第5話 ブッシュ・レンジャー②
「何さまなのさ、人に助けてもらっておいてさ!」
腹の虫が治らない、とサリーはマットに言い募る。俺は傍らでベンとマギーと石臼で麦を挽いている。
溺れた子どもを何とか引き上げ、川原へ戻ってくると、青い顔をした家族と使用人が駆けつけていた。子どもは恐慌状態だったが、抱き上げて背中をさすってやると、だんだん落ち着いたようでべそをかいている。アルバイトで児童水泳のトレーナーをしているので、泳ぎが苦手だったり、水が怖い子どもはよく相手にしている。ところが、俺や遠巻きにしている洗濯婦たちの身なりを見て、家族はひったくるようにしてその子を連れていってしまった。
「子どもをタテに
薪を割りながらマットが言う。マギーが『ゆする、って何?』と尋ねてくるが、知らない振りをしておく。ベンとマギーは、マットとサリーの子どもたちだ。長兄のマイクは、羊の世話に出かけている。
「でも、泳げるって結構大事なことだよね、確かに」
サリーは豆をばりばりとむしって怒りをしずめつつ、俺を見た。洗濯の仕事を始めてから、俺はちょくちょくマットたちの集落の雑用も仰せつかるようになっていた。専ら子守り兼子どもたちの仕事の手伝いなのだが、英語のスペリングも教えてやってくれ、とミスターウィリアムズから言われている。盗賊の隠れ里の子どもたちが、学校に通えるような機会は無い。親たちもほとんどが正規の教育を修了していないので、日本人大学生が知っているような単語の綴りもあやふやなのだ。
「サク、泳ぎ教えて」
「私も!私も!」
麦粉を袋に詰めて、鼻頭を白くしたベンが言う。マギーが側で跳ね回るものだから、もうもうと白い埃が舞った。
「まず先に馬の世話を覚えるんだな」
マットが轟音のようなくしゃみをし、マギーがけらけらと笑う。盗賊たち、マットはふんぞり返って“ブッシュ・レンジャー“と呼べというが、は皆、
「俺らは地主か、アコギな商人どもからしか奪わない。盗ったものは、仲間で分ける」
それが同じ集落で暮らす者のルールなのだそうだ。小作農や街の下層労働者たちにとっては、搾取する地主や豪商を懲らしめてくれる義賊のような存在なのであり、警察から匿ってくれることもよくあるという。
「ねえ、サクは、バス海峡を泳いだことある?」
ベンが期待を込めた目で尋ねてくる。バス海峡は、オーストラリア本島とヴァン・ディエメンを隔てる海峡だ。これまで何人もの脱獄者が渡ろうと試みては、その度に水底で命を落とすか、連れ戻されてきた。両岸の最短距離は140km、深度60m、比較的浅いが天候が崩れ安く、サメの多い難所である。
「ベン、バス海峡は、ドーバーと随分違うのだよ」
ベンにとって、恐らく『海』と『バス海峡』は同じような意味なのだろう。二人ともこの地で生まれて、十に満たない歳までに移動した距離など、たかが知れている。海自体を見たことがないのかもしれないが、『バス海峡』のことはよく耳にしているのかもしれない。曖昧に答えておいて、また石臼の前に座ると、ミスターウィリアムズがやってきた。
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