第2話 “ヴァン・ディエメン”①

 煤けた髭面が胡乱げに覗き込む。山の清涼な空気から突然、汗と泥の臭いがたちこめて、自分がどこにいたのか思い出せない。頭上に伸びた枝葉が濃い木漏れ日を揺らし、鳥の声が甲高く響いている。

「英語が話せないのか? 見たところアジア人だが」

 アクセントの強い早口の英語も聞き取れない。そもそもうっかり怪我をしそうになるなど、競技者としての自覚が足りなさ過ぎるのだが、変な夢を見ている場合でもないだろうに。固まって目を白黒させている俺に、男たちは顔を見合わせる。

「起き上がれ。何の負傷もしてねえんだから」

 肩を掴まれ引き上げられ、地面にそのまま座ると、男たちはパーカーとジーンズのポケットを確認し出した。トレッキングの際に携帯していたものは、何一つ残っていない。現実だとしたら、この状況はかなり危険なのではなかろうか。オーストラリアは治安が良いほうだと聞いていたのに。

「まあ、待て待て」

 ところどころ聞き取れる単語を繋ぎ合わせると、男たちは俺が丸腰なのは分かったが、地主たちの手下か警察の差し金ではないかと、疑っているようだった。西部劇でもあるまいし、ますます分からない。と、男たちの背後から、小柄な人物がひょこりと顔をだした。

「君、どこから来たの」

 褐色の肌に刈り上げた黒い癖毛、大きな目を更に大きく見せる丸眼鏡、肩は丸みが有るが、小柄な体躯。ゆっくりはっきりと質問を発音してくれたので、俺はやっと口を開くことができた。

日本ジャパンからです」

「日本? どこだそりゃ」

 眼鏡の男が言葉を続ける前に、傍らの銃を担いだ男が疑り深く鼻を鳴らす。……日本を知らないオーストラリア人に初めて会った。眼鏡の男が嗜めると、『でもよ、ウィリアムズの旦那』と銃を担いだ男が不満げに名を呼んだ。

「清のもっと東側に有る国だったかな?」

 ちょっと待った、“清”? 日本を知らないだって? どっと汗が浮く。

「ミスターウィリアムズ、すみません、今一体西暦何年でしょうか」

 隣りの男はウィリアムズに肩を竦めて見せる。俺も覚えちゃいませんよ、クリスマスさえ間違えなけりゃいいんだから、とうそぶく。ウィリアムズはこちらに向き直り、声を低くして言った。

「……今年は西暦1860年だよ、日本から来た君」

 まだ明治にもなっていないじゃないか!

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