第9話 ティンバー・マーチャント①

 ローセスタンは海沿いの街ではないが、北エスク川と南エスク川が合流し、テマ川を構成する要所に開拓された。ところがテマ川は汽水である。そして波立ち干満がある。淡水の川というよりも、海が陸に食い込んできているような地形なのだ。その全長70km、最大川幅3km。


 俺はやっと対岸に辿り着いたが、立ち上がることができずに草地にうずくまった。船着場の近くで放り込まれたため、流れ弾を避けるために停留している舟の間を泳ぎ、距離ができてからは一気に対岸を目指す。汽水なので浮力があるのだが、上流からの流れと波が絡まってなかなか進まない。背後から銃声が響く度に胸の辺りがきりきりと痛む。戻りたい、けれど戻ったところで足手まといになることは明白だった。


 全身ずぶ濡れ泥だらけで痺れるように寒い。これからどうすればよいのか、どこに行けばいいのか。オーストラリアには大型の肉食動物はいない。有袋類たちは総じて温厚である。かの有名なタスマニア・デビルさえ、可愛い見た目に反する鳴き声に驚かされるのと、屍肉を食むというくらいで、人間が恐れるようなことはない。最たる脅威は毒を持った動物たち、昆虫たちである。腕っ節がいくら強かろうが、こればかりはどうにもならない。


 一体どのくらいの間泳いでいたのだろうか、綿のように重なった雲の向こうに、茜色の夕日が滲んで見える。帰りたい。俺は元の時代に帰るべきなのだ。もっとずっと豊かで平和なあの頃に帰るべきなのだ。ここにいても迷惑になっているだけなのだし。……それなのに、ローセスタンに戻れないことの方が、今は悲しかった。

 瞼が重たくなってくる。狭まる視界から、黄昏の光が蜜のように零れていく……

「!?」

 暖かくざらざらと湿ったものが、目頭を撫で上げた。驚いて身を起こすと、こちらもビックリしたような顔のビーグルが、鼻先をぐりぐりと擦りつけてくる。犬?

「見つけたか」

 薮の向こうからノーフォークジャケットを着た男性がやってきた。整えられた口髭に、清潔そうな白いシャツの襟、富裕階層であることは、身のこなしからも分かる。『よくやった、ジャック』と名を呼ばれて、ビーグルは嬉しそうに俺の腹の上を跳び回る。

「あの……あなたは?」

 ジャックにまとわれつかれながら、俺は何とかひっくり返った体勢を座らせる。神経質そうな尖った顎に、青灰色の瞳が無感情にこちらを見下ろした。

「私はブランダン・ローランド。材木商人ティンバー・マーチャントだ」

 君は息子を助けてくれたからな。だが借りを返すのはこれまでだ。

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