アップサイドダウン・ホライゾン

田辺すみ

第1話 プロローグ

 刷毛で銀を撒いたような空だ。深い蒼が瞬きで烟っているように見える。同じ空なのに、どうしてこうも印象が違うのだろうか。

「你还好嗎?」

 どこの国の言葉が聞こえてきたって、不思議ではない。自分は多民族国家オーストラリアに来ているのだから。ただし、大学水泳の合宿中だったはずだ。どうして、初夏のまだ肌寒い風が吹き抜けるヴァン・ディエメンの海に、所在無く浮かんでいるハメに陥ったのか。

「いやもう、無理……」

「舟に戻りな。今日はそれでいい」

 リャンは俺が漢人でないことを思い出して、英語に切り替える。元来大人しい性格なのだろうが、潮風に洗われた喉は囁くような声しか出ない。痺れた腕で辛うじて掴んでいる網の中には、アワビが6つほどからからと揺れている。明るく温かいプールで練習するのとは訳が違う。ここで生きていくにはもう、鮑採取アバロニ・ダイバーしか選択肢が無い。突然、がんがんがんと金属を叩く音が響いた『サメだ、舟に戻れ、サメだ!』監視役ががなり声を上げ、リャンは泳ぎ寄って俺の肩を引いた。


 AIS(豪州スポーツ・インスティテューション)に招かれて、日本の大学水泳強化選手団は、タスマニアの専門施設で合宿を行っていた。渡豪土壇場で病気のため欠員が出て、繰り上がったのが俺である。あまりぱっとしない成績であるのは自分でも分かっているのだが、海外で練習できる機会に惹かれた。オーストラリアは水泳、マリーン・スポーツ大国だ。英語が苦手でも、日本人グループで行動するなら、それほど困ることもないだろう、という考えも有った。

 一週間は慌ただしく過ぎ、週末には運営組織がショート・トリップを企画してくれていた。州都ホバートから第二の都市ローセスタンへ、そしてクレイドル・マウンテンでのトレッキングだ。雨上がりの峰々と湖水にゆらめき立つ虹は、それは美しかった。が、見惚れて木道を踏み外したのが、運の尽き。


 「誰だ、逃亡者か?」

 背中と後頭部を強かに打って、ちかちかする目を次に開けた時、俺は年代物の衣服に身を包んだ複数の男たちに、取り囲まれていた。

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