さよならの朝、吹き抜ける潮風

@Aoiumino

第1話

 その日、幽霊に出会った。


 暑苦しくて、セミがうるさくて、大好きな潮風の香りも、こんな夏の日は嫌になる。


 線路のわずか先にある海を眺めながら日向は、気休めにシャツをパタパタと扇いでいた。


 じんわりと湿った背中を汗の水滴が伝って落ちていく。


 開け放たれた窓からは、やはり粘つくような感触の風が吹き込み車内を撫でていた。


 日向の通う高校は、県内でも有名なほどに自然に囲まれた地域にある。


 そのため日向のように電車を利用してまで通学する生徒は珍しく、ほとんどの生徒が自宅から通学している。


 秘境路線としても知られるこの電車には、乗客もやはりほとんどいない。


 日向は不快な潮風と、夏の暑さを感じながら学校の最寄り駅への到着を待っていた。


 規則的に響く線路の音にも飽きてきた頃、気まぐれに車内を見渡してみる。


 日向が彼女を見つけたのはその時だった。


 少し離れた座席に、綺麗な佇まいで目を閉じる少女がいたのだ。


 後に考えればこれは偶然などではなかったと、日向は確信を持って言える。


 突然鼓動が速くなるのを感じた。


 降りるべき駅へはまだもう少しかかる。しかし、日向は居ても立っても居られず、座席から立ち上がり少女がよく見える位置に向かった。


 眼前には椅子に寄りかかり、小さな寝息を立てて眠る少女。


 長いまつ毛に縁取られた瞳。整った目鼻立ちだと、目を閉じているのにも関わらずはっきりとわかる。


 肩まで伸びる黒髪は艶やかで、窓から差し込む朝日に照らされ、さらに鮮やかな色を強める。


 年齢は同じくらいだろうか。しかし、気になったのは日向の知らない制服だったことだ。少なくともこの路線を使う高校は他にない。


 日向は、僅かな違和感を覚えながら、その神秘的とまで言える光景に目を奪われていた。


 さっきまでの退屈で、嫌気がさすような景色とは全てが違う。


 そんな濃厚で、恐怖すら感じるほどゆったりと流れる時間は唐突に終わりを告げた。


 気づけば高校の最寄駅に到着していたのだ。ブザーと共に扉が開く。


 日向の鼓動は早鐘を打つ。降りなければいけないと分かってはいても、体は一向に動こうとしない。


 結局日向は、降りる予定の駅を通り過ぎてまで、眠っている彼女を見つめていた。





◇ ◇ ◇


 私はいつも寝たふりをする。


 のどかな田舎の風景が流れる車窓から、鼻をツンとさすような風が吹き込む。


 こうも毎日潮風を浴びていると、髪の毛は軋むし匂いだって染みつく。女子として男子に会う場面でそんなことは避けたい。


 なんてくだらないことを考えているうちに私の向かいの座席に、ある男の子が座る。


 意地悪のつもりで目を閉じ続けてみても、彼は黙ったままだった。


 なぜか見つめられている気がする……。


 今度はこっちが恥ずかしくなってしまい目を開けた。そこにはもう見慣れてしまった制服を着た彼がいた。


「おはよう、渚さん」


 にこやかに微笑んだ彼の名前は海風日向。


 毎朝同じ電車で、こうして学校まで退屈な時間を二人で分かち合っている。


「わざとなのバレバレ」

「わかってたなら声かけてくれてもいいじゃん!」

「いや、今日も寝顔が綺麗だなぁって」

「ちゃんと日向くんを意識してるの!もう、女心がわかってないなぁ」

「ごめんごめん」


 日向くんはおどけたように手を合わせて頭を下げた。


「それより、渚さんってやめてくれない?やっぱり変だよ」

「いやだって一応、俺年下だし」

「あぁ!またそういうこと言って。私、日向くんと同じ十七歳ですぅ!」

