第6章

 甲州街道が境目であった。以北はかなり荒れていた。

 そこそこ人口が多かったため、土像兵の襲撃も頻繁だった。更に近隣には超人も勇者も不在という不幸な地域だった結果、ゴーストタウンと化してしまった。

 瓦礫に塞がれた道を迂回し、隠れ住む暴徒をかわし、周遊する《ハニワ》との無駄な戦闘を避けている内、無益に時間だけが過ぎていった。

 当初の目的である深大寺への道を見つけた時は、マサムネは感動で涙が出そうになった。

 しかし中央自動車道が崩れて先が閉ざされたことを知った時もやはり泣きそうだった。

「通れるとこ探すだけ」

 ロキシーは全く動じることなく、中央自動車道に沿って調布インターチェンジ方面へ歩き出した。マサムネは肩を落としながらそれに続いた。

 アツヒメの依頼を受けてからもう三日。本来であればもう終わっている簡単なものだ。

 ――要は、この手紙を持って、調布市にある深大寺へ行って、和尚に届けるんだ。読み終わるのを待って、返事をもらうのだ。ただこれは紙ではなく、口頭で受け取るのだ。だが、その途中で事件に巻き込まれても関知しないから、切り抜けてちゃんと帰ってくるのだぞ――

 とはアツヒメの言葉だ。相変わらずの長い要点であった。

 この依頼の報酬は『冒険者を雇う資格をアツヒメが推薦してくれること』だ。

 つまり特例らしいが、ロキシーを雇うことが出来る。

 そのため、マサムネは一時的にアツヒメのチームへ入ることとなった。

 高架下には瓦礫が積まれていた。無造作に寄せられているように見えるが、先へ行くのを阻む意図も強く感じられた。

 中央自動車道に沿って進んでいくと、川が見えた。水の音も聞こえた。

「川の中に入って北上できれば――」と川原へ降りたが、高架下はやはり瓦礫で埋まっていた。ただ、川の水だけが通れるように隙間が開いていた。

「完全に作為的だな、これ」

 マサムネの文句に答えず、ロキシーは川を渡り、道路へ上がった。

 その道は中央自動車道と交差する。高架下へ割れたアスファルトが続いていた。

 ロキシーが小さくマサムネの名前を呼んだ。

 やっと向こう側への通り道が見つかったのだ。

 いや。ロキシーがマサムネを待っていたのは、もう一つ理由があった。

 確かに道は繋がっている。暗く光を拒否するかのようなトンネルの向こうに、別世界のような強い光を放つ出口が見えた。

 問題はそこで仁王立ちになって行く手を塞ぐ人影であった。

 マサムネとロキシーは言葉を交わすことなく、躊躇いもなしにトンネルへと足を踏み入れたのであった。

「ここから先は通行止めだよ。とっとと引き返すんだね」

 途端に声がトンネル内へ侵入してきた。有無を言わせぬ語気があった。

 逆光であったが、暗い隋道内で距離が縮まった分、影の細部が見えてきた。

 中年ではあるが、無駄のない締まった身体つきと雰囲気に見覚えがあった。

「ロキシー?」

「起きてる? あたしはここ」

「でも、ほら」

 ふんわりした髪質と、狸顔、そして体型が似ていた。ロキシーに比べると精悍さがかなり強い。右肩に盾を背負っているのも相似性の原因だろう。

 大きな違いは、影には左腕が二の腕の途中からないことであった。

 そっくりだという認識を共有しようと、マサムネは顔を覗き込んだ。

 ロキシーの表情は奇蹟でも見ているかのように、驚愕と感激を綯い交ぜにした複雑な顔付きになっていた。

「何をしている。とっとと引き返せ」

「お母さん――」

 マサムネが訊き返すより先にロキシーが走り出した。

 出口の手前で止まると、訴えるように叫んだ。

「お母さん、あたし。知麻里!」

 息を呑むような間が、ある意味ロキシーの言葉を肯定していた。

「悪いが人違いだ。とにかくそのトンネルを出るな」

「いや。お母さん。たった七年でお母さん見間違わない」

 マサムネはもう少し容姿が確認できる距離まで近付いた。

 光に溢れたトンネルの外側にいる彼女とロキシーとの差異を探す。

