第5話 焼き魚定食 美味しい
<あっ!>そんな言葉を発して、椅子を廻し、私の目の前に、顔を突き出す省吾。
…そんな省吾の言動に、身を引いてしまう。カウンター内では、カオルが、魚の切り身に、包丁を入れている。
「なぁ、自分。名前、聞いとらんかったなぁ。なんて、ゆうん。」
そんな省吾の言葉に、持っていた包丁の動きが、止まってしまう。公園での事がある。カオルは、思わず、身を乗り出してしまう。
「省吾…」
「…宮本、宮本歩と、言います。」
カオルが発した言葉と重なるように、そんな言葉が聞こえてくる。カオルは、ホッとした表情を浮かべていた。無理やり、名前や事情を、聞き出しても、何にもならない。この子が、悩み、苦しんでいる事は、何十年前のカオル自身が、そうであったように、気持ちはわかっていた。
「宮本歩君か。あゆむって、<歩く>って、書くんか。」
コクリ!
「いい名前や。俺は、木村省吾や。名前ぐらい、知っているやろ。」
声を発せず、返答に困る歩に、省吾は、こんな言葉を続けていた。当たり前ではあるが、首を傾げる歩。今、出会った人間の名前など、知っているわけがない。
…
「なんや、知らへんのか。かぁ~、俺も、まだまだやなぁ。」
省吾は、そんな言葉を口にして、片手をおでこに当てて、天井を仰いでいる。
「何、言ってんだか。」
カウンター内で、クスクスと笑いながら、そんな言葉を発していた顔を、睨みつける省吾。
「ごめんね。歩君だったわね。こいつ、これでも、物書きなのよ。小説。作家の卵。まだまだ、ひよっこなのよ。」
手を動かし、そんな言葉を、会話の間に入れてくるカオル。
「チョイ、カオルよ。その言い草は、ないいんとちゃうん。ひよっこて…」
「違うの。省吾君。」
今度は、カオルの方が、省吾を睨みつける。
「まあ、確かに、まだまだですけど…連載、二つ、持っているちゅうねん。」
省吾の声のトーンが、落ちていく。
「その連載のものが、書けなくて、ここに来たんでしょ。省吾君。」
うぅ…省吾は、返す言葉が無くなってしまう。痛い所を、突かれていた。新人作家。書けなくて、ここにいる事。返す言葉がないほどの図星。敵を威嚇する子犬の様に、唸っていた。
そんな二人のやり取りを見て、自然と、笑みがこぼれていた。こんなに楽しいと思ったのは、いつ振りだろう。
「はぁい、出来ました。焼き魚定食の出来上がり…」
カオルが、そんな言葉を添えて、お膳をカウンターに差し出す。子犬の様に、唸っていた省吾の表情が、コロッと変わっていた。
「歩君も、こっちに来て、食べなさい。ほら、冷めないうちに…」
そんなカオルの言葉に、歩は甘えた。テーブル席から、カウンターに移る際、すでに、省吾は、お膳に箸をつけていた。
「コラ、省吾。いただきます、ぐらいしなさい。」
呆れ顔のカオルの言葉など、お構いなしに、お膳のものを、頬張る省吾。
<いただきます>そんな省吾の隣で、静かに手を合わせた歩。昨夜から、何も口にしていない。省吾の様に、口の中に、掻っ込みたいであろうが、少しの恥じらいが、そうはさせなかった。
さっきまでの自分が、嘘のように思える。思考回路が止まり、一日中、東京の街を彷徨っていた。昨夜、家を飛び出してからの記憶が、全くない。只、電車の車窓から見ていた、暗闇の風景だけが心に残っていた。数年前から、抱いていた、自分の闇の部分を見つめる様に、心に残っていた。そんな自分が、どこかに行ってしまっていた。この数年、閉ざされていた心の扉が、少し、開きかかっているのかもしれない。
しばらく、無言の時間が流れる。カウンター内には、体重を半身に掛けて、腕組みをしているカオルが、煙草を吹かしていた。省吾は、すでに食べ終わり、爪楊枝で、歯の隙間をほじっている。歩は、そんな二人の事など、気にせず、ゆったりと、食事を進めていた。
<ご馳走様でした>省吾よりも、随分遅れて、箸を置く歩。手を合わせる。とても、おいしかった。こんなに、味わって、食事をしたの、いつ振りであろう。
「はい、お粗末でした。」
カオルは、そんな言葉を発して、お膳を下げる。後ろ身を見ているだけで、ホッとした気分になるのは、なぜだろう。
「腹も、膨れた事やし、酒でも飲むか。」
省吾は、そんな言葉を口にするが、カオルは、洗い物をしていて、反応をしない。
「駄目です。もう、随分、飲んだでしょ。」
「なんやねん。これからやん。」
「今日は、悪いけど、歩君、連れて、帰って…」
省吾の耳、歩の耳に、そんな言葉が届く。カオルは、正面を向いて、煙草に火をつける。
「えっ、なんでやねん。」
「いいえ、私は、もう…」
各々に、言葉を発している。カオルのゆったりとした、煙草の吸い方が怖い。
「省吾、この状況、説明しなきゃ、わからないわけ…大体、想像がつくでしょ。私は、今から、この店を開けなきゃ行けないの。今、ここで暇なのは…省吾、あなただけよね。」
静かに、そんな言葉を、口にし始める。
「歩君、あなたもよ。未成年のあなたを、じゃあ、帰ってって、そんな無責任な事、私が、言うと思う。」
続ける言葉を、二人に向かって、発している。そんなカオルの姿に、歩は、言葉を返せないでいた。
「分かったわね。じゃあ…はい、はい、帰った。帰った。私は、忙しいんだから…」
煙草を揉み消し、両手を叩きながら、カウンターから出てくるカオル。二人の背中を、押し出していた。
「あの、カオルさん、私は、これで…これ以上、迷惑、掛けられへんし…」
歩は、恐縮しながら、そんな言葉を口にする。背中を押す、力が緩む。
「あら、もしかして、こいつの事、疑ってんの。大丈夫。こいつ、私と、違って、ノーマルだから、襲われる事はないわよ。」
<えっ…>場所は、新宿二丁目。壁と云うものがない二人。歩は、ちょっとした、誤解をしていた様である。
「あれ、歩君。ちょっと、嫌だ。私と省吾が、そんな関係だと思ってたの。私は、面食いなの。省吾は、ちょっと…」
「チョイ、まちぃ。歩君、それは、心外やデ、何で、俺が、こんなおカマと…」
二人とも、ケンがある言葉。また、言い合いをしそうな雰囲気ではあるが、二人は、笑みを浮かべていた。
「あっ、省吾。自転車は、駄目よ。あんた、結構、飲んでいるんだから、二人乗りして、歩君が、怪我でもしたら、大変だから、タクシーしなさい。」
その時、カオルが、歩の耳元でこんな言葉を囁く。
「歩君、これ、私の携帯の番号。いつでも、連絡してきなさい。この時間には、大抵、この店にいるから…待っているから…」
そんな言葉と一緒に、折りたたまれた紙を渡される。まるで、自分の子供に、話しかけているようである。
再度、カオルに背中を押される二人。省吾は、文句を言っているが、カオルに従い、身体の力を抜けていた。
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