「わかったよ、今度から気をつける」

「よろしい」


 少しだけすっきりした気持ちで顔を上げる。


 ほとんど乗客がいないこの路線。今朝も私たちの車両には他に誰も乗っていない。


 私はこの時間が。君との日常が大好きだった。


 きっと、ここでだけなら君を支えることができる。


 そういえば君と出会った日も、こんな夏の日だったね。


 私はけらけらと笑う日向くんをぼんやりと見つめながら、あの日を思い出していた。




◇ ◇ ◇


 どれだけそうしていただろうか。


 日向はすでに電車が発車してしまったことすらも忘れて、ただ目の前で寝息を立てる少女を見下ろしていた。鼓動は高鳴ったままだ。


 日向は少女の放つ不思議な力に引き寄せられるように近寄り、ついに声をかけた。


「……あの、」


 そこまで言って何を話したらいいのか分からず日向は黙り込む。


 すると、少女はゆっくりとその瞼を開けた。やはり綺麗な顔立ち。


 吸い込まれてしまいそうな瞳が日向を見上げた。


 そのまま数秒間見つめあって日向は我に帰る。


「どうしたの……?」

「え、あ……」


 考えなしに話しかけたことを日向はとにかく後悔した。


 大慌てで何か言葉を探していると、少女は首を傾げて不思議そうな顔をした。


「君って、さっきの駅で降りる高校の生徒じゃない?」

「え、はい……」

「なんでずっと私を見てるの……?」

「ご、ごめんなさい!あの……」


 悩んだところで気の利いた返答など思い浮かぶはずもなく、日向はただ感じたことを口にしていた。


「……見惚れちゃって」

「……」


 いきなり変なことを言ってしまったと赤面していると、さらに不思議そうな顔を強めた彼女は、堪えきれないというように肩を震わせ始めた。


「ふふっ……それで、くくっ……電車乗り過ごしたの……っ?」

「……まあ、そうなりますね」

「あははっ!君おもしろいっ!名前は?」

海風日向うみかぜひなたです……」


 快活に笑う彼女を見て、日向はますます間の悪いような心持ちになる。


「それにしても不思議だなぁ」


 彼女はしんみりと、芝居がかったような口調で言った。


「あの、あなたも高校生ですよね……?」


 日向は根拠のない違和感から無意識に敬語を使っていた。


 制服を着ているし、見た目も同じくらいのはずなのに、何故か彼女を同年代とは思えなかった。


「まあ、一応ね」

「一応って……」

「私、ここの幽霊やってるなぎさって言います」

「……」


 突然おかしなことを言い出した彼女に日向は黙り込む。


「あ、幽霊っていうのは本当だからね。それで、なぜか君は私のことが見えるから、不思議だなぁって言ったの」

「幽霊の渚さん……」

「さん付けって、なんか変な感じだけど……。まあそうだね」


 変な人に声をかけてしまったのでは、と後悔しつつも、そんな人に見惚れてしまったのは自分なのだと日向は改めて思い直す。


「こんな遅刻があってもいいですね」

「そうだよ。こんな綺麗な幽霊のお姉さんとお話できるなんて幸せだね」


 にこやかに微笑んだ渚は本当に綺麗だった。


「それ何持ってんの?」


 日向が手に持っていた袋を指差して渚が言った。


「これはランシューです。俺、陸上部なんで」

「へえ。足が速い男子ってかっこいいよね」

「なんですかその小学生みたいな感想」

「だってほんとにかっこいいじゃん!」

「そうなんですかね……」

「なんで陸上部選んだの?」

「実は父が陸上選手で……。まあ、全く有名な選手ではなかったんですけど」

「そっか、日向くん走るの好き?」

