第2話 東京の街 彷徨う
私は、不意に、空を見上げる。生まれ育った田舎の空ではなく、ビルの谷間から見える東京の空。視線を、少し下げる。
【歌舞伎町一番街】
そんな文字が、瞳に飛び込んできた。アーケードの入り口。歌舞伎町のネオンが、夕刻なのに、輝いている。何故、こんな所にいるのだろう。
「歌舞伎町…」
そんな言葉を、静かに呟く。今日、初めて、発した言葉。こんな所で、何をしているのだろう。
昨日の夕刻。父親に、頬を叩かれた。その後、家を飛び出てしまう。私が、背負っているもの。その重みで、潰れそうになる。何も、考えられないまま、電車を乗り継いで、名古屋に出た。午前0時発、東海道線、東京行き。鈍行の電車に乗っていた。
<何で、東京行きなん>そんな言葉など、どうでもよかった。只、どこかに、行きたかった。行く場所など、どこでもいい。私の思考回路は、父親に頬を叩かれた瞬間、止まっていた。
歌舞伎町に、群れる人間達のざわめき、声色。心に響かない音楽。只の雑音が、私の身体で、弾じかれて、消滅している。人口密度が高い。気をつけて歩かないと、人にぶつかってしまう。今の私には、そんな事も考えられないでいる。
ざわめく、色んな人間が、重なり合い、異様なほどに活気のある街。(二十四時間、眠らない街)。ド田舎で、生まれ育った私には、眩しいはずの街が、どんよりと、淀んでいる。そんな中を、私は歩いていた。昨夜から、一睡もしていない。眠たい筈なのに、全く、睡魔が襲ってこない。歩いている私、周りの人間に、どんな風に映っているのだろう。昨夜、車窓から見つめていた、暗闇の風景の中にいる。雑居ビルが、立ち並ぶ歌舞伎町。高校入学時から、伸ばし始めた私の髪が、風になびいていた。
午前八時前後に、乗ってきた電車が、東京駅に着いた。この約十時間、私は、何をしていたのだろう。只、東京を歩いていた。どこを、歩いていたのか、土地勘のない私には、全く、わかっていない。覚えていないと言った方が、正確かもしれない。思考回路が、止まっていた私とって、なぜ、東京にいるのか。どうして、東京に来たのか、考えられないでいた。一つ、はっきりしている事は、私は、逃げたかったのだ。どこでもいい。どんな所でもいい。私の事を、誰も知らない土地。父親、母親のいない土地に、逃げたかったのだ。本当の私を、偽れない。背負いきれなくなった。心の荷物を、ほおり投げたかった。ビルの谷間を、只、彷徨っている。
(今、何時なのだろう)そんな言葉が、頭に浮かぶが、すぐに消えてしまう。私は、今、どこかの公園のベンチに、座っていた。多分、歌舞伎町から、そんなに遠くない場所。疲れたから、このベンチに座っているわけではない。歩いていたら、この公園が、視界に入ってきた。無意識に、足を進めていると、瞳にベンチが映った。だから、座った。このベンチに座った事は、何の意味もない。
視線を、少し上げてみると、お寺の本堂なのだろうか。それらしき屋根が見える。
「今、何時なんやろ。」
私は、そんな言葉を口にしていた。公園の外灯だけの淡い灯りが、周りを照らしている。道の方は、それなりの人間の往来があるのに、この公園内は、シーンとしていた。
人間とは、不思議なもので、座っていると、色んな事を考え始める。昨夜から、止まっていた思考回路が、少しずつ、働き出したようである。
三日前、私の、唯一の理解者であった人が、亡くなってしまう。中学時代の吹奏学部の顧問で、国語の授業を担当していた。残念な事に、三年間、私のクラスの担任にはならなかった。私は、その人に恋をしていた。いや、恋と云うよりも、憧れに近かったのかもしれない。私に、勇気をくれた。私を、見守ってくれていた。そんな人が、突然、逝ってしまう。座っていると、そんな事を考えてしまう。
「何で、何でなん。」
悲しい筈なのに、寂しい筈なのに、涙が出てこない。【僕】から、【私】にしてくれた人。私が、病気ではないと、言ってくれた人。そんな大切な人が逝ってしまったのに、涙、一粒も流さないなんて、私って、冷たい人間なのだろうか。
私は、今日一日、どこを歩いていたのだろう。そんな事を考えたくないから、ひたすら、歩いていたのかもしれない。身体が、勝手にそんな行動をとってしまったのか。まぁ、今となっては、別にどうでもいい事である。しばらく、このベンチに座っている事にした。
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