第05話 無事がほしい

 幸運にも二階の窓の下は沼みた以下に柔らかい地面だったので、落ちてもふたりとも、無事だった。

 もとい、無事といっても怪我がなかっただけで、どべ、っと泥のなかに落ち、また、その泥がしっとりとしていて、深みもあり、着地することもままならず、背中から落ちて、その後、立ち上がったときに前からこけて、完全に泥まみれになった。

 あらゆる箇所から泥をぼてぼてとしたたらせる。いろいろくじけそうだった。わたしは「乙女に穢れが」と、口走り、遊び御心でなんとか、なにかを乗り切ろうとした。

「狼も出たし、調査は終了」

隣でハトリトさんはそう宣言した。この人も泥だらけである、姿勢が異様にいい。衣服の不自然な青みもある泥まみれで、得体の知れない存在に仕上がっていた。

 見返すと「狼が出たら、調査は終了さ」と続けた。

 おい、どう考えても、まだ屋敷の半分以上をめぐっていていないぞ。

 でも、まあ、その通りですね。わたしは心なかで同意した。あくまでも、心のなかでだけ。口に出して同意したら、あとで、きみもそう言ったじゃないか、と、共犯へ持ち込まれる展開を逃れるためにほかならない。

 狼も出たし、噛まれるのは嫌だった。かりに、狼側がわたしの本質を見抜き、なつかれてじゃれられても怖い。はたくも泥が固まってきて、石化したみたいになって動きにくいのも大きい、引き上げることにいっさい口に出して反対はしなかった。

 なにしろ、責任はハトリトさんがすべて取るわけだし、わたしの社会的な立場は無事だ。

 で、さあ、この中途半端な調査結果でどうするのか、ハトリトさんよ。

 お手並み、拝見である。

 そんな勝手に上からの立場を味わいつつ、不足した調査結果と、泥だらけの全身を携え、作家のおばあさんの元へ向かう。ある程度の泥は、途中で落とした。

 わたしも作家のおばあさんの本は読んで来ている、予習済みである。物語の大半は、あの屋敷のなかで展開され、横恋慕する人とか、お金狙いの人とかも出てきて、本の最後は、つづきで終わっている。主人公のふたりの恋がどうなるかは、じつに気になるところだった。

 作家のおばあさんに家につくと、ハトリトさんは書きかけの見取り図は披露しないまま、口頭で説明しはじめた。

 まずは屋敷の外観だった。それから中に入るとどんな感じだったか。ふしぎだったのは廃墟になって、狼まで住み着いているはずなで、わたしもこの目で見てきたはずなのに、聞いていてあまり廃墟と感じない。しかも、決して嘘はついていない。しだいにハトリトさんは、おばあさんがこれまでに書いた物語の数々の場面を屋敷の情報を組み合わせ、さらにそこへ登場人物たちを置いていく。

 わたしは目を開いた。

 まるでもう新しい物語が動いているような話し方だった。それも、決して、強引に物語るのではなく、あくまでも、物語が瓦解しないように話している。

 とにかく、驚くべきは、ハトリトさんの話し方だった。その本の続きを、そのまま、読み上げているみたいな、でも、どこか、小さなまちがいで、すべてくずれてしまいそうな、そんな曲芸みたいに危うい感じの、ふしぎな調査報告をした。

 見ると、作家のおばあさんの目も大きく開いている。

「以上です」

 ハトリトさんがそういって話を終わらせた。長い時間が、あっという間に過ぎていたし、その話を聞いただけで、本の続きに触れたような気持ちになっていた。

 作家のおばあさんは「ありがとう、わたし、続きが書けそうです」といった。

 なんだろう、ふしぎな仕事だった。いや、わたしはまだ学生である、他の仕事もよく知りはしない。でも、いままで味わったことにない、感覚だった。

 ハトリトさんが丁寧に挨拶して、作家のおばあさんの家を後にする頃には、夕方になっていた。

 帰り道を歩きながらハトリトさんはいった。

「あぶないところだった」夕陽を眺めながら言う。「誤魔化し、切れた」

「かっこわる」

 至近距離から、手加減なく教えておいた。

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