「それなりには……。走ってる時だけは自分の世界に入れるので」

「かっこいいこと言うじゃーん」


 ニヤニヤとした笑顔を見せながら肘で小突かれる。


 こうして日向と渚の奇妙な日常が始まった。





◇ ◇ ◇


 日向には母がいない。


 正確には七年前にすでに亡くなっている。原因は過労死だった。


 当時、実業団の陸上選手として無名だった父を支えるために、必死にバイトをしていた母は、そんな努力する父の姿をただ純粋に応援していた。


 父もその期待に応えるために全力で努力していた。しかし、現実は残酷で父の努力が実る直前、母は亡くなった。


 ついに大きな大会で優勝できた父。当時すでに体調が悪かった母の容態が急変したのはほぼ同時だった。


 結局、その二日後に母は旅立った。残された父は茫然自失としたまま日々を暮らし、陸上を引退した。


 その後、精神的に不安定な父のために祖父母の家で暮らすことになった日向は、こうして毎朝潮風を浴びながら登校をしている。


「おはよう、渚さん」

「おはよう。今朝はちょっと眠そうだね」

「ちょっとね、父さんの体調が悪そうで」

「そっかぁ」

「俺に母さんがいないのは知ってるでしょ」

「この前言ってたね。それでも、お父さんのこと、絶対に支えてあげてね」

「……うん」

「辛い時は私が慰めてあげるから」

「ありがとう、渚さん」


 顔を上げると太陽のように明るい笑みを見せた渚が頭を撫でようとしてきた。


「ちょっと、そういうのいいから!」

「えぇー、いいじゃん」

「俺もう高校生だから」

「まだまだ子供だよ」

「同い年って言ってたのだれ?」

「あれは気の迷いっ。何年ここの幽霊勤めてると思ってるの!」


 腰に手を当てて呆れたように渚は言う。その仕草にはまだ可愛らしさが残っていて、日向はつい見惚れてしまっていた。


「あっ、今日も部活か。頑張ってね」

「うん、もうすぐ大会あるから」

「これは、親子で受け継がれる想いってやつかな?」

「いや、さすがに俺は陸上で食べていく気力はないかな」


 その言葉を口にした時、少しだけ胸が痛んだ。


「でも日向くんが走ってる姿見てみたいな」

「そのうちね」

「えーなにそれぇ」


 肩を落とす渚を見ながら日向は笑う。


 結局今日も降りるべき駅を乗り過ごしてしまった。


 それでも、こんな日常が日向は大好きだった。ずっと続けばいい。そう思いながら、いつもより少しだけ重たく響く線路の音を聞いていた。




◇ ◇ ◇


 ある日、渚はわかりやすく顎に手を当てて悩んだ素振りを見せていた。


 いつも通り正面の座席に座り何かあったのかと気にしていると、渚はハッとして顔を上げる。


「どうしても日向くんの走ってる姿が見たいよ!」

「いきなりどうしたの?」


 身を乗り出して主張してくる渚に困惑する。


「見なくちゃダメだ!かっこいい日向くんをこの目に焼き付けなくちゃ!」

「いや、恥ずかしいよ……。まあ、どうしてもって言うなら今度大会あるけど……」

「あのねえ、幽霊をなんだと思ってらっしゃるの?そんな万能じゃないんです。優雅にお散歩ができるとでも?」

「そんな太々しく言われてもな……」


 突然の芝居がかった口調に日向は面倒くさそうに目を背ける。


「こら!真剣に考えて!私が電車から日向くんの走ってる姿を見れる方法を」

「俺が悪いの!?」


 猛烈に反論したい気持ちをグッと堪えて日向はとりあえずの策を考えてみる。


「どうしてもって言うなら、電車の横を走るとか……」

「え……?並走なんて、できるの?」


 渚は思いもよらないことを聞いたかのようにぽかんと口を開けていた。

 

