最終話 落日の濡れ花火
扉を開ける。
鼻を劈く腐臭。
目の前には大勢の人間の死骸が広がっている。まだ大半の肉を残した者、殆どが腐れた者、白骨化した者。死骸の状態は様々であったが、身につけている衣服は全て女物であった。
頭上には数え切れない程の狐の面が飾られており、そのどれもがひび割れ、欠損していた。
その奥に体育座りの少女。
恨み、哀しみ、敵意?そのどれもが該当し、そのどれもが当てはまらない眼をした彼女が、そこにいた。
『約束、してたでしょ』
『待ってたのに、皆違う。みっちゃんじゃない。みっちゃんじゃない』
『今度こそ、花火しようよ』
老婆の様に掠れた声で、彼女は私に問いかける
上手く答えられずにいると
『お前も偽物かッッッッ』
どこからか現れた狐火の尾が、私の首を絞め付けた。灼熱の激痛と窒息で気絶しかけるが、なんとか耐える。
痛みが私を決心させた。
絞められた喉から、必死に声を絞り出す。
「ごめん、マキちゃん。今まで独りにしてごめん」
「私、あの時逃げちゃってごめん。でもね、本当に嬉しかったの」
「あれから外の人に拾われて、大学まで行って、いい企業に就職したんだ。でもね、でも」
「私の心はいつまでも貴女と過ごした夕焼けに囚われたままだった」
懐からあの時の、濡れて湿気ったガマ花火を二つ、取り出した。
いつの間にか近くに来ていたマキちゃんに、一本手渡す。
「今度こそ、一緒に花火しよう。気が済むまで、ずっと。誰にも邪魔されない場所で二人で」
『みっちゃん、ありがとう』
彼女は優しく私を抱いた。
二人を包んだ狐火が、広がっていく。
痛みはない。ただ心の底からの平穏と暖かさだけがあった。
湿気た花火に火が灯る。
あの時のスパークが再び蘇った。
止まった時の思い出が煌やいて、終わらない落日は幕を閉じる。
淡い春の終わり、夏の始まり。
セピア色の記憶は閃光の様に儚く──────
─────────────────────
強い風が木々の隙間を通って行った。
萌葱、浅緑、深緑。
決して一つの緑には括れない木の葉達が、互いに揺れあい、擦れあってここでしか出せない音を奏でて行く。
歌声の様でもあり、叫び声、一種の怒号の様にも感じられるその音が、森の端から端までをくぐり抜けて私のところへやってきた。
歓迎か、はたまたその逆か。
風はそのまま私を通り過ぎて行き、耳鳴りがするほどに澄んだ静寂が、辺りを包み込んだ。
森は音を奏でるのを止めた。
鳥や虫の鳴き声すら聞こえない凪の森に、ただ私の足音だけが木霊する。
季節は春の終わり、または夏の始まりか。つい昨日までは雨が降っていたのであろうこの森の地面からは芳醇なペトリコールが香って来る。
けれど、鐘の音はもう鳴らない。
森の先には誰もいない。
もう、誰もいない。
けれど、私はこうして再び足を運んでいる。
森の入り口で意識を失った状態で発見された私は、半年ほど深い眠りから醒めずにいたらしい。
それでも、彼女は私をあの終わらない落日から解放した。
約束を反故にして、一人のうのうと生きていた私を、だ。
朽ちた鳥居をくぐり、彼女と再会した社の前へ立つ。
あれから一年、ここに彼女がいなくとも春の終わりはここで過ごすと決めた。
持ってきたガマ花火のスパークを散らす。
一人で散らす。
「来年も、また来るよ」
「毎年、二人で花火しようね」
一人で呟く。
風が私のまわりを舞っていく。
優しい風が、私の中を透き通って何処かへ消える。静かに消える────
果てた花火は薄らと煙を吐き出すばかりで、もう輝く事はなかった。
いつの間にか森を静寂を取りやめたらしく、小鳥のさえずり、川のせせらぎ、虫の鳴き声。
風で揺らぐ木の葉が擦れて奏でる音がそれらをより一層引き立てた。
私の足音など、自然の中ではもはや些細なものであった。ここは私の居場所ではなかったのだ。
彼女のいない世界で、これからも私は生きるだろう。
身寄りもなく、親友もいない私がこの世界で生きる事はこれから先も過酷であり、その現実は変わる事はない。
それでも時は非情に進み続けるもので、私などに配慮はしない。
だが、私は今までの私とは違う。
空っぽで、生きる意味を見い出せないことに苦しんでいた私とは違うのだ。
見い出す必要など何処にもなかったのだから。
ただ、私を想い続けてくれた少女との思い出だけで良かったのだ。
何故彼女は私を連れて行かなかったのだろうか。生きている間、その答えを知る事は無いだろう。
だが、もし彼女が私に生きていてほしいと願ったとするならば、今度こそ反故にする訳には行かない。
精一杯、命が続く限り私は生きて、その上で答え合わせをしたい。
セピア色の記憶は閃光の様に儚く、落日の幕開けは遠い先の未来へ─────
落日の濡れ花火 山猫芸妓 @AshinaGenichiro
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