第11話 東京 自転車散策

翌日、快晴の空の下。二人は、自転車に乗っていた。観光がてらのサイクリング。一人暮らしである筈の省吾。なぜか、サイクリング用の自転車が、二台あった。

(毎日、同じ自転車やったら、飽きるやろ)

…と言った省吾の談。歩が乗る自転車には、しばらく、乗っていなかったような、サドルに埃が被っていた。まぁ、詳しい事は、突っ込まない歩。とにかく、二人は、渋谷区、明治神宮の方向に向かっていた。

道の知らない歩。只、省吾の背を見つめながら、ペダルを漕いでいた。昨夜の夕食の後、東京の観光がしたいと云う話になり、会話をしている内に、今日の自転車散策の案に、歩が飛びついてしまった。ちなみに、歩は、その案に乗かってしまった自分に、ちょっとした後悔をしている。

代々木公園、二人は、自転車を降りて、休憩をしている所。

「歩、どうや、気分がいいやろ。」

短くカットされた芝生の上に、全体重を乗せて、座り込む省吾。

「気分いいっていうか、怖かったよ。あんな街の中、自転車で走ったことないもん。」

歩の表情は、緊張が解けていなかった。考えてみれば、そうかもしれない。こんなに、周りに気を配って、自転車のペダルを漕いだ事はなかった。田舎では、自転車や歩行者がいれば、車の方が避けてくれる。それだけ、車の方にも、走る道にも、余裕があると云う事になる。しかし、東京と云う街は、自転車や歩行者の方も、気を配らないと、最悪、事故になってしまう。そんな事に、慣れていない歩にとっては、必死であった。

歩は、芝生に寝転がり、身体全体を伸ばす。すると、視界に、東京の空が飛び込んできた。

「ふぅん…。わぁ、空が高い!」

緊張がほぐれたのか、マンションの前で、空を見上げた時よりも、高く見える。そんな言葉を発した瞬間、歩の身体全体に、風が当たる。夏の爽やかな風が、身体を覆っていた。

「ところで、歩は、やりたい事は、ないんか。」

おもむろに、そんな言葉を口にする省吾。

「…やりたい事ね…」

芝生に寝転び、そんな言葉を発して、しばらく、考え込む。

「やりたい事…そんなはっきりしたもん、ないかなぁ。」

「じゃぁ、一番好きな事は、ないんか。」

そんな省吾の質問が続く。省吾が、意図にしているものは、何なのであろう。

「一番好きな事って…音楽かな。私ねぇ、小さい時から、ピアノ、習ってたん。」

歩は、起き上がり、楽しそうな表情をする。

「中学の時は、吹奏楽で、トランペットやってたし、今も、高校でも、吹奏楽に所属しているんよ。」

何か、饒舌になる歩。楽しそうに、笑みを浮かべている。省吾は、そんな歩の言葉に、何かを感じ取っていた。

「でも、最近は、弾いてないなぁ、ピアノ。吹奏楽も、さぼり気味やし…」

「ほぉ、そうか…良かった。良かった。」

そんな省吾の言葉に、頭を傾げる。言葉の使い方を間違っているように思う。

「なんで、よかったんよ。」

思わず、そんな言葉をぶつけてしまう。

「いや、やりたい事はないっていっても、好きな事は、あるんやろ。それで、ええんと、思うんよ。何もなかったら、この先、つまらんやろ。」

そんな言葉を発して、遠くを見つめる。省吾の言葉に、なんとも言えない重みがあった。

「そうかなぁ。」

歩も、省吾の言葉に応える様に、そんな言葉を発して、遠くを見つめる。二人の見る先には、何を見つめているのだろう。

「…そろそろ行くか。」

省吾は、そんな言葉を発して立ち上がる。歩は、釣られる様に立ち上がり、自転車散策が再開する。二人の乗る自転車は、国立競技場、青山一丁目を通り、日比野公園に向かっている。その頃には、東京の街を、自転車で走る事に慣れ始める歩。数時間前の怯えがなくなり、周りの風景に目を配る余裕さえ、見えている。

日比谷公園の入口の所で、自転車を降り、押し始める省吾。後に続く歩。二人は、空いているベンチを見つける。

「歩、休憩しようや。」

そんな省吾の言葉に、素直に従う歩。ちょっとした沈黙があり、歩が、省吾に、こんな質問をする。

「ねぇ、省吾さんって、なんで、小説、書いてんの。」

突然の問いかけに、言葉に戸惑う。

「なんやねん、急に…」

「いいやん、教えてぇや。」

「別に、たいした理由なんて、あらへんよ。父親に対する意地やなぁ。」

「意地?」

歩が、期待していた言葉とは、違っていた。【夢】とか、【目標】とか、そんな言葉が、返ってくると思っていた。

「こっちに、出てきた時は、違う目的があった。歩が、好きやって言っていた(音楽)や。大阪では、そこそこやってたさかい。正直、(音楽)で、飯を食っていこうと思とったんよ。でも、まぁ、半年で、無理やと、悟ったわぁ。俺ぐらいのレベルの奴、いっぱいおってな。結構、自信があったから、落ち込んだわぁ。」