 その表情が妙に面白くて、仕返しのつもりで日向もまた芝居がかった口調で言った。


「舐めてもらっちゃ困りますな。こんなローカル路線の速度なんて、現役の陸上部が相手なら屁でもない」

「ほんとに、日向くんが走ってる姿見れるの……?」


 渚はまだ信じられないとでも言うように目をぱちぱちさせていた。


 まじまじと見つめられ恥ずかしくなった日向は、視線をキョロキョロと彷徨わせた後、小さく頷いた。


「やったーーーっ!!!」


 飛び跳ねるような勢いで渚は両手を上げた。


 その笑顔は、太陽を反射してキラキラと光る海にも負けないくらい輝いていた。


「じゃあ明日の朝ね!」

「でも鞄とかは」

「荷物だけ私に渡して走ればいいんだよ!」

「うわあ、すげえ面倒……」


 たしかに家の最寄駅から隣の駅までは、電車と並走できるような道もあるし車も通らないから迷惑にはならない。


 日向は妙な高揚感に駆られ、あまり乗り気ではなかったはずがいつの間にか実際に走っている自分を想像していた。


「楽しみにしてるよ!」


 笑顔で手を振った渚さんに見送られて日向は電車を降りた。




◇ ◇ ◇


「じゃあ荷物預かりまーす」


 扉が開くとそこには満面の笑みを見せる渚がいた。


「ジャージ似合ってるね」

「無駄話してる暇はない!」


 やけに楽しそうに笑っている渚に押し付けるように鞄を渡した日向は、急いで駅を出て線路沿いの道へ駆け抜ける。


 駅舎から飛び出した瞬間、キラキラと光る海を背景に電車はゆっくりと動き出した。


 線路より少し低くなっている地面を走りながら車窓を見上げると、そこには体が落ちそうなくらい身を乗り出して手を振る渚がいた。


「おーいっ!頑張れ、日向くーんっ!」


 じわりじわりと加速していく電車だが、すでに最高速度に近いスピードだ。日向は余裕を持って手をふり返した。


「かっこいいぞおー!!!ありがとー!!!」


 まるで生粋の陸上ファンかのように渚は手を振って声をかけてくれていた。


 普段より地面を踏む足が少しだけ軽い。口元からもつい笑みが溢れる。


 無駄な力みを無くし、リズムに合わせて自然に呼吸をする。練習で飽きるほど繰り返してきた動作のはずが、今日だけは妙にわくわくした。


 母が亡くなってから久しく感じていなかった感情。


 小さい頃、母に走る姿を褒められた時の情景が流れ込んでくる。


 体を前に進めるたびに日向は口元が緩むのを堪えられなくなっていた。


 純粋な楽しさと、幸せを体全体で感じながら日向は渚を見上げる。


「なんか分かんないけど、ありがとーっ!!!」


 気づけば日向はそう叫んでいた。


「どういたしましてーっ!あははっ!」


 大きく手を振る渚を横目に、日向は心地よい潮風を浴びながら真っ直ぐ走っていった。




◇ ◇ ◇


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 肩で息をしながら車内へ入る。次の駅には辛うじて間に合った。


 思っていたよりも駅の間隔が長く、勢いであんなことをしたことに日向は後悔した。


「お疲れ様。すごいかっこよかったよ」

「はぁ、できれば、もうちょっと、息が整った時に、言って、ほしかった……」

「ごめんごめん。でも元気もらっちゃったよ」


 親戚のおばさんのような言葉に日向はつい吹き出してしまう。


「え、なんで笑うの!?」

「ううん、渚さんが元気になれたならよかった」


 日向はひとしきり笑い、落ち着いた頃に一度深呼吸をして座席に座った。


 少しだけ真剣な表情で渚を見つめる。


「実はさ、俺陸上やめようと思ってたんだ……」


 渚は大して驚いた様子もなくただ静かに聞いてくれていた。


「でも、やっぱり走るのって楽しいんだなって改めて思ったよ」

「私、日向くんの力になれたかな?」

「うん、ありがとう。もうちょっと父さんの背中追いかけてみようかな……なんて」

「絶対応援する!日向くんなら絶対すごい選手になれる!」


 食い気味に答えた渚の口調には妙に確信めいたものが感じられた。


「ありがとう」


 自然と溢れた笑顔を見せるとともに、電車は駅へ到着する。


「これからは遅刻しないでいけそうだね」

「どうだろう……」

「力になれるかはわからないけど、いつでも話聞くから」


 渚の声に背中を押されて日向は駅へ降りた。


 その日から朝の電車で渚を見かけることはなくなった。


 


