第31話 ハープーン⑦

 船着場から漕ぎ出した船は帆船だ。柔らかな風では速度が出ない。リャンと俺とでオールを回しても高が知れている。しかし遠目に見覚えのある船影が現れた。セント・ヘレナの港を出航して、波を切り沖に向かっていく。湾口側の頂に建つ櫓から、狼煙が上がっているのが見える。鯨を見つけた合図だ。

「間に合わない」

 リャンは船尾に立ち上がり、遠去かる岸壁に対して、息を吸った。甲高く鋭い呼び声が水面にこだまする。と、潜んで着いてきていたのか、すぐに二頭の鯱が姿を現した。

「サク、太白タイバイにつかまって」

「ええ!?無茶だろ」

 鮑採りの際に何度か出遭ってはいるし、リャンが側にいたので触れることもできたが、一緒に泳ぐとなると、話は別だ。背ビレを掴んで引っ張ってもらうにしても、鯱の泳ぐ速度は時速50kmにも達する。ゆっくり《slow down》って言えば分かるから、とリャンに投げ込まれ、俺は太白の大きくて滑らかな背の上に落っこちた。

 水面下を飛ぶように泳ぐ太白の背ビレにしがみつき、何とか水しぶきの上に首を出して前方を見れば、スクリュー船がぎりぎりと肉迫する先で、どっと水柱が立った。鯨の巨大な尾が、水を叩く。船体が横波に跳ねるが、強度を増しているのか、危なげなく舵を取っている。躍り上がった半身はやはり皇后エンプレスのものだ。打ちつけられた重量で、津波のような水の嵩が、周りを薙ぎ倒す。

ハープーンが来る!」

 目の前を駆けるリャンが叫ぶ。と同時に、破裂音がした。全身にぶわりと怖気が走る。リャンと熒惑インホウは船と皇后の間に割り込もうとするが、激しく悶える波に押し戻される。先ほどの銛は致命傷にはならなかったようだが、捕鯨銃にどれだけの火薬が残っているのか分からない。

 圧倒的な力に潰されそうになって、俺は太白の背にしがみついていることしかできない。優しい太白は熒惑が心配なのと俺を守るので、ヒレを震わせ威嚇するように旋回する。どうしたらいい、俺は真っ青な海に陥りそうになった。


 戻っておいで

 子供の泣く声がした。振り向くと、嵐のような水流を避けた澱みに、仔クジラが揺蕩っていた。母親が守っているのは彼だ。だが幼い彼は怖くて逃げられず泣いている。底無しの水辺に浮いて、澄んだ眼がじっとこっちを見て光っている。そうか、と俺は気が付いた。

「行こう、みんなでやれば大丈夫」

 俺は太白の背を撫ぜ、仔クジラに向かって言った。どおん、と雷が落ちたように海面が裂けて、波が押し寄せる。太白は仔クジラが着いてきていることを確認すると、船の反対側へ回り込み、突進した。皇后を夢中で追っているセシル・ドーソンは完全に虚を突かれただろう、船の腹に体当たりし、ぐいぐいと押し上げる。仔クジラも一緒になり、鼻頭と頬が擦り傷だらけになるのも構わず身体を押し付ける。渦から抜け出してきたリャンと熒惑も加わる。かしいで舵の効かなくなった船では、セシル・ドーソンがやっと何事かとこちらを覗き込み、波に声はかき消されてしまうが、地団駄を踏んで怒っている。しかしピット爺さんが背後からひょこりと顔を出し、セシル・ドーソンに何事か伝えると、顕示欲の強すぎる男は大袈裟に肩を竦めて踵を返し、行ってしまった。捨て台詞すら聞こえないが、どうやら笑っているようなので、なにがしかの取り引きがあったのだろう。年季の入りようが違う。

「ルカ、シャフトから水が入っちまった、こっち来て手伝え」

 追いついてきたジナとルカの船に向かって、ピット爺さんが声を張り上げる。ルカは肩を揺らして傍らのジナを見るが、ジナはよくする呆れたような愛おしいような横顔で笑うだけだった。

「行きなさいよ、あの人たち、ルカがいないと沈んじゃうわ」


 仔クジラはすり傷だらけの身体で恐る恐る母親に近づいていく。今は静かに揺らめいている皇后の目元にさざなみを立てると、親子は大きく翻り、泳ぎ出した。もはや掴まっている力も無く、太白の背で伸びていた俺は、傍らでリャンが親子に手を振っているのを見ていたが、ぐらりと海面が振動したかと思うと、皇后が一際高く跳んだ。水飛沫が明るい天に散らばり、波間に浮いた俺の上に、逆さまの虹をつくった。

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