大阪から、出て来た当時の事を思い出しつつ、言葉にし始める省吾。

「俺なぁ、高校中退してもうて、定時制に、移ったんよ。定時制に通っているのに、親元にいるっていうのも、嫌やったし、最後の一年ぐらいは、親元から離れて、高校を卒業しようと思って、横浜の定時制に移ったんやけど…(音楽)は、半年で崩れた。」

急に、寂しそうな顔をする。そんな省吾の横顔を見つめる。

「大阪出る時、親父と、めっちゃ、喧嘩したからな。高校を卒業して、帰ろうかと思ったけど、なかなか、帰るに帰れねぇやろ。でもな、ある時、こう思ったんよ。俺、音楽よりも、詩、言葉を書くのが好きなんじゃないのかって…詩って、一つの物語を、めっちゃくちゃ、短くしたものやん。それやったら、俺にも、書けるんじゃないかなぁって、思ったんよ。これで、大阪に帰る理由は、無くなったわけよ。後は、意地やな。」

(だから、意地ってなんなのよ)

そんな歩の心の叫びが、聞こえてきそうである。

 「子供の頃から、親父の事が嫌いやった。酒を飲む親父。煙草を吸う親父。ギャンブルをする親父。全て、親父のする事が、気に入らなかった。でも、親父がやっていた事の中で、俺がやらなかったのは、ギャンブルだけや。後は、全部やってる。情けないけど、子供の頃、見ていた親父とそっくりやねん。当たり前やろうけど…」

 「省吾さん、だから、意地ってなんなん!」

 歩は、堪えられ切れなくなって、そんな言葉を発してしまう。【意地】と云う言葉が、何であるのか、聞きたくて仕方がない。

 「わからんか、これが意地や。大阪に帰らず、自分の生き方を、親父に見せる事が、俺の意地やねん。」

 そんな言葉を言い切る省吾。【自分の生き方】と云う言葉が、心に響く歩。考え込んでしまう。自分が背負ってきたものを、考え込んでしまう。昨日、省吾に対して、少し開いた心の扉が、音を出して、開いていく。

 「省吾さん、私、性同一性障害なんです。」

 そんな突然の告白に、省吾は、少しも驚いていない。俯き加減で、地面を見つめていた省吾。

 「で、お前は、どないしたいねん。」

 そんな言葉を、静かに呟く。省吾は、冷静であった。顔を上げて、歩の事を見つめて、発した言葉。

 「それが、わからないんです。省吾さんが言った、【自分の生き方】が…」

 「そうやな、だから、ここにおるんやもんな。チョイ、待ちや。」

 そんな言葉を発して、立ち上がり、歩と距離をとる。携帯を取り出し、誰かに、電話を掛け出す。

「もしもし、カオルか…」

聞き耳を立てているわけではないが、微かに、そんな言葉が歩の耳に届いた。

『省吾、連れてきなさい。すぐに、歩君を、連れてきなさい。今から、住所、言うから、いい。』

省吾とカオルとの会話。省吾には、重身な歩の悩みに、カオルに助けを求めた。

「ちょっと、カオル、今、歩と変わるわ。」

そんな省吾の言葉で、携帯を手渡される。

「歩君。私、わかる。今から、私の家に来なさい。話を、聞くから、考えよう。これからの事、私も一緒に考えるから…ねぇ、おいで、待っているから…」

優しい言葉が、歩の耳に届いた、カオルと省吾の勝手なおせっかいと言っていいのかもしれない。三日前に、出会ったばかりの人間に、どうして、こんなに優しくされるのだろう。素直にうれしく思う。

「歩君、甘えなさい。私に、省吾に、甘えていいのよ。歩君は、誰かの助けが必要なの。私は、貴方を助けたいの。だから、甘えていいの。」

携帯の向こうから、必死になるカオルの言葉が、聞こえてくる。歩は、<コクリ>と頷き、こんな言葉を口にした。

「はい、行きます。本当に、ありがとうございます。」

隣にいた省吾も、頭を上下させていた。昼下がりの日比谷公園での出来事。

二人は、歩き始める。歩が求めていた場所に…自分の存在を、認めてくれる人の元へ…自分の生き方を決める為に、省吾と一緒に、歩き始めた。


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