第27話 ハープーン③

 虫の音が賑やかだ。耳元から裏庭から林から、何重にも連なって響いてくる音色に包まれると、暗く暖かいどこか、母胎の中に浮遊しているような感覚におちいる。何か大きくて大勢集まった生命に、抱かれているような気持ちになる。


 ふいに、戸を叩く音がした。俺は静かに毛布から起き出して、ドアホールに立った。街外れの小屋を、ノックして訪問する泥棒もいないだろうが、警戒して外の音を伺う。

「サク、ごめんね」

「……ジナ?」

 戸を開けると、スカーフを被って、青白い顔をしたジナが立っていた。その傍らで、苦々しい顔をしたリャンが、ランプを掲げている。ただごとではない様子に、俺は二人に室内へ入るよう促した。

「あの男、ここで捕鯨を始めるって言ったんですってね」

 薄暗いランプの光の下、ジナの爛々と輝く瞳がこちらを見て、俺は鳥肌が立ちそうになった。


 数日前、ずぶ濡れになって俺たちはスクリュー船の試運転から戻ってきたのだが、セシル・ドーソンは上機嫌だった。造船所の親方を掴まえて、ああだこうだと改良の要望を伝えている。

「やはり速度が欲しいな、小回りが効くように。それから銃器台と牽引もだ」

「私は軍用船は造らせんぞ。資材の無駄だ」

 湿ったコートを替えながら、ミスターローランドが冷ややかな声で応える。ははあ、違うぞ、ブランディ、とセシル・ドーソンは歌い出しそうに言った。

「捕鯨銃さ。じゃじゃ馬ならしといこうじゃないか」

 18世紀から19世紀にかけて、捕鯨は大規模な産業へと展開していた。鯨油は灯火燃料、ろうそく原料、機械用潤滑油、皮革用洗剤などとして、鯨髭は丈夫な繊維として衣服や装飾品、家具道具類に用いられた。アメリカが日本に開国を迫った理由の一つは、捕鯨船の補給地を確保するためであった。と、思い出せるだけ頭の中で羅列してみるが、それは俺が動揺していたからである。現代においては政治的な問題となっていて自分の立場を表明しにくいが、皇后エンプレスとその子供に出会ったばかりでは、とても捕鯨のことなど考えられなかった。

「やめて下さい、ミスター」

 なんとも言えない気持ちで口をもごもごさせていた俺は、異論を唱えた人物にぎょっとした。控えめに一歩踏み出し、泣いたせいか紅くなった目元で、リャンが縋るように言ったのだ。白くなるほど握った拳が震えている。

「キラー・ウェールを獲るつもりはない、むしろ追い込みに協力して欲しいところだな」

 傲岸不遜な男は、自分の計画に横槍を入れられたことに、苛立ち始めの鼻を鳴らした。リャンは怯えたように肩を揺らしたが、引かなかった。

「お願いです」

「あのな、リャン。俺はどんな差別もしない。人は羊も牛も消費するんだ、鯨だけ特別じゃない。そうだろう?」

 なるほど、セシル・ドーソンとはそういう男である。ミスターローランドは階級という枠組みにとらえられており、俺たち下位のものも動物も一緒くたに扱う一方で、ノブレス・オブリッジだか知らないが、指導し保護しようとするところがある。そこに情は無い。セシル・ドーソンも恐らく人間と動物の間に優劣を設けないが、つまり全部ひっくるめて実力主義の弱肉強食なのだ。ヒトだろうが動物だろうが、強いものが勝つ。そしてこの男は、勝ち続ける自信が有る。

「ですが、」

「リャン、お前は賢い。聞き分けろ」

 セシル・ドーソンの若干尖った語気に、リャンは青くなって口をつぐんだ。呪縛のような言葉だ。そうやってずっとリャンは、沢山のことを諦めて、辛いことも悲しいことも怒りも、一人で耐えてきたのだろう。オルカや鯨たちだけが、彼の思いを聞いてきたのだ。セシル・ドーソンは濡れた上着を肩に引っ掛けて去り、俺たちも片付けに戻っていった。夕月が、ぽつんと透明な空に昇っていた。

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