◇ ◇ ◇


 その日、日向が学校から帰ると庭にはパトカーが止まっていた。


 家の中に入ると祖父母が警察と話し合っていた。


 ただならぬ気配を感じた日向は無意識に父の姿を探す。しかし、どこにも父は見当たらなかった。


 日向に気づいた祖父母は、警察に一言告げてこちらへ向かってきた。


 その表情は痛みそのもので、見覚えがあるように日向は感じた。


「日向……」


 祖父母から語られたのは、父の自殺だった。





◇ ◇ ◇


 父が亡くなってから一週間後。


 日向はようやく登校できるようになった。警察からの聴取は長引くばかりだったが、結局何も話せなかった。


 ただ父を支えてあげられなかった自分の不甲斐なさと運命を呪った。


 最愛の人が亡くなる悲しみを分かったつもりでいたのだ。


 久しぶりの駅舎。普段と何一つ変わらない。潮風で錆びれたベンチがポツンと置いてある。


 今日は青い夏空も分厚い雲で覆われている。しかし、むせ返るような潮風はついぞ止むことはなく、むしろ自分を責め立てるように頬を撫でていく。


 日向はそんな風をどう受け止めたらいいのかわからないでいた。


 誰も自分を支えてはくれなかったと言い聞かせることができるだろうか。


 ほとんど雑音のような音を立てて、スピーカーから電車の到着を知らせるベルが鳴る。


 眼前で止まった車両に乗り込み、日向は顔を背けた。いつものように挨拶することもできない。


 今日ばかりは渚も眠っていなかった。


「久しぶりだね」


 先に声をかけたのは渚だった。


「何かあった?」


 そう問うた声音は、普段より明らかにこちらを気遣った優しいもの。


 日向は酔い潰れて介抱されているような気分で自然と、身に起こった出来事を吐露していった。


 まるでそうすれば救われるとでもいうような狂信的な心持ちで。


「父さんが……自殺した……」

「……」


 渚は一瞬だけ驚いた顔を見せて、またすぐいつもの優しい表情に戻った。


「日向くんが楽になるなら話してくれていいんだよ。こんな私でも支えになれたら嬉しい」

「だったら、なんで俺に優しくするんですか……?」


 自分で発した言葉に日向は驚く。本当はこんなこと言いたいつもりじゃないのに、渚の優しさにつけ込もうとしていた。


 自分を救おうとしてくれる人など誰もいなかったと、勝手に決めつけて自分を納得させていた。


 そう思い至った時、自分がなぜ渚に会いに来ていたのか全てが腑に落ちた。


 こんな情けない自分を殴ってやりたいほど嫌いになった。しかし、動き出してしまった言葉は止まることなくこぼれ落ちていく。


「結局渚さんには何もできないじゃないですか!」

「うん、でも……」

「何もできないくせに、人には頑張れとか言って」


 違う。悪いのは弱い自分のせいだ。そう心ではわかっていても体は言うことを聞かない。


「日向くん……」

「必死に努力した父さんも、それを倒れるまで支えた母さんも、誰も救ってくれなかった……!こんなのがあったから……っ!」


 日向は手に持っていたランニングシューズを握りしめて車窓に叩きつけた。


「なんでこんなことばっかり……」


 諦めたように呟いて座席へ体を沈める。伸ばした腕に、渚の温もりがそっと触れた。


「日向くんはもう陸上嫌い?」

「なんですか……?」

「私は日向くんが走ってる姿ずっと見てみたかったよ」

「渚さんに俺の気持ちがわかるわけない……」


 声を出す気力さえ失くし、掠れた喉で答えた。


 夏なのに冷たい空気が肺に流れ込むような妙な感覚。


 気づけば隣に座っていた渚に頭を抱き抱えられていた。


 そこには確かな温もりがある。日向は肩を震わせながら目を閉じた。


 その暖かさに、安心した赤子のように日向は意識を手放していく。


