第13話 ティンバー・マーチャント⑤

 ヴァン・ディエメンの空はいつも、霜ついたようなにび色に凪いでいる。俺は湿りきった上着を脱いで、ウィンチに引っ掛けた。造船所で働くと言っても、ルカたち熟練の船大工が設計図を見ながらああだこうだと忙しい傍らで、俺はせいぜいメンテナンスのため船台に上げられた船の船底を磨いて塗り直しを手伝うことぐらいしかできない。ブラシと小刀を使って、船体にこびりついた藻やフジツボなどを削ぎ落として洗う。当然袖から裾から濡れてくるので、こうなったらもう全部濡れても変わんなくね?


「泳ぎに行っていいかな?」

 一緒に船底洗いをしているピット爺さんは、耳が遠い。近寄って大声で尋ねてみると、遊んでないで早く戻ってこい、とデコピンされた。自分だって、しょっちゅう煙草吸いにいってるのに! 口は悪いが適当で楽しい上司である。


 浅瀬側まで駆けていき、この地方独特の朱色が映える岩の間を滑らないように降りて水に足をつける。冷たい。合宿で初めてタスマニアを訪れたのは八月だった。オセアニアの季節では冬の終わりだ。ローセスタンから、このセント・ヘレナの近く(正式名称はまだ無いらしい)にやってくるまで、もう3ヶ月は経過しているはずだから、夏も近いのに、水はやはり冷たい。川を泳いだ時は状況が状況だったので、あまり冷たさを感じなかった。己れの心臓が丈夫で良かったと思う。腰までの深さのところをざぶざぶと久しぶりの感触を楽しんでいると、ルカがやってきた。

「サボんな」

 そういうルカも岩場に腰掛けてしまう。目を細めて輝く水平線を眺める視線は若い。見慣れてしまった顔の傷も、今では男前を上げているような気がする。

「お前、泳ぎが得意なんだってな」

 暫く風に当たってから、こちらへ向き直る。俺は足元でうろうろする仔蟹に気を取られていたので、慌ててふり仰ぐ。

「うーん、もともとはね」

「ドンのおっさんが、ミスターローランドの子供が川で溺れたときに、お前が助けた、って言ってたぞ」

 ドンのおっさん、というのは、あの御者の男である。普段はミスターローランドの館で雑務をしているが、こちらの工場に懇ろの女性がいるので、ことあるごとに通ってくるらしい。

「俺あ泳ぎはてんで駄目だからな。船を持ったら、お前が一緒に乗ってくれ」

 小気味よく笑う。俺は岩場に上がって、ルカの隣りに立った。

「ルカはどうして、ここで船を造ってるんだ?」

 俺を見上げて、色素の薄い瞳が、に、とたわむ。額の傷跡に一筋、水滴が流れるのが見えた。

「俺は元囚人だ」

 もう驚かないが、一体どれほどの人間が罪を犯しているのか、分からなくなってくる土地である。

「九の時にマンチェスターで食いモン盗んで捕まって、ポート・アーサーに送られた」

 ジャン・バルジャンじゃあるまいし。けれど現実である。ポート・アーサーはヴァン・ディエメン最大の監獄施設である。少年院も併設されており、最少収監年齢は8歳となっていた。と、ショート・トリップで立ち寄った際に、説明を聞いた。あれ? 何か忘れている気がする。

「伐採現場でヘマして、倒れてくる木の枝に、顔面抉られちまって」

 思い出そうとして、ルカの次の発言に、ひえっと身がすくむ。スプラッタである。

「そん時、ミスターローランドが治療費出して引き取ってくれた。んで俺はあの人に頭が上がらない、分かるだろ」

 その後、造船技術を学ぶために援助してくれたのもミスターだ。ルカは深呼吸して背を伸ばす。

「あの人はさあ、投資家で研究者なんだ。人を長く効率よく使う方法を知ってんだ。多分情じゃない。あの人が好きなのは、自然と科学技術だけなんだよ」

 俺は唇を噛んだ。嫌な男だ。人に忠誠を抱かせる方法を理解していて、報酬も与えるが、親愛を返すことはない。企業経営者としては優秀だろう、これだけの人間があの男のために働こうというのだ。

「……俺もルカの船に乗りたいな」

「おう、まだもうちっと、資金が足りねえけどな」

 波は穏やかで、海はとても静かだった。自分がどこにいて、今がいつなのか分からなくなってくる。もしかしたら、瞬きの後、元の時代に戻っているかもしれない。けれど、そうしたら、マットたちやルカたちの思いは、俺のなかでどうなってしまうのだろう。


 おーい、と造船所の方から、誰かが呼んでいる声がした。ミスターローランドがこっちにも視察に来るってよ、早く戻れ。俺とルカは顔を見合わせた。

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