 顔に刻まれた皺や目付きの鋭さなどは年季の違いであろう。身長も低くがっしりとして、腕や腿で浮き上がる筋肉の束がより戦士的だというのが分かった。

 動こうとしない片腕の影に、ロキシーは戦士になったわけと覚悟を少ない語彙に込めた。

「全てお母さんを探すため。お母さんの情報を得るため」

「何度も言うが、わたしはお母さんじゃない。こっちは異獣レベヤタンの領域。入ったら出られなくなるぞ」

「それは逆効果だよ」

 マサムネが応えた。

「何?」

「わかった。その異獣を倒してお母さん解放する」

 言い終わる前にロキシーはトンネルを出ていた。

「――バカが」

「一緒にそいつを――」

 片腕の女はロキシーへ盾で体当たりした。

 冗談のように勢い良くロキシーは吹っ飛んで、そのまま動かなかった。

「一撃?」

 マサムネもトンネルを抜けてロキシーへ駆け寄った。

 ロキシーは気絶しただけのようだ。

「お前まで――」

「パートナーを目指すものとして、見捨てられるわけがない」

「パートナー?」

 片腕の女が殺気を放った。

 感じたことのない気概に、マサムネは剣を抜き放っていた。

 しかし、剣は盾で別方向へ向けられていた。

「速い――」

 そう思った時には既に、片腕の女は内側へ回りこんでいた。身体を捻りながら背中でマサムネを持ち上げるように跳ね上げた。そのまま前へ投げられた。いわゆる背負い投げだが、どこも掴まれていないのだ。

 受身を取る間もない素早さで、マサムネは地面へ叩きつけられた。

 気を失ったことを、マサムネは夢の中で知る――

 投げられる直前、マサムネの剣を持つ腕を抱え込めば、角度は急になり、地面には頭から落とすことも可能だったが、そうしなかった。あの時の殺気は本物だったのは、『パートナー』という、受け取り方によっては『結婚相手』になる言い回しが原因だ。

 恐らく片腕の女はロキシーの母親で間違いない。娘の相手として否定しながらも、ロキシーを想う気持ちが、攻撃を緩めたところに出ていた。

『これが母親なんだな……』

 マサムネのちぐはぐな家族関係の中、一番遠く感じるのが実母であった。

 母と子の絆は思う以上に強い――実際マサムネが触れたことの無い感覚だからこそ、信条となっている。

 片腕の女性はその信条に適っている。

 マサムネが名家である伊達の屋敷を出た一番の原因は母親である。追い出されたといったほうが正しい。本当の息子であるにも関わらず、その視線は他人を見る以上の冷たさを伴っていた。

 それは夢の中でも変わらなかった。幼いマサムネが必死に声を掛けても、暗闇に浮かぶ母親は、ただ真っ直ぐに冷淡な目を向けているだけであった――

 目が覚めると、見知らぬ天井があった。コンクリートの見栄えしない視界だ。

 身体を起こすと、二十畳ほどの広さに雑魚寝させられていたことが分かった。どこかの雑居ビルの一フロアーらしいと想像がつく。何もないので余計に寂しさが増した。

「……ロキシーぐらいはいて欲しかったな」

 さすがにブーツに付いたレジェンダリーウエポンは分からなかったみたいだが、武装は解除されていた。それでも幽閉はされておらず、唯一のドアにも鍵が掛かっていなかった。

 ドアを出るとすぐに踊り場だ。人がやっとすれ違えるくらいの階段が下へ伸びている。

 三階建ての最上階だ。急な階段を降りながら、途中のドアを確認したが、鍵が掛かっていた。中に人の気配も無い。

 下まで降り、アルミ製のドアを開けて外へ出た。

 未舗装ながらもメインストリートらしい広い道が正面にあった。オフィス街のようだ。マサムネがいた建物と同じようなビルが道なりに連なっている。しかしゴーストタウンのように静まり返り、人の気配はない。

 広い道に三人しかいなかった。

 そのうちの二人はロキシーとその母親――片腕の女であった。

 道の真ん中で柔道をしている。というより、ロキシーが一方的に投げられていた。しかし虐められているわけではない。本気で組みかかる娘を、あしらうように母親が地面へ放り投げているのだ。地面に転がってすぐ、ロキシーは立ち上がって、また繰り返す。