「ごめんね……」


 渚の呟きに、日向が気づくことはなかった。





◇ ◇ ◇


  ぼんやりしていた視界が徐々に晴れていく。


 周囲を見渡して日向はすぐにそこがどこかわかった。


 懐かしい風景。日向の母親が亡くなる前に住んでいた場所だ。


「取り返してみろよ!」

「あははっ!」

「だっせぇ!」


 遠くから数人の騒ぎ声が聞こえた。声のする方へ歩いていくと、そこには公園で一人の少年を囲む同年代の子供たちがいた。


「返してよ……!」

「なんでお前がこんないいもん持ってんだよ」

「お前には釣り合ってないな!」


 明らかに中心の少年に対する嫌がらせ。


 日向はその現場を見た瞬間、胸がズキンと痛んだ。嫌な記憶が目の前の光景とぴったり重なる。


「あれは、俺か……」


 それは幼き頃の日向自身だった。


 取り囲んでいる少年たちが袋に入った何かを投げ合って煽っている。


 日向は泣きながらも必死にその袋を取り返そうと追いかけていた。


「返してっ!返してよっ!」

「足遅いお前がこんな良いシューズ持ってたって意味ねえんだよ!」

「大事なものなの!返してよっ!」


 そうだ。あの袋に入っているのは父からもらったランニングシューズだ。当時人気の出ていたモデルで、プロの選手も愛用するもの。


「お前のお父さん陸上選手なんだろ?」

「テレビで見たことねぇぞ?」

「どうせ遅いんだろ」


 日向を揶揄いながらゲラゲラと笑う少年たち。


 必死に涙を堪えていた日向もついに座り込んでしまう。


 声をかけようと思っても体は動かない。


「こらあぁぁぁーーー!!!!!」


 そこに聞き覚えのある、笛のようなよく響く声がした。


「君たち何してるのっ!」


 遠くから駆け寄ってきたのは一人の少女だった。日向は心臓が跳ね上がるような気分になる。 


「やばい!逃げろ!」


 日向をいじめていた少年たちは逃げていく。


 周囲の少年たちを追い払った少女には間違いなく渚の面影があった。


「君、大丈夫?」

「……」


 日向は泣いている姿を見られたのが恥ずかしいのか何も言わない。


「でも、大事なものに必死になれるなんてえらいよ」

「……ん」


 少女は袋を持ち上げて日向に返した。


「……ありがとう」

「どういたしまして!ねぇ、それ何が入ってるの?」

「お父さんからもらった、ランシュー」

「へえ、かっこいいね!」

「でも、俺足速くないし……」

「そんなの関係ないよ!これからいっぱい練習してあいつら見返してやろう!」

「できるかな……」

「じゃあ君が世界で一番速い選手になるの、わたし応援してあげるね!」


 太陽のように溢れるような微笑みを浮かべた少女は立ち上がって日向の頭に手を置く。


「名前はなんて言うの?」

海風日向うみかぜひなた……」

「日向くんか。私はなぎさ!応援してるからね!」

「うん。俺、かっこいい選手になる!」


 そうして懐かしい光景は霧散するように消えていった。


 結局その後、渚について知るため近所を聞き回ってみたが、わかったのは遠くに引っ越してしまったということだけだった。


 それから母が亡くなり、引っ越しなど忙しない日々に忙殺され、渚のこともいつの間にか忘れていた。


 呼び覚まされた記憶は、突然起こった耳鳴りのように鋭く響き、ぼんやりと滲んでいった。


 目が覚める。目の前にはいつもの海岸が車窓から流れていた。隣を見てもそこには誰もいなかった。


 微かに残る温もりを肩に感じながら日向は一人で泣いた。





◇ ◇ ◇


 その日の夜。日向は放課後、どこへいくともなく砂浜を歩いていた。


 言い知れぬ喪失感に苛まれながら、まとまらない思考回路を波音が、連れ去っては押し返してくる。


