思うのよね。だったら、その道で、生きてもらいたい。そう、思ちゃうんだよね。」

省吾の本音を、言葉にしている。今のカオルの言葉は、省吾も思っていた言葉。

「カオル、お前は、嫌なんか、歩に、水商売をしてほしくないんか。」

「水商売をする事は、別にいいのよ。自分が、どれだけ、頑張れるかだし…私も、この商売で、生きてきたわけだし、水商売が、悪いとは思っていないのよ。私は、何の才能もなかったのよ。自分を誤魔化して、生きたくないから、この商売を始めた。只、人の目よ。私達は、カミングアウトをして、この商売をしている。私達の時よりは、受け入れてくれる環境ではあると思うけど、歩ちゃんには…所詮、狭い世界なのよ。」

カオルが、発する言葉に重みを感じる。自分にはない、重いものを背負っている。

「カオル、お前、後悔しているのか。」

「後悔なんて、してないよ。私は、こうだし、誤魔化して、生きていても、つまらない人生だっただろうし、今の自分は、後悔していない。」

省吾の問いに、こんな言葉で答える。正直、今までカオルとは、このような話しをした事などなかった。

「でも、辛さは知っているよ。この世界で、生きていく事の怖さ、痛み…自分に正直になろうとすれば、絶対に付いてくる現実。自分の身体を女性にして生きていく者、私みたいに、男の身体のままで生きていく者。カミングアウトをして、この世界で生きていこうとすれば、逃げ道がなくなってしまう。だから、二丁目みたいな場所を造りたがる。私は、この街でしか生きていけない。歩ちゃんには、なんて云うのかな、もっと、広い世界で、生きてもらいたい。この街でしか、生きていけない私みたいには、なってほしくないのよ。」

また、重い言葉である。カオルも、こんな突っ込んだ話しをした事がなかった。指に挟んでいた煙草が短くなっている。カオルは、もう一本取り出し、煙草を銜えて、火を付けていた。

「俺も、歩には、陽の当たる場所で、生きてもらいたい。お前には、悪いけど、水商売には、闇のイメージを持っている。歩には、そんな場所には、居てもらいたくない。」

省吾は、本音を言葉にする。今まで、踏み込んでこなかった事を言葉にした。

「俺も、歩には、音楽の才能があると思っているねん。俺みたいに、芽が出るまで、時間がかかるかもしれん。でも、音楽が、あいつの夢であれば、その道で頑張ってもらいたい。お前には、悪いけど、この商売は、夢が叶うまでの糧に…」

省吾は、突然、言葉を止めた。今、言葉にしている事は、カオルの生き方を否定しているように思えた。省吾は、俯いたまま、ゆっくりと、ビールの入ったグラスを口に運んでいる。

「省吾、別に、気にしなくてもいいよ。言いたい事を言いなさい。」

カオルは、そんな省吾の態度に、敏感に反応する。良く考えてみれば、二人のいる世界は、全く違う。二人は、いい距離感で付き合ってきた。

「あんたと、私は、全く違う生き方をしてきたわけだから、価値観も違う。だから、いいのよ。」

続けて、そんな言葉を口にする。カオルは、少しうれしかった。仲がいいとは云っても、お互いの胸の奥底の言葉を、交わしていなかった。お互い大人である。言葉にしていい事は、わかっていた。今更、本音をぶつけ合って、喧嘩になっても、この関係は壊れないと信じている。

「ごめんな、カオル…偏見と云うか、偉そうな事言って、俺も、まだまだや。」

なぜか、謝ってしまう。省吾も、おもむろに、煙草を取り出し、吹かし出した。二人しかいない店内、二人が吐く煙草の煙が、立ち昇っていた。

少しの間、沈黙の時間が流れていた。省吾は、ふと、思いがけない言葉が、頭に浮かんで、噴き出してしまう。こんな事を、考えてしまう自分をおかしくも思ながらも、カオルの顔を見つめて、話し始める。

「おかしいな、なんか、自分の子供を心配している親のような会話をしてないか。」

カオルの表情が、一瞬、ハッとなる。すると、カオルも噴き出していた。

「そういえば、そうね。私達、何を話しているんだろ。」

「ホンマに、おかしいな。歩の将来、こうなってほしいとか、こっちの世界には、居てほしくないとか、まるで、親やで…」

そんな事を口にして、照れ笑いをしている。

カオルは、想像もしていなかった省吾の言葉に、納得してしまう。確かに、子供の先行きを、心配する親の心境。重たかった空気が、一気に和んでいく。

「もしかしたら、俺達の前世は、親子やったんかな。」

この言葉で、カオルの表情が、一気に、微笑んだ。

「じゃあ、省吾が父親で、私が母親!いやだ、私達が、夫婦なの。」

「もしかしたら、その逆かもよ。」

そんな言葉で、二人は、大笑いをしていた。さっきまでの、重苦しい空気は、もうここにはなかった。

「もう、嫌だぁ、省吾。想像しちゃったじゃないの。省吾の母親姿…」

「綺麗やろ。」

店内が、二人の笑い声で、いっぱいになっていく。いつもの二人に、戻っていた。二人は、歩の事を気にかけているからの会話であった。いい距離感で、付き合ってきた二人が、初めて、お互いの突っ込んだ言葉を、ぶつけあった。こんな会話をして、大笑いをしているのだから、よかったのだろう。少し、奇妙ではあるが、二人は、もう歩の親なのかもしれない。


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