「何やってんの?」

「勝ったらレベヤタンと戦わせろ――だって」

 建物を出たすぐ横に三人目がいた。必然的に隣に立つことになる。マサムネの独り言に近い問いに、その少女らしき女性は普通に答えてくれた。

 頭の両脇で髪をくくっている様が似合う声であった。

「ワタシはガエル。彼女は――ソルベッド」

「ふうん」

 コケティッシュでネコのように大きな目は親子乱取りに向いたままだ。

 マサムネも、投げられては立つパートナーを見学している。

 三セット繰り返されたのを見た後で、ガエルが言葉を継いだ。

「……で、君たちは?」

「ああ。名前か」

 本気で忘れていたマサムネに、ガエルがネコのような表情に苦笑を加えた。

「私はマサムネ。彼女は知麻里ちゃん」

「ロクサリーヌ!」

 地面で大の字になりながらも、名前を訂正する余裕はあるらしい。

 ガエルは苦笑を強めた。

「マサムネ――……というと名家なのか」

「名前だけだ」

「ふうん」

 二人は並びながら、また親子の仲良し柔道を眺めていた。

 五セットまで我慢したようだ。痺れを切らせたようにガエルが切り出した。

「なあ」

「なんだ」

「聞いて欲しかったら訊くけど?」

「いや。別に?」

「チェッ」

 会話の隙間を縫って、ソルベッドが年季の入った声で言った。

「お前たち二人はここでは戦士じゃない。コードネームは使うな」

「何故だ?」

「詳しいことは言えない」

 答えたのはガエルだ。

「あ、そう」

「それでいいんだ……」

「逆に聞くけど」

 マサムネは懐から手紙を出した。

「うん」

「私はこれを深大寺に届けに行ってくる」

 ガエルは大きな目を向けたまま続く言葉を待っていたが、それでマサムネの会話は終わっているとやっと気付いた。

「え?」

「気にしないで。訊いてないから」

 と、ガエルに言ってあげたように見せ、ロキシーはソルベッドの隙をついて迫ったが、やはり呆気なく投げられた。

 地面に転がったロキシーに目もくれず、ソルベッドがマサムネに近付いた。

「マサムネ、それを見せてみろ」

 手紙を渡すと、ソルベッドは封を開けた。中を見て、ソルベッドの顔が珍しく不愉快そうに歪んだ。表情を崩さず、依頼主は誰かとマサムネに尋ねた。

「アツヒメさんだ。深大寺の和尚にそれを渡せって」

「あそこは一帯が破壊されて寺そのものがない」

「なら私は誰にそれを渡せば――」

「もうこれは用を終わらせている」

 封筒から二枚の紙を取り出して見せた。

「この街への招待状だ」

「なんだ、それ」

「ここは異獣レベヤタンが作った空間。出るにも入るにも、あいつの許可が必要なんだ」

 説明したのはガエルだった。

「許可を貰ったつもりはないぞ」

「家族の代表として数十人が結界の外へ出してもらっている。外から二人の人間を引き入れたら、家族が一人解放される」

「招待状はその約束手形だ」

 ソルベッドとガエルが、マサムネが既に許可を受けていることを説明した。

「アツヒメさんの家族がここに?」

「この町の出身者から手に入れたんだろ」

 この会話の間にも後ろから跳びかかったロキシーだったが、ソルベッドに容易く投げられていた。

「私は何のためここに?」

「あたしのミッションはガエルを探すこと」

 ロキシーが地面に寝転がったまま言った。

 マサムネの視線を受け、ガエルが小さい肩をすくめた。

「ワタシはアツヒメチームの戦士だからな」

「じゃあミッション終了だ」

 マサムネの言葉をロキシーが否定した。

「ここから出るまでがミッション」

 立ち上がったロキシーは再びソルベッドへ組みかかった。

「そのために異獣を倒す」

 ソルベッドに呆気なくいなされ、ロキシーは投げられた。

「お前たち二人には戦士でいられたら困るのだ」

 ソルベッドは無いほうの腕をかざして見せた。まだ完治はしていないようで、包帯には血が滲んでいる。

「引き込んだのが戦士だと町の人が犠牲になる」

 ガエルが目を逸らした。

「――その腕はワタシがレベヤタンを倒そうと乗り込んできたせいで……」

「何でそうなった」

 珍しく狸顔の眉間に皺が寄っている。

 ロキシーが怒っている。

 説明を始めたのはソルベッドであった。

「三年前、わたしは相棒のオーギーと共にここへ引き込まれた。レベヤタンを倒そうと戦ったのだが……負け、オーギーは――目の前で喰われた」

 短い言葉の中に凄惨な戦士の結末が込められていた。

「生かされたわたしは、町の人を守ることに専念した。余計な人員を増やさないように、戦士を引き込まないように――」

 唯一の入口であるトンネルの前に立ち、進入を阻んでいたらしい。

「なんでガエルは入ってしまったんだ?」

「探してたんだ。……父親を」

 ロキシーはそれだけで察したようだ。

「オーギーが父親?」

 ガエルは頷いた。伏せた目の周りで長いまつ毛が揺れている。

「ワタシは仇を討とうとしたが、全く勝負にならなかった」

「その左腕は戦士を引き入れた報いだったのか……」

「わたしが守ったのは町の人だ。これで済んだ――と思えば安いものだ」

 ソルベッドが誇らしげに微笑んだ。

「それが私たちの武装を隠した理由か」

「だからお前はマサムネ、お前は……知麻里だ」

 ロキシーは納得した顔をしていない。

 雇われ戦士歴が長いロキシーは基本的に従順だ。理不尽の度が過ぎなければ、提案に反対することは無い。それが反抗意識を隠そうともしてない。相手が母親だからか、それとも理不尽と捉えているのか。どちらにしろ珍しいといえば珍しい。

