第20話 アバロニ・ダイバー③

 正直、今まで食いっぱぐれないだけで精一杯だったから、お金を貯めてどう使うか、なんてことまでには頭が回らなかったのだが、目の前で話している人物は、相当な遣り手であるらしい。セシル・ドーソン。ヴァン・ディエメン東海岸の漁場を仕切る男、自称。

「おー、知ってるぞ。日本といえば、“熊オヤジ“が行った国だろう」

 いちいち身振り手振りの大きいこの男は、アメリカ人であるという。アメリカ人がなんで太平洋を越えてオーストラリアの、しかもタスマニア島にいるのだか、尋ねてみたいところだが、恐らく何か脛に傷持つ身なのであろう。別にそういうことはもう気にならなくなったが、この男はどうも胡散臭い。

「熊オヤジ、ですか?」

「東インド艦隊のペリー代将だ。俺は海軍時代あの人の部下だったからな」

 泰平の眠りを覚ます上喜撰……紹介状を持たされて、俺は今、セント・ヘレナにあるセシル・ドーソンの事務所を訪ねている。革張りの椅子から脚を投げ出した男は、紹介状を一瞥しただけで話し出し、俺は立ちんぼになって長々聞いている。窓から差し込む陽気は暖かく、体を動かしていなければそのまま眠りこけてしまいそうだ。

 彼の主なビジネスは、海産物の採集と加工、輸出である。ミスターローランドとはアメリカで知り合った『盟友』であるらしいが、これほど正反対の性格をした二人が上手くやっていけているというのが奇跡的に思えてならない。ミスターローランドが絵に描いたようなヴィクトリア朝英国紳士であるのに対して、セシル・ドーソンは元軍人らしく大きな肩幅を吊りスボンとベストに窮屈に押し込んで腕をまくり、整えた髭を乗せた口角は常に皮肉めいて持ち上がっている。闊達で豪気で社交的、口八丁手八丁に交渉に長け、羽振りが良く、英雄は色を好むが色好みが英雄とは限らない類いの男である。頭の中で星条旗の星の数を数えるのも限界になってきたので、俺はええいままよと相手の話を遮った。

「それで、雇ってもらえますでしょうか」

「ん? ああ。泳げるなら問題無い。泳ぎから教えることはできんからな」

 アバロニダイバーは人数が少ないのでね、君が志願してくれるなら結構なことだ。なんだか気になる物言いだが、『付いてこい』というようにコートを羽織って出ていく背中を、俺はおっかなびっくり追いかけた。


 鮑は水深20mほどまでの岩礁に生息する。主に夜行性で、昼間は岩の下や隙間に隠れているところを、捕獲することになる。ダイバーたちは小型船に乗り、海岸線に沿って漁場を移動する。この頃から潜水服も一応有ったはずだが、素潜りだ。

 今日は風が有り、波が出ている。再び断っておけば、俺のやっていた競技水泳と、海でのダイビングは異なるものである。後悔先に立たず。いやもう、先のことを考えるのは諦めた。

「もうすぐ午前の漁から戻ってくる」

 撫でつけた髪とコートの裾が潮風にバタバタとはためく。水平を斜に睨んで男はにやりと笑った。

「こんなシンプルでエキサイティングなビジネスがあるもんかね、君? 海の中で己れを守ってくれるものなど何も無い。その脆弱な手で! 掴みとらねばならん」

 黄金を掘り出すようなものだよ。鉱夫は地に潜るが、ダイバーは水に潜る。広大な大地のふところで深淵の海のほとりで、人とは無力でちっぽけなものだからこそ、そこから得られた美しいものには価値がある、と男は言う。風に舞う木の葉のように、波に揺られて船がくる。

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