 ただ一つ分かるのは、自分がしたことは渚に対しての最大の裏切りだということ。


 吐き気を催すほどの後悔が今になって流れ込んでくる。


 彼女の優しさに触れて、自分の甘さを身に染みて感じた。前を向くどころか、無責任に痛みを放棄しようとした。


 体からどんどん力が抜けていく。砂浜に足を取られ膝をついたその時、制服を着た女性のシルエットが浮かんだ。


 顔を上げるとそこには渚が立っていた。夜闇ではっきりとは見えないが、渚であることに間違いはない。


「渚、さん……」


 日向は目を見開いて、その大好きな笑顔をもう一度見れるのだと歓喜した。しかし、薄暗くて判然としない。


「渚さん、ごめんなさい!俺ぜんぶ間違ってた!ずっと渚に頼りっぱなしで……」

「もう大丈夫だよ。日向くんは私に付いてきてくれればそれで良いの」

「……え」


 渚は振り返って海の方へ歩いていく。その横顔が月に照らされ、吊り上がった口角が嫌に不気味に映った。


「渚さん……?」

「行こうよ、日向くん」

「……うん」


 日向は力が入らない体を持ち上げて、まるで操り人形かのように思考を介さず渚の後を追う。


 波が足先に触れても、冷たさ以外に感情が生まれることなくさらに沖へ。


「渚さん。俺が謝るために会いにきてくれたんでしょ?」

「違うよ。ずっと頑張ってきた日向くんには楽になってほしいと思って」


 渚に手を握られ、まっすぐ見つめ合う。


「こんな綺麗な月の下で日向くんに会えるなんて幸せだな」

「うん……。俺もだよ……」

「じゃあ、行こっか」


 渚につられて一歩踏み込んだその時、自分がすでに胸元まで海に浸かっていることに気づいた。


 少し高い波が来れば頭まで飲み込まれてしまう。恐怖で動きが止まる。


「どうしたの?」

「やっぱりやめよう」

「何で?日向くんはもう十分頑張ったよ」

「……違う、違うよ!俺はまだ渚さんに謝れてもいない!」

「それならもう良いって……」

「だから違うよ!それに、渚さんはきっと……もっと違う言葉を聞きたいはず……」

「本人が目の前にいるんだよ?何の冗談?」


 渚が明らかに動揺したように震えて問いただす。


「このまま楽になろうよ!何も辛いことなんてない!」

「違う……っ!お前は渚さんじゃない!」


 日向はキッと渚に似た誰かを睨みつける。


「どうしてそんな目で見るの……?勇気がない日向くんの背中を押してあげようとしただけなのに」

「黙れっ!」


 鋭く叫ぶと、女は冷たい表情に戻り「そう」と小さく呟いて、いつの間にか消えていた。


 日向は幻覚を見ていたんだと冷静になって悟る。こんなものを見せられなければ渚への本当の気持ちにも気づけない自分が殺してやりたいほど憎かった。


 このままでは到底自分を許せそうにない。しかし、ここから先に足を踏み込む勇気もない。


「あああぁぁぁーーーっっっ!!!」


 日向は水面を何度も、何度も、指先が痺れるほど叩いて泣き叫んだ。


 空っぽの慟哭はやはり寂しく響き、波音に吸い込まれていった。




 水平線から朝日が昇っていた。どれだけそうしていただろうか。


 日向は砂浜で膝をつき、ただ海を眺めていた。そんなことをしても、自分の情けなさを許せるはずがないとは分かっていても。


 もしくは、もう一度だけ会えたなら……。


 日向は渚の笑顔を思い浮かべて、もう彼女に会う資格など無いと砂を握りしめて自分を戒める。


「会いたい……。会いたい……。会いたい……」


 潮風で乾燥した肌に、こぼれ落ちた涙が滲みた。


 その時、聞き慣れた音が聞こえて振り返る。規則的に線路を叩く車輪の音。日向が毎朝通学で利用する電車。


 気づけば日向は駆け出していた。痺れていた足は砂浜に取られすぐに転ぶ。