 マサムネはパートナーとして、滅多にないロキシーの主張を尊重し、異獣と戦う意思を示そうとした。

 その時であった。

 まずマサムネとロキシーが気付いた。遅れてソルベッドとガエルが、二人の視線と同じ上空を見上げた。

 大きな翼を持った生物が浮かんでいた。人ならざる体型に、長い尻尾。肩と膝から突き出た角と太い爪。肌の質感から爬虫類を思わせた。

 すうっと重力の枷を無視し、ゆっくりとそれが降りてきた。

「あれが――」

「異獣――」

 マサムネとロキシーが初めて見る敵の姿であった。

 突き出た鼻先が大きく裂け、牙を覗かせている。赤い目は二対、頭部の後ろから太く捻れた角が伸びていた。

「そうだ。レベヤタンだ」

 ソルベッドが堅い声で言った。

 お伽話にでてくる竜が二足歩行になったかのようだ。三本指の足が地面へ着いた。二メートルを軽く超えた位置から、四つの目が睥睨してくる。

 確かにいるだけで押されるような圧迫感は、土像兵にはないものであった。

「その二人か」

 低いが、意外と普通の声が獣の口から出てきた。

「そうだ」

「戦士だったら残りの腕がなくなるぞ」

 レベヤタンの視線がロキシーからマサムネへ移動してきた。

 ロキシーが仕掛けようとしているのが分かる。ガエルが冷や冷やして見ている。恐らくソルベッドも気付いている。

 パートナーがやるなら私もだ――と、マサムネはレジェンダリーウエポンを確認した。

 素早さで翻弄している間に、ロキシーが体術で攻めるだろう。そうしたらソルベッドもガエルも放っておけないから戦いになる。

「武器がないだけで戦士じゃないとは言えないからな」

 レベヤタンが挑発するようにソルベッドを見た。

 今だ――踏み出そうとした一歩が重く、地面に吸いつけられたように動けず、躓くように倒れてしまった。レベヤタンに土下座した形だ。

 ロキシーだけじゃなく、ソルベッドたちも驚愕の表情でマサムネを見た。

「どうした? 怖れで足をもつれさせたか」

 レベヤタンが歩み寄ってくる。

 危険を感じ、避けようとするが、やはり地面へ吸い付くように倒れこんだ。

「ただの人間か。つまらん」

 やっと四つん這いになった所で、マサムネは尻尾で弾き飛ばされた。

「マサムネくん!」

 吹っ飛びながらロキシーの声を聞いた。返る尻尾がロキシーへ向かったが、ソルベッドが庇った。ソルベッドの背中をムチのように尻尾が打ち、痛みを堪える声がこぼれる。

 ガエルが近寄ろうとしたが、レベヤタンの一瞥で足が止まる。

「やるか?」

 侮蔑を含んだ視線だが、ガエルは無言で膝をついて、抵抗の意思が無いことを示した。

「命拾いしたな、お前ら」

 レベヤタンが今度は上空へと浮かび上がっていった。どういう仕組みか。ビルよりも高い空で、レベヤタンが羽ばたいているだけど、宙に留まっていた。

「引き込んだやつの家族を解放せんとな」

 鼻を動かしただけで特定できたようだ。

「この招待状の臭い……。ああ、こいつの家族は全員死んでるじゃないか。知らずに今も働いとるとは勤勉な奴だ」

