第26話 ハープーン②

 潮風を切って、船は進む。船大工たちは機関室と船尾を行ったり来たりして記録を取っている。俺は邪魔しないように甲板の端で、流れる風景を見ていた。操舵室からミスターローランドどセシル・ドーソンの、議論しているのだか、ケンカしているのだが、漫才しているのだか分からない声が響いてくる。

「大洋に出る」

「許可するが、陸棚りくほうに沿って走航しろ」

「大丈夫だろ? 安定はよさそうだぜ、速度は出んが」

 どうやら湾外にまで航行するつもりらしい。船大工たちは波が泡が水が燃料がとばたばたし始める。ピット爺さんだけは、ずっと船尾に立って航跡を見つめている。リャンはどこだろうかと甲板を見渡すと、操舵室の影に隠れるようにして佇んでいた。

「リャン、気分悪いの?」

 いつも顔色は良くないのだが、大きな目が苦痛に歪んでいるように見えた。港に着いた時には、颯爽としていてなんともなかった。船酔いなどするはずもない。うつむき加減の肩に触れると、ひどく冷えていた。

「……湾の外に出たくない」

 細い声が震えている。もう平気になったと思ってたのに、と俺の手を振り解くが、船の揺れによろけそうになる。

「どうして?」

「思い出すからだ、ここへ来た時を」

 喉元を掻いて、出ない声を無理に押し出すように話す。俺は見たことのないリャンの怒りだか憎しみだかが暗く燻った呻きに動揺して、立ち尽くした。

「逃げてきたんだ、本島の鉱山から」

 清の漁村から売られてきた苦力クーリーで、俺は主人に従って石炭や黄金を掘らなければならなかった。厳しい労働と、主人や年長の苦力たちからの折檻が辛くて、俺はある日見張りを掻い潜った。どんなに駆けても、ろくに食べていない少年の足ではそんなに遠くまで行ける訳でもない。けれど幸か不幸かセシル・ドーソンに拾われて、ここに連れてこられた。

「本島から客船に乗って、ヴァン・ディエメンに来た日を覚えてる」

 よほど、あのきらきらとした波に跳び込めば、楽になるのかと、思っていたのだ。俺は何も言えなかった。現代の世界にも、実質的な奴隷労働はいくらでもある。けれど、俺自身が経験してきたことや、未来にはまず起こらない。俺は恵まれた生まれなのだ。そして、どうしようもなく、無知だ。リャン、と俺はなんとか名前を呼ぼうとした。

「おいおいおい、たまげたな!」

 背後の操舵室から、セシル・ドーソンの興が乗りすぎた声が叫んだ。途端に、横波に叩かれて、船が大きく揺れる。俺とリャンは甲板に転がった。身体の節々をぶつけて目がチカチカするが、俺の腰の上に倒れ込んだリャンを支えて、俺はなんとか上体を起こした。その視界に、天の半分を覆うはがねの翼がひるがえる。

 皇后エンプレス

 俺は嘆息を吐いた。いつの間に近付いていたのか、漆黒のベールをはためかせるように、銀の飛沫を巻き上げて、優雅にブリーチする。まさに皇后の名にふさわしい。

「退避しろ、セシル!」

「スクリュー船は曲がれんよ、ブランディ。しかし気の強い女だな!」

 ミスターローランドの叱咤と、セシル・ドーソンの興奮で上擦った声が聞こえる。がくんとスクリューの回転方向が変わり、船体が後退を始めたのが分かるが、皇后は取り巻くように、巨大な体躯で弧を描く。俺は見惚れて座り込んでいたが、皇后の側にほろほろと瞬く小さな影に気が付いた。こちらも呆然としているリャンの腕を引っ張って、指をさす。

「リャン、見て、仔クジラがいる」

 リャンは我に返ったように目をしばたかせ、そちらを見た。母親の傍らで、くるくると戯れる柔らかそうな灰色の背が、傾き始めた陽光を受けて光っている。う、とリャンは喉を詰まらせると、声にならない声で泣き出した。皇后のヒレが掃き上げた海水が、滝のように甲板に降ってきて、リャンの涙も全て濡らしてしまった。

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