 それでもすぐに立ち上がり、もがくようにして前へ進んだ。何度転んでも足を踏み出し、線路沿いをひたすらに走った。


 日向の脳内は厄介な思考など全て取り払われ、渚のことしか考えていられなかった。





◇ ◇ ◇


 ついに電車に追いついた日向は、無人の改札を飛び越えて、出発のベルが鳴り響くホームを駆け抜けた。


 無心で車両に乗り込み乱暴に閉まる扉の音を背後で聞いた。


 車窓から覗く海は陽光を反射させ、宝石を散りばめたような希望で満ち溢れた光景を創り出していた。


 死にそうなくらい息を切らしながら顔を上げる。そこには、まさに仰天という言葉がふさわしい表情で座る渚がいた。


「ど、どうしたの日向くん……!?」

「渚さん、昨日はごめんっ!俺が間違ってた!」

「うん、それはわかったけど……びしょびしょだよ……?」


 渚は困惑を強めて日向の濡れた制服を眺める。


「俺ずっと渚さんに甘えてた!でも、いつまでも心地いいだけじゃだめだって気づいた!今だって怖いよ……。辛い時、支えてくれる人に頼りすぎてしまう自分が嫌だ!」


 日向の真っ直ぐな瞳を見た渚は、もういつものように優しい笑みを見せていた。


「だから、大好きな渚さんから俺は卒業します!」

「そっかぁ。実は私って心配性なところがあってね。だからこうしていつも君と同じ朝を迎えてたのかもね」

「これからは渚さんに安心して見てもらえるように頑張ります!」

「いつも腰が引けてる日向くんにしてはかっこいいじゃん」


 ニヤリと笑った渚は腰に手を当てて立ち上がる。


「っていうかさっき、さり気なく告白した……?」

「いやっ、それは……忘れて!」

「なんだ、いつもの日向くんじゃん!」


 けらけらと笑った渚は日向の正面に立って、溢れるような笑みを見せた。


「それで、他にも言うことあるんでしょ?」

「渚さん……今までありがとうございました!」


 頭を下げた日向はじんわりと瞳に涙が溜まっていくのを感じて、顔を上げられずにいた。


「やばい、潮風が……」

「もう、君はそうやってすぐ泣くんだから。昔と変わらないね」

「泣いて、ないですから!」

「ほら、遅刻しちゃうよ。今日くらいちゃんと登校したら?」

「はい!」


 涙を拭った日向は最後に、曇りない渚の笑顔を焼き付けて、歩き出す。


「さようなら」


 電車が停止する。扉が開き、肩越しに振り向くと、もうそこには渚はいなかった。


 代わりに渚がいつも座っていた席に小さな紙切れが一枚置いてあった。


 日向は駆け寄ってそれを拾い上げる。


『またね』


 爽やかな潮風が車内に流れ込み、渚の置いていった紙切れを巻き上げる。


 日向はそれを掴み、車窓からの綺麗な景色を眺める。


 初めて一人で見たそれは、思っていたよりずっと好きになれそうだった。





◇ ◇ ◇


 五年後。


『長かった。真っ直ぐに前を見つめて走り続けてきた努力が今、奇跡となって実を結びます!』


 テレビから流れてくるのはひたすらに走り続ける選手たちと、熱く語られる実況の声。


 誰もが見たことのある画面の中で彼は、泥臭く、不恰好でも、歯を食いしばって走りつづけていた。


 たった一人、胸を張って思い出したい笑顔をがあったから。


『〇〇大学四年生主将、海風日向うみかぜひなた!四年間の悲願を果たします!今、ゴールテープを切ったーっ!!!○時間○○分○秒!大学生記録を大幅に塗り替える凄まじい記録!日本陸上界に新星が生まれた日です!』


 誰かはきっと、どうしてそんなに必死になるのと問う。


 彼はきっと、大切な人との約束を守るためと自信を持って言うだろう。


『仲間と共に肩を組み合い満面の笑みを浮かべる選手たち!潮風が吹き抜けています!』

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