 嘲るように笑いながら、レベヤタンは飛び去っていった。

「上手くいったようだ」

 その姿が完全に消え、路上にマサムネたちだけになったのを見計らって、ソルベッドが言った。

 どうやらこの通りは、招待者とレベヤタンが会うための場所らしい。人の気配が他にないのはそのせいだ。

 ガエルがマサムネに歩み寄って立ち上がるのを手伝った。

「動けなかった……」

「分かる。あの威圧感だから、しょうがない」

「そうじゃなくて。足が重くなって――」

「力の差が分かることも戦士として必要な技量だ」

 ソルベッドもフォローをした。

「だから違うんだって――」

「マサムネくんのバカ」

 ロキシーが珍しく感情を露に言い捨てると、商店街のほうへ走り出した。

「知麻里ちゃん――」

「ロクサリーヌ!」

 マサムネの呼び止めを否定する声が、夕暮れの町を遠ざかった。

 今は『ロキシー』と呼ぶことを容認してくれているが、コードネームを大事にしている理由が、ここへ来て分かった気がした。

 すぐに三人も移動を始めた。ソルベッドの家と、ガエルが世話になっているのは近くで、商店街の向こうだという。

 ロキシーは既に場所を知っているから、先に家へ向かっているはずだとソルベッドは言った。

 さっきのゴーストタウンのようなオフィス街とは打って変わり、商店街は賑やかであった。こういう逞しさは、結界の外も中も変わらない。

 異獣や土像兵の脅威に怯えつつも、日常は積み重なるものなのだ。

 アーケードは道二つを跨ぐ距離に、食料品店を中心に展開していた。結界はあっても物品のやりとりは出来るらしく、畑も結界内にあり、物には不自由していないとガエルが説明してくれた。

 晩御飯の買い物をする人の間をすり抜けるように進む。

「よお、ロク――ソルベッド。元気か」

「そいつが入ってきたよそ者か」

 八百屋の夫婦が気さくに声を掛けてくる。意外と店先には新鮮な野菜が並んでいる。

「ロクサ――じゃない。ソルベッド、あいつ又来てたんだな」

「大丈夫、もう帰った」

 そば屋の若店主にソルベッドが答えた。

 しばらく進むと、揚げ物屋の店主が出てきた。小太りな店主のふくよかな手には、紙袋が二つ持たれている。

「これ注文のカツ。三人前だ」と一つをソルベッドに渡し、「こっちはカレーコロッケ五個」と残ったほうをガエルに手渡した。

「いつもありがとう」

「おれたちにはこんなことしか出来ないからな」

 ガエルが笑顔で礼を言うと、再び歩き出した。

「じゃあな、ガエル。えーと……何だっけ?」

 悩む店主を残し、マサムネたちは商店街を後にした。

「……何?」

 よほど決まり悪そうな表情を浮かべていたのだろう。ガエルがマサムネへ詰問した。

「頑張ったんだなあと思ってさ」

 それで二人は全てを察したようで、マサムネから顔を逸らすように前を歩いている。

 恐らく、マサムネとロキシーが気を失っている間に画策して、ロクサリーヌという名前を出さないように町へ触れ込みまわったのだろう。その涙ぐましい努力を、マサムネはあの一言に込めたのだ。

 ソルベッドとガエルは無言でその賞賛に堪えた。

 やがて道は民家の立ち並ぶ地域へと入っていった。平屋が連なっているが、見るからに空家も多かった。後から来た人がこの辺りに居を構えるらしく、増えもせず、減りもせず。町の風景はこの調子で変わっていないそうだ。

 三年前にソルベッドは、町の外れの一軒家を譲り受けたらしい。

 ガエルは二件隣で一人暮らしをするおばあさんの家に厄介になっていた。ソルベッドが来る前に、息子が結界外へ出ている。犠牲者を引き入れておばあさんを救うために。

「それって……」

 三年以上も音沙汰が無いというのは、最悪な想定しか浮かばない。

「外で死んだか、それとも――」

 さすがにその続きを言葉には出来なかった。

 実の肉親を見捨てる行為ができるはずがない、と思っていたいからだ。

 どんな状況でも人は生きていける。しかし、信頼を失っては立てず、孤独では夜を越えられないものだ。この戦士も例外ではない。

「お前は……あの娘とどういう関係なのだ?」

 やはり母として気になるらしい。

「ロキシーと――……何だろう」

「馴れ初めは?」

 ガエルが助け舟を出した。

「『綺麗』な背中に一目惚れしたのだ」

「せ――なか……?」

 ポーカーフェイスなソルベッドが珍しく顔を引き攣らせている。

「顔とかじゃないんだ」

「逆に聞くが、人を見初めるのに理由はないんだ」

 ガエルが宙を睨みながら言葉を反芻している。

「訊いてないのね」

 やっと分かってきたようだ。

「一緒にいたいと思って、ロキシーを雇うためにアツヒメさんに推薦してもらうんだ」

「そう」

 マサムネの真っ直ぐな感情表現は、慣れない少女たちを刺激する。

 ガエルも例外ではないようだ。頬が桃色なのは夕刻の空気に触れただけではない。

 町の外れの住宅街は、昔ながらの長屋みたいなイメージを持っていた。門限近く帰ってこない家族を外で待つ姿がまだそこにある。

 ガエルがお世話になっているおばあちゃんだった。ガエルを認めると温和そうな顔を更に崩した笑みを浮かべた。本当の祖母と孫のように並んで家に入っていった。

 ソルベッドの家の前では、玄関前にしゃがみこんでロキシーが待っていた。

 商店街で手に入れたカツで晩御飯を食べている間も、ロキシーは一言も口を聞かなかった。マサムネが話しかけても何も応えてくれなかった。ソルベッドもだんまりを決め込んでいるので、三人もいるのに静かな家であった。

 気まずさにくじけるマサムネではない。

 なんとお風呂に入ったロキシーを突撃したのである。

「背中を流してやるぞ、ロキシー」

 ちょっと広めの洗い場とステンレス製湯船を遊び回る湯気が視界を覆ってきた。

 湯船につかっているロキシーは全く反応しない。

「まだ怒ってるのか」

 マサムネは遠慮なく湯船へ歩み寄った。

 お湯で濡れ、温まったタイルの床を裸足で進む。

「あれは足に重石を付けられたような感じで――」

「怒ってない」

「そうか。良かった」

 風呂場のしっとりとした空気を感じながら、マサムネは湯船の近くでしゃがんだ。

「考えてた」

「何をだ?」

「どうしてお母さんはお母さんだと認めない?」

 堰を切ったようにロキシーの口から言葉が溢れてきた。

「勝手に東京へ来て戦士になったから?」

 ロキシーは戦禍を免れるため東北の養成所に送られていたのだ。

 しかし違うとマサムネは知っている。

「お母さんを解放するため、異獣に戦いを挑むと思ってるから?」

 それはあるだろう。さっきも危なかった。もちろん戦う時はマサムネも一緒だが、思わぬハプニングで動けなかった。

 母親として巻き込みたくない――それはあるだろうが、微妙な違いも感じている。

「あたしはお母さんを探すため戦士になった」

 離れ離れになった親子を繋ぐ糸は、戦うことだったのだ。

「せっかく会えたというのに……」

 その道は平坦ではなかった。苦しみの上に苦しみを重ねるような日々だ。その果てで成就した願いが、ガラスで隔たれ、見えているのに手が届かない。そのもどかしさに感情を持て余しているのだ。

 マサムネはロキシーの名前を呼んだ。

 ロキシーはお湯を吸って重くなった髪をかきあげた。上気した頬を飽和した水玉が転げ落ちていく。中には涙も含まれていた。

 マサムネは今までにない優しい声を出した。

「ならロキシーはここで母上殿と暮らすといい」

「え?」

「そのために戦ってきたんだろ。母上殿と会うために。なら目的は達したんだから、戦士ロキシーはここで相田知麻里に戻ればいい」

 この囁きはきっと彼女にとって心地よいものであったろう。湯気の向こうで、狸顔がいつになく弛緩して微笑んでいる。

 しかしため息を一つ洩らすと、揺らぐような間を振り切るように、ロキシーは答えた。

「それはできない」

「何故さ」

「戦士として、今まで守ってきた人たち、守りきれなかった人たち、これから守らなければならない人たち――もう背負ってる」

 凛と言い切った。

 マサムネは頷いた。

「母上殿も同じじゃないか?」

 真実の光を見つけたような表情でロキシーがマサムネを見た。

「認めてしまったら、色々な決心が鈍るから出来ないんだろ」

 ロキシーが視線を落として手を見た。新しい生傷と消えない傷が刻まれている。全てが彼女にとって、戦士の誇りなのだ。

 ぐ――と手を握ると、お湯を掬って顔を洗った。

「ありがとう、マサムネくん――」

 マサムネはこの声を脱衣所の外で聞いた。

 襟首を引っ張っていたのはソルベッドだった。廊下まで引っ張り出されてしまった。

「な――何を――してるのだ、お前は――」

「あの流れからいったら、背中を流させてくれたぞ。邪魔をするな」

 呆れ声で本心を告げた。

「年頃の娘だぞ」

 小声だが、かなり焦っているのが分かる。

「心配なら一緒に入ってあげるがいい」

 マサムネの声にはふざけた色は全く無い。

「――なんでわたしが」

 ソルベッドがマサムネから離れた。向けた背中は、娘と似たシルエットをしている。

「罪悪感か」

「何のことだ」

「ロキシーを娘と認めてやらない理由だ」

「娘ではないからな」

「ロキシーが東北の養成所に入れられたのは十歳の時。まだ母親にいて欲しい年頃だ」

 ソルベッドの主張はなかったことにして、マサムネは話を進めた。

「娘を思ってのこととはいえ、戦士でいるために手を離してしまった。あなたはそれを罪に感じている」

「悪いか」

「なら認めてあげればいい。ロキシーはそのこと自体を恨んではいない」

 ソルベッドが振り向いた。

 娘と似た小動物系の丸い目の中で、瞳が細かく揺れている。

「逆に聞くが、母と子の絆は思う以上に強いぞ」

 結局目だけが逃げていった。

「なるほど。決心を鈍らせたくないという理由の方が大事か」

 夜は静かだ。外は息を潜めるように黙り込む。人ならざる者が跋扈する中で眠りにつく怯えは、結界外でも同じだ。ただ支配されている意識が強い分、抵抗する意思も強くなる。

 ソルベッドも例外ではない。戦うと決めたら、揺るがないらしい。

「お前は……どこまで気付いてるのだ」

「何にも」

 マサムネは胸を張った。

「ただ思ったのだ。このタイミングで私とロキシーがここにいることを――」

 迷いも嘘もなく、ただ自分の信じた言葉を告げた。

「もっと頼ってもいいのだぞ」

「敵を前に足をもつれさせて土下座する奴にか」

「うむ――。あれを何とかしないことにはな」

 ソルベッドが笑った。バカにしたものではなく、本気で笑っているようだ。それが数秒で真顔に戻った。

「それなら相方を連れて町を離れろ」

「でも出られないんだろ」

「結界は何とかする。今日入ってきたトンネルまで行っていろ」

 真実だけを伝える表情は、逆に頑なで、これ以上は何を聞いても答えないと、マサムネは判断した。

「分かった。何とか説得してみる」

「頼む――」

 緩むとソルベッドは母親の顔をする。しっかりしているようで迂闊なところは親子だといえる。

「なので、今夜寝室でじっくりと話し合ってみるか――」

「ちょっと待て」

 襟足をがっつりと掴まれた。

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